31話 返信
人のまばらな事務所は、近頃の肌寒さも相まって物寂しさを感じさせていた。
Curtain Riseはフレックスタイム制を導入しており、朝から出勤する社員は珍しい。しかし、猪介は毎日九時には出社していた。
特に理由はないが習慣化しているのだ。
彼は出勤早々メールボックスを開く。
そこには新着メールが五通、そのいずれも先日行ったToy Boxのエチュードに関しての返信であった。
そのうち三通は育美からのもので、猪介は受信順から開いていく。
二通は抽象語や専門用語が多く、目が滑った猪介は軽く読み流し、残りの一つを開く。
それは解読を諦めた二通の解説であった。
冒頭には翻訳と記載があり、恐らく先の二通はルミからの転送。これはその内容を育美がまとめたものだと推測できた。
内容を大まかに把握するためにスクロールすると、途中『致命的』と記された箇所を見つけ、猪介はため息を吐く。
「谷口くん大丈夫?」
清水がモニター越しに覗き込むと、猪介は首を横に振った。
「いや…清水さん、聞いていいっすか?」
「え?なになに?」
「一人称ってなんすか?」
「…その感じだと私とか僕じゃない方だよね?」
「おそらく…?角田先輩からのご指摘なんですけど…」
「演劇で言うと、一人称はねぇ…んー…」
清水は猪介の手元を見つめ、考えていた。
猪介が静かに言葉を待っていると、彼女は突然「おはようございます!」と声を上げた。
振り向くと山本が軽く頭を下げており、猪介も会釈で対応する。
山本の返事は、あまり聞き取れなかった。
「うん、今のだね。」
「はい?」
「私の挨拶は三人称、山本さんのは一人称。声の飛ばし方…って言えばいいかな?」
猪介はあっけに取られ、首を傾げた。
「私の挨拶。谷口くんにじゃないってわかったでしょ?だから振り向いたよね?」
「そすね」
「山本さんのは返事だから私たちにってわかるけど、そうじゃなかったら独り言かな?って思うよね?」
「…」
「これが演劇で言う一人称と三人称。二人称は今の感じね、対面の相手と話してる感じ。」
猪介が口元を手で覆うと、清水は柔らかく笑う。
「難しいよね〜私も改めて聞かれるとちょっと考えちゃうや」
「……いや、ありがとうございます。助かりました。」
「いえいえ!…で、育美ちゃんは一人称がなんだって?」
猪介はPC画面と清水の顔を交互に見て、ため息混じりに呟いた。
「…城さんが一人称でしか話せていない…と」
「あ〜それは大変だ。」
「羊太郎は全体的に三人称って書かれてますね…これどうすりゃいいんすか?」
「二人とも仕方がない節があるよね、そういうのって癖だから。」
「癖…」
猪介は眉間に皺を寄せる。
あの日のToy Boxの演技を思い返すが、特に引っ掛かりは感じなかった。
懸命に考えていたが、わからないものは仕方がない。
改めて画面に向き合い、残りの二通を開く。
どちらも平井からのもので、一通目を開くと箇条書きで長所と短所が記されている。
軽く内容を読み進めていると、育美のものと似たような一文を見つけた。
「…平井先輩も同じこと書いてますね」
「だろうねぇ、厳しいこと言うと…致命的だもん」
『致命的』の一言に猪介は視線を落とし、腕を組む。
そこまで言われるようなことなのか、と暫し考え込んでいた。
「…聞こえりゃいいんじゃないっすか?」
「だめ」
清水の即答に猪介は狼狽えたが、彼女は諄々と続ける。
「演者が舞台上の人に話しかけてるのか、観客に話しかけてるのか…独白なのか。声の出し方一つで伝わるんだよ、セリフの内容に関わらずね。」
「…」
「酉脇さんは全部独白に聞こえる。観客からすると、誰に話しかけたのかわからなくて戸惑う。これって結構負担だよね?」
「…そすね」
「たろちゃんの全体的に三人称ってのは…伝えたい!って前のめりの子だから、全部が観客に向けて聞こえるんだと思うな。」
「あー…」
猪介は背もたれに体を預け、脱力する。
「良磨さんは多分上手だったんだね。子供相手に先生してたんだろうから、自然と身についたんだと思うよ。」
「…ほぼまんまのこと書いてあります」
「あはは!子供は大人より素直に受け取るからね、自分に言ってるってわからないと聞いてくれないし!」
清水の和かな声を猪介は刺されるような心持ちで聞いていた。
「あ、じゃあ谷口くん。これも書いてない?」
「?」
「武者修行って」
猪介は平井のメールの文末にその文言を見つけた。
「ありますね、なんすか?これ」
「だよね〜世良ちゃんだもんね〜」
「…」
「それ、ヴィエルジュ時代からの十八番なんだ」
「きついやつっすか…?」
猪介が恐る恐る問いかけると、清水は微動だにせず肯定した。
「きついよ!公園とかショッピングモールで公演するの」
「普通じゃないすか?」
「そうだね、ただやるだけならそう。」
清水が緩やかに声色を下げると、猪介は警戒し身を強張らせる。
「でも武者修行は子供向けにやるんだよね。」
「…」
「子供は素直に受け取るからね…忖度なしの反応、結構きついんだよ〜」
猪介は狙いがわかるだけに、相当な苦難になることが予想できた。
想定されるあらゆる不評が脳内を駆け巡り、胸の内にモヤのようなものが広がる。
ネクタイを締め直し持ち直そうとしたが、それを振り切れないまま清水の様子を伺った。
「三人とも美形だし一芸あるから、高校生とかにならそれなりにウケると思う。でも多分、武者修行は未就学児。綺麗かっこいいだけじゃ惹かれないし、派手なパフォーマンスも数回で飽きる…厳しいだろうね。」
「…これすぐやるんすかね?」
「さすがにやらないんじゃないかな。Toy Boxとしての演技ができるようになってからじゃない?」
猪介は肩の力を抜かないまま、視線を部屋の隅へ向ける。
そこにはルミの新作アルバムの宣伝ポスターが貼られていた。しかしToy Boxは、まだ結成発表すらしていない。
「ならまだ先ですね。」
「でもねぇ期間が五年って決まってるから…早めに始めたいよね。」
「…そっすね。」
「これからボイトレとか始まるでしょ?それで改善されることもあるし、単純に発声に慣れてないだけってこともあるから!大丈夫大丈夫!」
清水は軽い口ぶりで励ますが、猪介は訝しげなままだった。
「谷口くんは演劇未経験者だし、みんなもうちょっと優しくしてくれてもいいよねぇ…」
猪介は彼女の言葉を受け流し、視線を落とした。
「…まぁ、仕事ですから。」
そう言い切ると、再び画面と向き合う。
清水はしばらく心配そうに気にかけていたが、彼が集中し始めたのを確認すると普段の業務に戻っていった。
猪介は仮組みしたToy Boxのスケジュールを再検討していた。
ボーカル、ダンス、コンプライアンス教育に加えて演技。
演劇的に言えば『致命的』とまでされる悪癖。
それに気がつけなかった以上、自分が考えるより彼らは低い基準にいると考えるべきだ。
ゆとりを持たせていたスケジュールに、いくつも予定を追加していく。根を上げるのではと思うほどに。
しかし、猪介は「メンタルケアは自分がすればいい。」と腹を括り、マウスをクリックし続ける。
そんな彼の頭にふと、ある考えが過ぎった。
「先輩。ちょっといいすか?」
猪介の急な呼びかけに、清水は驚きつつも笑いかける。
「なにー?」
「先輩ってヴィエルジュの立ち上げメンバーなんですよね?」
「そうだよ、どうしたの?」
猪介は気まずそうに目を逸らした後、覚悟を決めたようにぐっと清水へ寄った。
「……千古座と練習とか…できないですかね?」
「え?」
「うちって特殊じゃないですか?演劇の外部講師呼ぶにも基礎的なことしかできないですし…うちのやり方に慣れるなら…原点である千古座に教わるのがいいと思ったんすけど」
清水は不自然なほど固まった口角を上げたまま答えた。
「……できるとは思う。でも、やめた方がいいよ。」
「……なんでですか?」
猪介を捉えているにも関わらず、どこか遠くを見ているような清水の瞳が小さく揺れる。
「天才がいるから。」
猪介が黙っていると、清水は柔らかく笑った。
「山本さんに聞いたんだけど」
「え?は、はい。」
「…城さんが蒼凛舎の看板になってから、モデル志望の子の離職率7割だって。」
「…」
「天才って、そのくらい毒になるんだよ。私はToy Boxのみんなには続けては欲しい、だから千古座はおすすめしないかな。」
清水はそれを言い切ると自らのPCを見つめ、無機質にキーボードを弾く。
猪介は初めて見る彼女の態度に戸惑いつつも、Curtain Riseへ移籍してきた日のことを思い出していた。
Curtain Rise及びヴィエルジュ・プロダクションの原点は千古座。
しかし、現在は直接的な関わりを絶っている。
(…何かあると考えていいだろう。もっと真剣に考えるべきだった…)
未だ人のまばらなオフィスの中、猪介は静かに自らの浅慮を反省していた。




