3話 ハミガキとマグカップと絶対領域と
昨日のことを思い出す。
帰る前、洗面台でゴソゴソしていたのは見たけど、正直たいしたことじゃないと思っていた。
でも、今朝――そこにピンク色の歯ブラシと、キャラクター柄のマグカップが並んでいるのを見て、僕は思わず固まった。
普通なら、驚いて当然のはずだ。
なのに僕はもう声すら出ず、受け入れている自分に気づいてしまった。
嫌とか困るとかじゃなくて、妙に自然で……なんなら、もう一本歯ブラシ立てを買うか本気で考えてしまったくらいだ。
――いやいや、今の僕にそんなことを考えている余裕はない。
なんせ、今日は星川さんと買い物に行くのだから。
十中八九、荷物持ちなんだろうけど――。
それでも、行かない選択肢はなかった。
そんなことを考えていると、星川さんからNyaineにメッセージが届いていた。
『ちょっと今外出れる状態じゃないから、ウチ、隣だし開けてるから来てくんない?』
……隣? そういや彼女、同じマンションの隣の部屋だったっけ。
この一ヶ月、僕の部屋にばかり入り浸っていたから、つい忘れていた。
外出できないって、風邪でもひいたんだろうか。
いや、あの調子のいい彼女がそんな簡単に寝込むとは思えない。
なんだか胸の奥で嫌な予感と、妙な緊張感が同時に広がった。
スマホを握ったまま、しばらく考える。
――いや、考えても仕方ない。
とりあえず行くしかないだろう。
僕はジャージのままスリッパを履き、隣のドアの前に立った。
ノックをしようとしたその瞬間、扉が内側から開いて――
思わず、息が詰まった。
床には散乱した服の山。
ドアの向こうに広がっていたのは、目を覆いたくなるほど雑然とした光景――いや、よく見れば、それらは全部洋服だった。
そして、部屋の奥。
姿見の前で、星川さんがシャツを半分脱ぎかけたまま立っていた。
上はキャミソール、下は短めのデニム。
手には二着のトップスを持ち、鏡越しに僕と目が合った。
「服、これ、どっちがいいと思う?」
その言葉は反射的なものだったのかもしれない。
僕の姿に気づいていなかったか、あるいは完全に気を抜いていたのだろう。
けれど、ほんの一秒後、彼女は自分の姿を確認し――
「……っ!!」
声にならないくらいの甲高い悲鳴が部屋に響き渡った。
次の瞬間、星川さんはカーディガンを掴んで体に巻きつけ、僕から距離を取る。
耳まで真っ赤に染まり、目の端がうるんでいる。
「な、な、なんでいるのよ急に!!」
「いや、だって……隣だし、開けてるから来てくんない?ってメッセージ送ってくれたじゃないですか」
言った瞬間、自分でも驚くほど冷静な声だった。
それだけ僕の頭が混乱していたのかもしれない。
星川さんは一瞬きょとんとしたあと、さらに顔を真っ赤にした。
「そ、それは……そうだけどっ! 普通ノックとかするでしょ! っていうか、いきなり入ってくるとか信じらんないんだけど!」
「す、すみません……」
僕は反射的に頭を下げる。
「と、とにかく今は絶対振り向くな! いい!?」
「は、はい……」
言われるままに視線を床に落とす。
部屋の隅で、衣擦れの音と、なにやら急いで着替える気配がする。
それだけで、さっきの光景が頭に焼き付いて離れなくなり、顔が熱くなるのを感じた。
やがて、バタバタと小さな足音がして、星川さんが息を整えた声で言った。
「……もういいよ、振り向いて」
振り返ると、彼女はきちんと服を着込み、腕を組んで立っていた。
顔はまだ赤いままで、恥ずかしさを隠すように視線を逸らしている。
「ほんと……ああいう時は、ちゃんとノックしてよね」
「はい……」
それきり二人の間に沈黙が落ちた。
けれど、その沈黙は怒りというより、恥ずかしさで固まってしまったような空気だった。
エレベーターの中は、やけに静かだった。
小さな箱の中で、僕は無意識に星川さんの横顔を盗み見る。
いつもなら「なに見てんの?」って軽く笑われる場面だ。
でも今の彼女は、鏡面仕上げの壁にぼんやりと映った自分の姿を見つめ、何も言わない。
白い指先が腕を抱くように組まれているのが、どこか心細そうに見えた。
その姿が、僕の胸をちくりと刺す。
――さっきのことをまだ気にしてるんだろうか。
視線を落とし、スニーカーのつま先を見つめる。
この沈黙を破りたいのに、適切な言葉が浮かばない。
「着替えを見てしまってごめん」とはもう言った。でも、それだけじゃ足りない気がしていた。
そんなとき、彼女がぽつりとつぶやく。
「……さっきは、ごめんね」
声はかすかで、少し震えていた。
僕は顔を上げ、慌てて首を横に振る。
「いや、謝るのは僕のほうだよ。ちゃんとノックしなかったし」
その言葉に、星川さんは目を丸くして――すぐに小さく笑った。
笑顔といっても、いつものような無邪気さではなく、どこか照れと安堵が混じったものだ。
「……そっか、じゃあお互い様ってことで」
彼女はそう言い、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
その瞬間、エレベーターが静かに到着の音を鳴らし、扉が開いた。
朝の光が差し込み、外のざわめきが一気に流れ込む。
2人で並んで歩き出すと、さっきまで重かった空気が少しだけ軽くなった気がした。
商店街のアーケードに入ると、星川さんはすぐに視線を店先に走らせる。
色とりどりの服が並ぶショーウィンドウに、彼女の目が輝いた。
「ねぇ、これ見て。可愛くない?」
差し出されたのは赤いワンピース。
僕は一歩下がって眺め、素直に答える。
「似合うと思うよ」
星川さんの頬がわずかに赤くなり、視線が泳いだ。
「……ありがと」
その声は小さく、けれどどこか嬉しそうだった。
次の店でも、彼女はTシャツとブラウスを両手に持ってこちらを振り返る。
「どっちがいいと思う?」
今度は笑って言えるくらい、表情に明るさが戻っていた。
僕は真剣に見比べ、少し考えてから答えた。
「うーん……右のほうが似合いそう」
彼女は満足そうにうなずくと、選んだ服を買い物籠に入れた。
その動作は軽やかで、さっきまでの張り詰めた空気が嘘のようだった。
籠はどんどん重くなるけれど、不思議と苦にならなかった。
むしろ、この「一緒に選んで一緒に持って歩く」という行為そのものが、少しだけ特別に思えてしまった。
――あぁ、だからこの人は僕の部屋に歯ブラシもマグカップも置いていったのかもしれない。
なんとなくそんな考えがよぎり、僕は少しだけ苦笑した。
商店街を一回りした頃には、僕の両手には紙袋がいくつもぶら下がっていた。
星川さんは隣を歩きながら、スマホで買った服の写真を確認している。
さっきまでの恥ずかしさなんて、もうどこかへ行ってしまったような笑顔だった。
「今日はいっぱい買えたなぁ。荷物持ちありがと」
彼女は軽く笑いながら僕の腕を小突く。
「いや、僕はただ運んでただけですけど」
そう答えながらも、嫌な気分ではなかった。
荷物が重い分、彼女が楽しそうで、それで報われる気がした。
外に出ると、空は夕方の色に染まり始めていた。
アスファルトに長い影が伸び、街路樹の間を通り抜ける風が心地いい。
「ねぇ、ちょっと寄り道していい?」
星川さんが立ち止まり、指差した先には小さなカフェがあった。
ガラス越しに見えるパフェの写真に、彼女の目がきらきらと輝いている。
結局、二人で店内に入り、パフェを半分ずつ食べた。
甘いクリームを口につけたまま笑う星川さんの顔は、普段よりも年相応で、僕は少しだけドキリとした。
会計を済ませて外に出ると、空はすっかり茜色に変わっていた。
僕らは自然と並んで歩き、マンションへと戻る。
「さっきのパフェ、美味しかったね」
「そうですね。意外と量も多かったですし」
「でも食べきれたじゃん。えへへ」
会話はたわいないものだけど、不思議と心地よかった。
僕はその横顔をちらりと見ながら、ふと今朝のことを思い出す。
――ピンク色の歯ブラシと、キャラクターのマグカップ。
あれはただの“忘れ物”じゃなくて、彼女なりの意思表示なんじゃないか。
そんな考えを胸に抱えたまま、マンションの前に着いた。
エントランスの自動ドアが開くと、夕方の涼しい風が背中を押す。
「じゃ、荷物まとめて部屋に持ってっていい?」
星川さんが軽く首を傾げる。
「……もちろん。こっちに運びますよ」
僕は微笑み、荷物を持ち直した。
二人でエレベーターに乗り、無言のまま上昇していく。
狭い空間にふわりと漂う柔らかなシャンプーの香りが、妙に意識を刺激する。
さっきまでの気まずさも、もう残っていない。
ただ、少しだけ胸の奥が温かい。
“この日常、悪くないな”――そう思いながら、僕らはそれぞれの部屋の前に立った。