6:怠惰の極み
落とされた、心を打ち抜かれたと自覚してから、はや数週間が経った。次は俺から会いに行くから、そう言われた言葉は嘘だったのか。いつ会えるのか、早く会いたい、また声が聞きたい、そんな思いばかりが募っていく。
「……だるい、今日は寝ていようかな」
いや違う、今日もだ。また会おうと約束したあの日から、胸がつっかえて食べ物もろくに喉を通らなくなった。恋煩いとは、本当にこうも体に現れるものかと、自分でも驚いた。
両親も心配しているが、ダイエットということで通している。王太子妃になるために、最後の追い込みをしているのだということにしている。
『もっと食べた方が良いぞ。これ以上細くなるのは、体にも良くないだろう』
『そうよ。ランカちゃんはもう可愛いんだから、ダイエットなんて必要ないわ』
そんな言葉を投げかけられたが、どれもやんわりと断っておいた。徹底的にできることはしないと、不安なので。そんな体のいい理由を適当に口にしたら、両親も何も言えなくなっていた。
本当は、今は何にも食べたくないのと我儘を言いたかった。何もかも面倒臭いのと言ってしまいたかった。でも、心配をかけまいと、幼い頃から両親の前でも自分を偽り続けてしまった結果、今更そんな子供じみた態度をとることもできなくなっていた。
「ランカ様、朝食のお時間です」
ほらまた、いらないって言っているのに。こう言うのを、小さな親切大きなお世話って言うのよ。
被害妄想なのは分かっている。勝手に悲劇のヒロインぶって、身も心もただ一人の人間でいっぱいにして、会えない悲しさだけに身を委ねて、自分が悪いのは分かっている。それでも、今はそんな時間をたった一人で味わっていたかった。
「ランカ様?」
「ごめんなさい、すぐに行きますね」
それでも、繕った自分を崩すこともできず、この見た目に相応しい態度を取ろうとしてしまう。何も食べたくはないけれど、確かに痩せたと言うよりやつれた感じはある。大人しく部屋を出るかと、冬眠から目覚めた熊のように、のっそりとベッドから降りた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
再び部屋に戻ってきた時には、満腹感以上に疲労感でいっぱいだった。
『久しぶりに一緒に食事ができて嬉しいわ』
『どこか元気がなさそうだったから、ずっと心配していたんだ』
そんな、善人でしかない両親からの言葉に、少し困った顔をしながら和かに返す。両親二人とも、良い人なのだ。えらぶるでもなく、子どもを押さえつけることもしない。学も教養も身につけさせてもらったし、教育者も申し分ない人物を用意してもらった。
非の打ち所はない。ただ、私の心の中に潜む嫌な感情までは、絶対に理解してもらえないだろう。理解できるはずもない、あの人たちは良い人なのだから。
「疲れた。なんっにもしたくない」
本当は、こんな風に部屋に引きこもっている場合ではない。王太子妃候補に選ばれるためには、きっと色々とアピールをしなければいけないのだ。何が、選ばれるためのポイントになるのかは分からない。だからこそ、街に出るなり、他の貴族と会うなり、慈善事業でもしてみるなり、何か行動をしなければいけない。
でも、何にもやる気が起きないのだ。これでは、王太子妃になんてなれない。でも、こんな状態では、いっそ選ばれない方がいいのかもしれない。
そんなことを考えていると、部屋の窓が叩かれるような音が聞こえた。
「…………え、なんの音?」
部屋の窓はバルコニーに繋がっている。人が立てるスペースはあるが、外から入れるような構造ではない。だとすると、何の音が、どうして鳴っているのか。
誰が呼ぼうか。侵入者か、何らかの刺客かもしれない。今や王太子妃候補になっている身だ。狙われない理由を探す方が、難しいだろう。
そう思い身を固くしていると、ずっと聞きたかった声で名前を呼ばれた気がした。その瞬間、危ないとか、罠かもしれないとか、そんな事は全てどうでも良くなった。すぐに、その声の主に会いたいとだけ思った。
「なんで、こんなところに……」
「俺から会いに行くって約束したからね、守りにきたよ」
公爵家の警備を掻い潜って、どうやってここにいるのか。ここは三階だけれど、どう登ってきたのか。捕まったらなんと言い訳するのか。いくつもの、疑問と疑念と心配事が頭に浮かぶのだが、全て流れていった。
「また泣きそうな顔して。俺としては、笑ってて欲しいんだけどな」
困ったように眉を下げて、そんな甘い台詞を言われてしまう。私だって笑いたかった。普段の私なら、取り繕った笑顔を貼り付けることができた。でも、どうして。こんなにも、思い通りに動いてくれないのか。
「……もう、会えないかと思ったから」
「ごめんごめん。結構日が空いちゃったよね。さすがの俺でも、ここに来るのは難しくてね」
「またそんな、冗談みたいに言って」
私の気持ちなんて知らないくせに。そんな言葉は飲み込んだけれど、身勝手な事を言っている自覚はある。恋人でもない、好きだなんて言っていない。勝手に思っているだけ。それなのに、こんな我儘を言ったとて、迷惑な上に、何より可愛くない。この私が、こんな可愛くないことを言ってしまうなんて。
そんな折に、情けなさから噛み締められていた唇に、そっと触れられた。それに促されるように視線を上げると、嫌がることも迷惑がることもない、優しげに微笑む顔があった。どこまでも、人の心を惹きつける、罪深い人だ。
「ランカちゃん、なんか痩せた?」
「……ちょっと、ダイエット中なの」
「え、充分細いと思うよ。これ以上痩せたら心配になるから、やめなよ」
そんなこと言われたら、素直に頷くしかない。こんな事まで、自分の意思を反映することができないとは。この人と出会うまで、こんな気持ちは知らなかった。今まで、自分の選択が全てで、正解だった。それなのに、今となってはこの人の好みに合わせることが、正解になってしまっている。恋とは、こんなに恐ろしいものなのか。
「それに、なんか疲れた顔してない?」
「それは……今朝、両親と食事をしてたから、かもしれないわ」
そう言うと、意外だと言わんばかりの顔をされた。
「厳しいご両親なんだね。そんな風には見えなかったけどな」
「いえ、優しい両親よ。ただ私が、ずっと本心を隠してきてしまっただけ」
「親の前でも猫被ってたら、そりゃあ疲れるよ。そんなに優しいご両親なら、素を見せても大丈夫だと思うけどね」
正論でしかない。全部、自分の首を自分で締めているだけだ。でも、これが私なのだ。今更どうしようもない。
「そうね。でも、期待に応えたかったの。誰よりも可愛い、愛しい娘だと、これ以上ない宝だと言われてしまったら、それに相応しい姿を見て欲しいと思ってしまったのよ」
私の、そんなくだらない話を遮るでもなく、ただ真剣な目で聞いてくれている。この何でも受け入れてくれそうな雰囲気のせいで、どんどん自分が取り繕えなくなる。
「小さい頃から、そうやって期待に応えようとしてきたせいで、今になって本性なんて見せられないのよ」
「なるほどね。器用そうなのに、変なところで不器用だよね」
「うるさい、優しさだと言って欲しいわ」
そんな返事に、楽しそうに声を出して笑ってくれた。その姿を見ると、沈んでいた気持ちが、ふっと浮き上がってくるような気がした。
「じゃあ、そんなランカちゃんのために、今日は俺がご褒美をあげよう」
「それは、嬉しいけれど……」
嬉しい気持ちと、唐突にでてきたそんな言葉に、ドキリとしてしまう。期待と不安とで、よく分からない感情でいっぱいになる。
「うんうん、今から街に出よう」
「………………え?」
「どうせ街で遊んだことなんてないでしょ。今から俺が、案内してあげるよ」
さあ行こうと伸ばされた手を、そのまま取ってしまいそうになった。あまりにも自然で、感情に従いたかったが、数秒してはっと我に帰った。
「駄目よ。私それなりに有名人だから、街に出たら目立ってしまうわ。その上、異性と一緒だったなんて知られたら……やっぱりダメ。こんなところで、王太子妃候補に影響を出している場合ではないの」
「そう言うと思って、ほらこれ」
そんな言葉とともに、小さなキャンディを見せられた。淡い色の紙に包まれたそのキャンディは、見たこともないくらい鮮やかな青色をしていた。
「なに、それ?」
「見ての通り、飴だよ。魔術で作られたね。これを使ったら5時間くらいなら、姿を変えられるよ」
「そんなもの、何で持ってるのよ……」
魔術で作られた、薬のようなものがあることは知っていた。でもそれは、上位貴族しか手に入れることはできない、とんでもなく高価な商品であるはず。それを、何故持っているのか。
「貰ったんだ、ある筋からね」
「そんな話、ああそうなんだって信じられると思う?」
「じゃあやめとく?」
残念そうに言われてしまうと、断ることはできなかった。この顔、好みの真ん中を貫いてくる、この顔が悪いのよ。
「…………行きます」
「そう言ってくれると思った」
にこりと笑ったその顔が、またしても心を掴んでいったせいで、何もかもがどうでも良くなった。もしバレたらとか、勝手に外出して良いのかとか、考えることをやめた。
とりあえず、この人に全部委ねてしまおう。もうこんな機会もないだろうから、思い出作りだ。そう、思い込むことにした。