10:神様に愛されてはいる
鼻をくすぐる愛おしい匂いと、ずっと聞きたかった声。そして、触れたいと思っていた体温。そのどれもを体に感じた瞬間、これは夢だと思った。
「ぎりぎりセーフ、かな?」
だって今私は階段から落とされたはずで、体が床に叩きつけられるのを覚悟しなければいけなくて。確かに唯一の心残りは、彼に会えないことだとは思った。走馬灯でも会えたらとは思った。それなのに、こんな都合よく現れるなんて、現実であり得るはずもない。
体はどこも痛くない。それどころか、床に倒れ込むはずだった体が、優しく抱きしめられている。驚きのあまり、ぽかんとして見上げた先にあった顔はとても心配そうで、何も悪くないこちらが罪悪感を抱きそうになった。
「ランカちゃん、大丈夫……じゃないね。怖かったよね」
「あ、これは……」
そう言われてふと自分を顧みる。混乱した頭は追いついていなかったが、ちゃんと恐怖心が働いていたのか、体は小さく震えていた。
怖かった。そう、怖かった。落とされる事よりも、人からの殺意を感じた事よりも、死を実感するよりも、ルークに二度と会えないと言う事実が何よりも怖かった。
「もう心配しないで。俺が全部、なんとかしてあげるから」
そう言うとルークは、階段の上に立っていたリサ・シュクレーンを見上げた。そして、ゆっくりと私を抱きかかえたかと思うと、そのまま彼女の元に向かった。
「リサ・シュクレーン公爵令嬢。これはどう言うことか、説明してもらおうか」
「なっ、なんの事か、私には全く分かりませんわ」
彼女の顔には、先ほどにはなかった焦りが見える。まさか、誰かに見られているとは思ってもいなかったのだろう。
「しらばっくれるのも大概にして欲しいな。王太子妃候補を消そうと、階段から突き落とそうとしたところを、俺はこの目で全て見ていたよ」
そうまではっきりと言われてしまえば、言い訳をすることもできないのだろう。ぐっと言葉に詰まっていたが、しかしここで引き下がるほど弱気な性格ではない。そうだったら、王太子妃候補になんて選ばれていない。
「どこの誰だか存じ上げませんあなたに見られたらからって、何だと言うのですか。私の言葉よりも、あなたの言葉を信じる人が、何人いるとお思いですか?」
「そうかもしれないね。でも、君が落とそうとしたこの子の発言だったら、どうかな」
その言葉を聞いたと同時に、ものすごい目つきで睨まれた。殺意と悪意でいっぱいになった顔は、こうも醜いものかと思い知り、ぞっとした。私は絶対こうはならないようにしよう。
「……顔だけで選ばれた女のくせに、生意気なのよ! 見た目だけのくせに、誰も彼もがあなたをちやほやして、大した家柄でもないくせに、あなたさえいなけらば、私が王太子妃だったのよ!」
人を罵倒する時の顔は、こうも不細工になるものなのか。私は絶対に、こうはならないようにしよう。改めて決意しながらも、聞き捨てならない発言を、そのままにしておくことはできなかった。
「リサさん、あなたさっきから何を言っているの?」
ルークがずっと体を支えていてくれたからか、元来の性格が顔を出したのか、体の震えはいつの間にか止まっていた。
「あなたさっき、私のことを顔だけの女だと言ったわね」
目の前の女は、悔しそうに顔を歪めながらこちらを見ている。誰に向かってものを言ったのか、分からせてやろうじゃないの。
「家柄以外、なんの取り柄もないあなたが、私に向かってよくそんなことが言えたものね。私が顔だけなんて、そんなはずないでしょう」
しっかりと目を見返して言う。私は知っている。この顔が、この瞳が、誰よりも可愛く美しいことを。そして、美人が凄むと何よりも迫力があることを、私は知っている。
「私は絶対に、あなたみたいな馬鹿げた事はしないわ。まさか、人を階段から突き落としてまで誰かを蹴落とそうなんて、卑怯な真似は絶対にしない。だって、そんな事しなくたって勝てるもの」
「っ、なによ! 少し見た目がいいからって、」
「少しじゃないわ」
何か言おうとしていたが、やっぱり聞き捨てならない言葉が聞こえたため、食い気味に否定してやった。
「私が、誰よりも、一番可愛いの」
そうはっきりと、目先数十センチの距離で言い放った。何か言いたげに、奥歯を噛み締める音が聞こえる。言い返せるわけないじゃない、これが真実なんだから。
「さようなら、リサご令嬢。あなたのご先祖様たちの栄光に泥を塗られないと良いわね」
「え……? あ、待って、何をするつもりよ!」
にっこりと笑ってそう告げてあげると、一瞬ぽかんとしていたが、我に返ったと同時に焦り出した。
「何って、私は真実をお伝えするだけよ。家族にも、王族にも、そうね親しい貴族の方々にも、ね」
有難いことに証人もいることだし。そう言って、振り返ることもなく、その場を後にした。
「待って、誤解よ、お願いだから、もう一度話をしましょう、お願い……お願いします……」
何やらぶつぶつと言い訳がましく喚いているが、聞いてやるつもりはない。まさか、自分を殺そうとした人物に、情けをかけてあげるほど優しくはない。ここで救ってあげて、また仕返しでもされたら嫌だし。徹底的にやらないと。
何も聞こえていないふりをして、会場の中に戻ろうとした時、後ろから腕を掴まれた。
「ランカちゃん、ちょっとだけ話せる?」
人目につく可能性があると拒否したかったが、力強く掴まれた腕が離せなかった。リサにも見られていたらと思ったが、それどころではない彼女はこちらを全く気にしていない。ルークの有無を言わさない態度も相まって、これなら大丈夫かと思い頷くと、テラスの端まで足早に手を引かれた。
こんなに焦ったように動くなんて、珍しい。そう思ったのも束の間、くるりと後ろを振り返ると、少し怒ったりような口調で話し始めた。
「どこも怪我してない?」
「ええ、そうね。ルークが助けてくれたから、何ともないわ」
何故そんな口調なのか。そんなに心配してくれたのか、と疑問は感じながらも、自らの状態を確認する。落ち着いた今になっても、どこも痛くないのだから、たぶんとても上手く受け止めてくれたのだろう。
「あなたは大丈夫? 私、勢いよく落ちてきたと思うけど、重たくなかったかしら。どこも痛めてなければ、いいのだけど……」
「俺のことより、自分の心配をしなよ」
力強く掴まれた肩は、少しだけ痛みを感じたが、それよりも真っ直ぐ見つめられていることに浮き足だってしまっていた。
彼の深い青色の瞳に、私だけが映っている。今この状況で、他の何よりも私を気にかけてくれている。溺れすぎた女の発想だと言う事は理解していても、この事実が何よりも嬉しく、そして私を安心させてくれた。
「私は大丈夫。ほら、この見た目でしょ? 昔から嫌がらせはあったし、怪我をさせられそうになったこともたくさんあったの」
「……そうなの?」
敵は作らないようにしようと、努力はしてきた。それでも、こうも可愛く生まれてきてしまったこと自体を、やっかむ人はたくさんいる。好きな人を取られた、恋人が熱い視線を送っていた。どれもこちらは無実ではあるが、本人たちは被害者だと思っているのだからタチが悪い。
「さすがに、階段から突き落とされるとは思ってなかったけれど、油断した私も悪いのよ」
「誰もそんなこと思いながら生きてないと思うよ」
たしかにそれは正論。でも、王太子妃がかかったこの状況では、何が起こるかは分からなかった。私ももう少し、気をつけておくべきだったと今となっては思う。
「まあでも、今回ばかりは王太子妃がかかってるから、みんなそれだけ必死なのよ。一族の期待を一身に背負ってるんだから、私も覚悟しておくべきだった」
そこまで言うと、ルークは俯いてしまった。なぜ、何も悪くないあなたが落ち込んでいるのか。助けてくれたことに、感謝しかないのに。
「……やめなよ、もう」
「え?」
「こんなことになるなら、王太子妃候補なんて辞退した方がいい。命を危険に晒してまで、手に入れる価値なんてないよ」
そもそも、こんな選び方が良くないんだ。ルークはそう小さく呟くように、続けて言った。
「ルーク……」
悲しそうにしている彼に、なんと声をかけていいのかは分からなかった。でも、今言えることは自分の中にある、本音しかないなと思った。
「ダメよ、こんなところで辞められないわ」
「……そこまでして、王太子妃になりたいの?」
なりたいかと言われると微妙だ。以前までなら、もちろんと即答していたが、今はそうはできない。
「今回の件で、リサはもちろん候補から外れるでしょう? これで二人目の辞退者なの。あと私を入れて二人しか残っていないの」
「だったらもう、残ってる一人に押し付けなよ」
「絶対に嫌」
そうはっきりと告げると、ルークは眉を顰めて言葉を詰まらせた。
「だって、彼女より私の方が王太子妃に向いてるもの。あの子、後々に遺恨を産まないために、とりあえず候補に入れられたの。あんな子に、国を背負うなんて覚悟はないわ」
私のように、見た目にも内面にも自信があって、小さい頃から覚悟を決めてきたわけではない。ただ貴族間の隔たりを産まないために、候補者になった子に、王太子妃なんてなれない。
「……王太子妃になったら、もっと危ない目に遭うよ」
「そうかもしれないわね」
「俺も、助けられないかもしれないよ?」
それは当たり前だろう。何故、王太子妃になってまで、ルークが助けに来るのか。さすがに、そこまで浮かれてしまうほどバカではない。
「大丈夫よ。自分の身は自分で守るわ」
「嘘だ、運動苦手なくせに」
「何でバレてるのよ」
「明らかに避けれたのに、ぼんやり突っ立ってたら誰だってそう思うよ」
ルークはため息を吐いて、呆れたように言った。仕方がないじゃない。苦手なものは苦手なのだから。
「大丈夫よ。だってほら、私ってこんなにも可愛く生まれてきたじゃない。誰よりも、神様が味方してくれている証拠よ。どんなことがあっても、きっと乗り越えられるわ」
「理由になってないよ、それ……」
首を振って、どうしようもないと言いたそうだった。それでも、どこか納得してくれたようで、仕方ないなと笑ってくれた。
「まあでも、俺も最後まで諦めないから」
「えっ」
「最後はきっと、俺を選んでくれるって信じてるよ、ランカちゃん?」
そう言って、頬にそっと唇が触れた。そんな覚悟まではできていなかったせいで、一気な顔が赤くなる。
「な、なに、」
「またね、ランカちゃん」
酸欠の魚のように、口をぱくぱくとさせて狼狽えている私を置いて、またしても彼はどこかに消えて行った。
さっきはちゃんと覚悟したのに。王太子妃になろうって思ったのに。また覆されそうだ。頬に残った熱を冷ますかのように手で押さえてみるが、非情にもそれはいつまでも残り続けた。
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