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2話 漫画と夕食とちょっとだけの勇気

 というわけで、あの日以来、彼女は当然のように毎日僕の部屋にやって来るようになった。

 玄関を開けると、軽い挨拶すらなく靴を脱ぎ捨て、真っ先に漫画の山へまっしぐら。ベッドに寝転がり、スマホをいじり、ページをめくり、時には大の字になってだらりと伸びる。

 その様子はまるで、ここが自分の部屋かのようで――正直言えば、実家に戻ってきた娘を見守る父親みたいな、変な安心感まで覚えてしまう自分が悔しかった。


 最初は戸惑いでいっぱいだった。

「これで本当にいいのか?」と何度も自問したし、あまりに慣れた彼女の態度にモヤモヤも感じた。

 だけど、どういうわけか数日もすれば、それが日常になってしまった。


 夕食も、気づけば一緒に食べるのが当たり前になっていた。

 最初は「泊まる!」と駄々をこねられ、「風呂もここで入る!」と無茶を言われて本気で焦った。

 浴室のドアに手をかける彼女を、何度「いやいやいや、そこはダメでしょ!」と止めたことか。


 一週間に及ぶ説得の末、ようやく彼女は自分の家の風呂に戻ることに承諾した。

 ……いや、正確には「渋々」という顔をしていたけど。


 僕の家なのに、なぜ僕が譲歩する側なのか。そう思わないでもなかったが、事故とはいえ初キスを奪ってしまった負い目が、どうしても胸の奥で僕の足を引っ張る。

 それに、漫画と夕食だけで我慢してくれているのなら――いや、むしろ“それだけで済んでいる”のだから、まだ良しとすべきなのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせるしかなかった。


 しかも、漫画の新刊を買うお金は彼女が出してくれて、ご飯代も負担してくれている。

 おまけに、買い出しにも付き合ってもらっているのだから、文句なんて言えない。

 冷静に考えれば、もう10:0で僕が悪いのかもしれない。いや、0:10で非は僕にある気さえしてきた。


 「ねぇ、まだアタシがいっぱい買ってきたやつ、残ってる?」

 星川さんはソファの背もたれに体を預けながら、スマホをいじる手を止めてちらりと僕を見た。


 「ああ、少しだけなら残ってるよ。今日はそれを炒め物にするか、希望があったらリクエストに合わせる。簡単なやつならなんでもできるし」

 僕はキッチンの戸棚を開けながら答えた。冷蔵庫には、先週彼女と一緒に買い込んだ野菜や肉がまだ残っていた。


 心のどこかで、これってもう完全に同棲カップルの日常じゃないかと考えた。

 付き合ってもいないのに、僕の家で食材を買って料理をして、一緒に食べる。

 それなのに、彼女はまったく気にする様子もなく、むしろ当たり前かのように頷いている。


 「じゃあ、なんでもいい。お腹すいたし、あんまり重くないやつがいいな」

 彼女は軽く笑い、その表情に断る理由なんて思い浮かばなかった。

 僕は調理台に立ち、フライパンを手に取る。


 冷蔵庫から野菜と鶏むね肉を取り出すと、背後から視線を感じた。

 スマホをいじっていたはずの彼女が、いつのまにかこちらをじっと見つめている。

 その瞳は、子どものように期待に満ちていて、思わず苦笑してしまった。


 「ねぇ、それ何作るの?」

 彼女の声はいつもより少しだけ弾んでいた。

 この部屋に来るようになってから、僕が料理する後ろ姿を眺めるのが日課になっているらしい。

 目が合うと、彼女は自然に小首を傾げる。

 その仕草はどこか家族みたいで、胸の奥がむず痒くなった。


 「うーん、今日はあっさりしたのがいいって言ってたし、野菜多めの塩炒めかな。味付けは控えめで、最後にレモンを少し絞る感じ」

 そう答えると、彼女はほっとした表情でにっと笑った。

 彼女の笑顔は気まぐれだけど、他人の心を緩める力があった。

 この一ヶ月で、その力を何度も感じてきた。


 「ふーん。やっぱ料理上手だね」

 さらりと言いながらも、その言葉には少し照れの色が混じっていた。

 僕はなんだかくすぐったくなり、苦笑した。

 付き合ってもいないのに褒められるだけで心臓が早くなる自分が、少し情けなくもあった。


 フライパンを火にかけると、油が弾ける音が静かな部屋に響いた。

 それを聞いた彼女は頬杖をつき、腕をゆるく組んで僕を眺めている。

 視線は真剣で、まるで料理番組を見ているかのようだった。


 「ねぇさ、毎日こうやって作ってくれる人って普通いないよね?」

 唐突な問いに、僕は少し手を止めかけた。

 彼女の軽い口調の奥に、どこか寂しさが滲んでいる気がした。

 もしかすると、彼女がこの部屋に通い詰める理由は、漫画でも夕食でもなく、「誰かと一緒にいたい」というただそれだけなのかもしれない。


 「まぁ……普通はいないと思うけど」

 答えると、彼女はふっと目を逸らし、視線をテーブルに落とした。

 何か言いかけたようだったが、小さく息を吐いて笑う。

 その笑いはどこか無理をしているようにも見えた。


 「じゃあ、ありがと。……ちゃんと言っとく」

 その一言に、僕は手を止めた。

 料理を褒められるよりも、ずっと胸に響く言葉だった。


 事故でキスをしてしまって以来、彼女との距離は曖昧だった。

 名前で呼ばれることもない。

 だけど今、はっきりと伝えられたその感謝が、妙に嬉しかった。


 鶏肉を炒め、野菜を投入する。湯気と香ばしい匂いが立ち上り、彼女の鼻がぴくりと動く。

 料理が完成する頃には、彼女は身を乗り出して待っていた。


 「おー、いい匂い! ……いただきます」

 食卓に置いた皿を前に、彼女は目を輝かせる。

 箸を手に取り口に運び、幸せそうに頬を緩める。

 その表情を見て、僕の中の罪悪感のようなものが少し和らいでいった。


 「うん、うまっ! なんでこんなに美味しいの? プロじゃん」

 笑いながら問いかけるその目はまっすぐで、悪気はまったくない。

 僕は思わず苦笑し、首を横に振った。

 彼女と食卓を囲むたび、自然と笑ってしまう自分に気づく。


 「プロじゃないよ。ただ、実家の料亭で料理することが多かっただけ」

 そう言うと、彼女はにこりと笑いながら、またひと口食べた。

 その仕草が自然すぎて、この部屋がまるで彼女の家のように感じられる。

 僕はそんな日常を受け入れ始めている自分に、少し戸惑っていた。


 夕食の後片付けをしていると、背後から彼女の声がした。

 漫画を読み終えたらしい彼女は、ベッドに仰向けになったまま、僕に視線を向けていた。

 その眼差しはいつも通りの軽さを纏いながらも、どこか心の奥まで刺さる鋭さがあった。


 「ねぇ、気づいたんだけど――アンタ、アタシのこと、一回も名前で呼んでなくない?」


 その言葉に、僕の手が止まる。

 泡立てていたスポンジの中で、皿が滑り落ちてカチャリと音を立てた。

 本当に一度も“莉音”と呼んだことがなかった。

 話しかける時は、必ず苗字の“星川さん”か、あるいは言葉そのものを省いていた。

 事故でキスをしてしまったあの日以来、彼女は毎日のように僕の部屋に来ているのに。


 「じゃあ、今言ってみなよ。“莉音”って」

 彼女は上体を起こし、無邪気な笑みを浮かべる。

 でも瞳は、期待と不安が入り混じった色をしていた。

 からかい半分の口調の裏に、本当は僕がどう呼ぶのか気にしているのが透けて見えた。


 胸の奥で言葉にならない感情が渦を巻いた。

 事故のキス、毎日のように食べる夕食、ベッドの上で漫画を読む姿。

 少しずつ慣れていたはずの距離が、急に近く感じられてしまった。


 「……いや、やっぱり無理だ。星川さんは星川さんだ」

 僕は視線を逸らし、そう言った。

 名前で呼んだ瞬間、何かが変わってしまいそうで怖かった。

 その“何か”が、二人にとって良いものなのか悪いものなのか、まだ判断できなかった。


 一瞬の沈黙。

 彼女はぽかんと僕を見つめてから、ふっと笑った。


 「ほら、言えるじゃんって思ったのに……ま、苗字だけでも呼べただけ許す」


 その笑顔は軽い調子に見せかけて、ほんの少しだけ揺れているように感じた。

 彼女はまた漫画を開き、ベッドに寝転んで何事もなかったかのようにページをめくる。

 けれど、紙をめくる指が、ほんの少し震えているのを僕は見逃さなかった。


 僕は洗い物の手を再び動かしながら、胸の奥に残るざらりとした感覚を必死に誤魔化そうとしていた。

 “名前で呼べなかった”という事実が、思いのほか重くのしかかっていることに気づきながら。


 洗い物を続ける手が一瞬止まった。

 背後から聞こえた名前は、いつもより少しだけ優しく響いた。


 「佐伯」


 振り返ると、彼女はベッドの上に寝転がったまま漫画をゆっくりめくっていた。

 目線は時折こちらに向けられ、その瞳は薄暗い部屋の中で小さく光っている。

 何事もなかったかのような涼しげな顔で、確かに僕に語りかけていた。


 「名前で呼んでくれて、ありがとう」


 その声は思ったより小さく、控えめで、少し照れた響きが混じっていた。

 普段の軽やかな彼女はそこになく、まるで秘密の呟きのように響いた。


 僕は咄嗟に目を逸らし、洗い物の手を動かし始めた。

 けれど、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。


 彼女は何も言わず、また漫画に目を落とした。

 その細い指先が静かにページをめくり、紙が擦れる音だけが部屋に満ちていく。


 僕はその音に耳を澄ませながら、ただ静かに彼女の存在を感じていた。

 一緒に過ごす時間が、今この瞬間が、何よりも大切に思えた。


 沈黙は決して空虚ではなかった。

 言葉よりも強く、確かに二人を繋いでいるように思えた。


 僕は、今のこの静かな時間が続くことを願った。

 言葉にしなくても、そこにある何かを感じ取っていたいと思った。


 やがて彼女がまた一言呟く。


 「……居心地、悪くない」


 小さなその言葉に、僕は肩の力が少し抜けるのを感じた。

 彼女の言葉は、この部屋の空気を少し温めてくれたようだった。


 僕は笑みを浮かべて、もう一度洗い物に目を落とした。

 何も言わず、ただ静かに、時間を共有しようと思った。


 星川さんがゆっくりと身を起こし、ベッドから降りる。

 いつものカバンを手に軽く握りしめていた。


 「そろそろ帰るわ」


 その声はいつもより少しだけ寂しげで、でもどこか落ち着いているようにも聞こえた。

 僕は何も言わず、ただ彼女の背中を見つめる。


 彼女は部屋のドアに向かう途中でふと立ち止まり、振り返った。

 そして、不意に言った。


 「また寝る前に連絡するね」


 僕はすぐに頷き、軽く返事をする。


 「うん、待ってる」


 その短いやりとりの中に、言葉にできない約束が静かに交わされた。


 ドアが静かに閉まる音が部屋にこだました。

 外の静寂がこちらまで伝わってくるようだった。


 僕はそのまま窓の外を見る。

 夜の街灯がぼんやりと光を落とし、通りを包み込んでいた。


 部屋にはまだ彼女の気配が残っている。

 それは風のように柔らかく、確かな存在感を持って、僕の心に染み込んでいった。


 静かな夜の中で、僕はまた少しだけ、この日常が続くことを願った。


 ――まだ終わりたくない。そんな気持ちを胸に抱きながら。

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