美しい無意味 ~ 拾われないものたちへ ~
冬の海にきて、ふと思った。
波に削られた小さなガラス片が、
足元で光っている。
砂と一緒に、指で拾い上げると、
思っていたより、ひやりとしていた。
こういうものを、
私は「美しい無意味」と呼んでいる。
咲いて、散るだけの花。
誰にも見られないまま、
ひっそりと咲いて、
ひっそりと枯れていくだけの花。
砂浜の足跡。
波が来れば、
風が吹けば、
きれいに消えてしまう。
さっきまで確かにそこにあったことさえ、
誰も知らない。
波に削られて丸くなったガラス片。
もとは誰かが捨てた破片。
鋭く、危険だったものが、
長い時間のあいだに角を落とし、
今はただ、静かに陽を返すだけのシーグラス。
役目を終えたのか、
はじめから役目などなかったのか、
もう誰にもわからない。
子どもの落書き。
ぐちゃぐちゃの線。
意味も形もない色。
描いた本人さえ、
翌日には忘れてしまうような絵。
冷蔵庫に貼られたまま、
いつのまにか色が褪せていく。
古い手紙。
もう忘れられてしまった誰かからの、
懐かしい言葉。
読み返しても、
何も取り戻せないと知りながら、
それでも、捨てられない手紙。
切手の消印の擦れが、
何度も開かれたことを語っている。
誰もいない教室に差し込む夕日。
使われない机を、均等に照らす光。
誰のためでもない時間が、
そこに静かに積もっている。
黒板の隅には、
消し忘れた白い跡が、
まだかすかに残っている。
レコードの溝が奏でる、曲間のノイズ。
音楽ではないはずの、かすかなざらつき。
今日も、スマホの音楽で済むのに、
レコードに針を落としてしまう。
針先が溝に触れる瞬間、
ほんの小さな「ブツッ」という音がする。
音楽が始まる前の、
「……ガサガサ」という無意味の間を待つために、
わざわざ棚から重い盤を取り出してしまうのかもしれない。
誰に聴かせるでもないのに。
そして、
小説を書くこと。
読んでもらえる保証もない物語。
それでも僅かな期待を祈ってしまう。
手を合わせて、
公開ボタンを押したあと、
画面は静かなまま、何も変わらない。
やっぱり、
誰の記憶にも届かないまま終わる言葉たち。
それでも、
書いているあいだだけは、
世界のどこかと、細い糸でつながっている気がする。
*
「美しい無意味」は、
必要ないことかもしれない。
誰の役にも立たないのかもしれない。
それをあえて、美化して、
大事なものだと言う気もない。
そもそも、
「美しい無意味」は、
役に立つとか、大事だとか、
そんな物差しの上に載せること自体が、
少し違うような気がする。
なくても困らない。
削っても世界は少しも揺れない。
それでも、
それがないと、
胸の奥のどこかが、
わずかに乾いてしまう。
それが、呼吸を続けさせている。
詰まらずに済んでいる。
「美しい無意味」が、
消えない保証など、どこにもない。
賞賛されているわけでもない。
ただ――
損得や効率だけでは、生きてはいけない。
私は、最後の一歩で合理になりきれない。
花は咲き、
足跡は刻まれ、
ノイズは残り、
物語は書かれる。
必要だからでも、
意味があるからでもない。
ただ、そうしてしまうから。
「美しい無意味」は、
定義しなくてもいい。
評価もしなくていい。
誰にも、
気づかれなくていい。
「美しい無意味」が、
偶然拾った誰かの心を、
一瞬だけ照らして――
波にすくわれ、
すぐに流れてしまったとしても。
それでも、
今日もどこかで、
誰かがいる場所に、静かに在る。
そして、このエッセイも。
そう、
それでいい。
【了】




