4話 猪介の話
就業時間を過ぎ、人の出入りが落ち着いた蒼凛舎。
入社六年目の中堅社員である谷口猪介は、Curtain Riseへ異動して久しい今でも、定期的に蒼凛舎の資料庫を整理していた。
「ーーぃ!!………ち!」
ポートフォリオを年代ごとにファイリングしていると、遠くから誰かの声が響く。
「谷口!こんなところにいたのか!」
呆れた顔で見下ろすのは、如何にも営業マンと言った風貌の男だった。
「お疲れ様です。」
「お前、退勤切ってないよな?」
「切りましたよ、これは業務ではないので。」
猪介は丁寧にファイルを棚に納めると、棚の上段に散らかった書類に手をかける。
「あー!それ!終わり終わり!後にしろ!」
男性が猪介の腕を乱雑に掴んだが、物ともせず書類を揃える。
「なんすか」
「社長がお前をお呼びだ!」
「俺を?」
「とにかく行ってこい!あとお前、これは業務だぞ。今度から部長に許可取って残業つけろ」
男性は几帳面に並べられたファイルを指差しつつ、猪介を強引に資料庫の外に押し出す。
なすがままの猪介は埃でざらつく手を払っていた。
「社長室ですか?」
「おう、行ってこい。お前に限って悪い話じゃねぇだろ。」
「…どうすかね。」
いいから行ってこい!とエレベーターホールまで背を押された猪介は、手を洗いたかったと思いつつ上階行きのボタンを押し込む。
エレベーターに乗り込み、ドアが閉まる直前
「大出世かもな!」
とはにかむ男性に、猪介は顰め面で応えた。
「…」
猪介は手の不快感を拭えぬまま、社長室の厳かなドアを四度叩く。
「ああ、入りなさい。」
中から壮年男性の声が響くと猪介はドアノブに手をかけ押し開く。
「失礼致します。お呼びでしょうか」
ドアが閉まり切る前に猪介は発言した。その様子に壮年男性・工藤は苦笑いを浮かべた。
「すまないね、急に呼び立てて。」
「いえ、ご用件は」
社会人らしい丁寧さは崩さない。しかし、どこか面倒臭さが滲み出る猪介の態度に、工藤は込み上げる笑いを押し殺していた。
「…谷口くん、すまないね。君を落ち着かせる場所がなくて…」
「いえ。」
「君はうちにいた時でも管理部、営業部…行く先々で評判は上々だ、」
「ありがとうございます。」
言葉を待たずに返答する猪介に、ついに笑いが堪えられなくなった工藤は「はははは!」と大口を開けて笑った。
猪介はなんだこいつとでも言いたげに、冷ややかな視線を向けている。
「…君はねえ、もっと出世欲を持たないか?営業、同行して契約取ったんだろう?」
「いえ、あれは茂木先輩の下準備があってこその成果ですので。」
「先方は君にと話したそうじゃないか」
「たまたまです。茂木先輩あってこそです。」
工藤は微動だにしない猪介に、呆れ気味なため息を吐いた。
「君はね、少しは向上心をー」
「申し訳ございません。以後、精進して参ります。ありがとうございました。」
猪介は深く頭を下げると「失礼致します。」とドアに向き合う。
「ああ!待て待て!」
工藤の呼びかけに猪介は渋々振り返る。
「なにも説教のために呼んだわけじゃないさ。」
「……」
猪介が心底迷惑そうな顔を浮かべると、工藤はこほんと咳払いをした。
「手短にね。わかっているよ。」
おおよそ雇い主に対する態度ではない猪介を物ともせず、工藤は続ける。
「Curtain Riseで新規ユニットを立ち上げる。君にはマネージャーをお願いしたい。」
「平井さんから伺っております。一年早まったんですね。」
「早めざるを得なかったんだよ。」
「そうですか。承知いたしました。任命いただき、ありがとうございます。精一杯尽力ー」
話を終わらせようとする猪介を、工藤は「待ちなさい。」と一声で制した。
「こんな用だけなら呼びつけたりはしない。」
「はい。」
「…うちの酉脇城をそちらでデビューさせる。」
「とりわき…なんとか、ってその。ここの看板ですよね?ホームページとかにもデカデカと載ってる…」
「酉脇城。うちの代名詞と言ってもいい。」
「…ならなぜCurtain Riseに?」
工藤は椅子に深く座り直すと、夕日の差し込む窓を見つめる。
「…私たちは、彼を大事にしすぎた…」
「…はい?」
視線を手元に移すと、工藤は静かに指を組んだ。
「あれはね、正しく私の幸せの青い鳥なんだ」
猪介が嫌悪感を隠しもせずに眉を顰める。
「大事に、籠の中に閉じ込めておいたからね。飛び方なんて遠に忘れたと思っていたのに…」
「はは、酉脇だからですか。」
興味のなさそうな冷やかしも無視し、工藤は続ける。
「大切な鳥がどこか明後日の方向に飛んで行って、傷つくのなんて見ていられない。」
「あのー」
「だからね。私は籠を広げようと思ったんだ。」
「…はい?」
「自分は籠の中にいるなんて、気づけないくらい大きく広げたら…きっとそこで楽しく舞ってくれるだろう。 」
「……」
だんだん陰り始めた室内の空気が沈む。
「あー…」
猪介は面倒そうに右の手の甲を腰に当てた。
「要は、新しいことをさせるにも自分の傘下じゃねぇと納得出来ないってことですよね?」
工藤は顔に張り付いた経営者の仮面を割り、一個人として顔を笑みに歪ませた。
「ははは!!君は言うねぇ!流石は今野くんの紹介だ。」
今野の言葉に猪介は殺気に等しい不快感を露わにし
「あいつはどうでもいいんで。」
と吐き捨てた。
「そんな、恩師に向かってー」
「では失礼いたします。」
言葉尻を待たずに背を向けた猪介を工藤は再び引き止める。
「待ちなさい。」
一際低い声、瞳に差し込んだ西陽が怪しく照り返した。
「…なんですか。」
「…」
工藤は猪介の視線がしっかりと自分を捉えているかを確認するように見つめる。
「うちは城に、年間一千万以上の保険をかけているんだ」
「えっ」
猪介は肩を落とし独り言のような、か細い声を吐き出す。
時が止まったかのような静寂。工藤は視線を再び窓に移し、柔らかな笑みを浮かべた。
「…その城にかすり傷一つついたら…わかるね?」
猪介は姿勢を正しつつ
(そんなに大事なら金庫にでも閉じ込めておけよ。)
の言葉を飲み込もうと必死だった。
「せっ、責任持ってマネジメントさせていただきます!」
「…うん。よろしくね。」
「はい。」
猪介のバツの悪そうな顔を一通り楽しむと、工藤は立ち上がる。
「ところで猪介くん。最近何か美味しいものは食べたかな?」
「はい?」
「なんでもいいよ」
「え?なんですか?」
あまりに唐突な質問に、身を強張らせる。
「この歳になると食事も充分に楽しめなくなってねぇ…ついには楽しんだ記憶をも忘れてしまった。それが寂しくてね…」
「?…あー…でもつまんねぇっすよ」
「結構。」
品定めするかのように、自分へゆっくりと近づく工藤に猪介はうす気味悪さを感じていた。
「兄…のうちで食べたカレーすかね…最近だと。」
「カレー?」
「家のカレーって店で食えねぇんで…」
猪介が気まずそうに目を逸らすと工藤は満足そうに微笑んだ。
「そうか。やはり君は、城を預けるに適任のようだ。」
工藤が手を差し出し、猪介はそれに応えた。
あまりにも軽率な握手が交わされる。
猪介はただ、目の前でニヤつく老人と未だざらつきの拭えない手を同じくらい「気持ち悪い」と捉えていた。




