擬音を聞ける能力に覚醒したら、風紀の氷姫の胸から「キュン」が聴こえまくる件
めちゃくちゃに風邪をひいて高校を休んだ。
「あ、小野 尚人です……はい、今日も無理そうで……はい、病院、行けたら行きます……」
高熱が出て、頭痛も酷い。コロナかインフルかもしれない。
病院に行きたかったけど、自力ではとても無理だった。
同居の母親は、田舎の祖母と二人で温泉旅行に出かけていて不在だ。たぶん最後の親孝行になるとか言っていたので、水を差す気にはなれない。
なお、父親なる存在を最後に見てから十年経つ。
とにかく俺には布団にくるまって、防災用のポカリとカロリーメイトを摂取しながら、症状が軽くなるのを待つことしかできなかった。
頭の内側からハンマーでガンガン叩かれるような頭痛がずっとしていて、アニメを見る気力もわかない。
そのうち痛みに合わせて、大御所声優っぽいダンディな低音ボイスが『ガン!ガン!』と擬音を読み上げる幻聴(?)が聞こえはじめた。
なんだこれ……さすがに……ヤバいので……は…………
そんな、もはや記憶も曖昧な地獄の三日三晩を、どうにかこうにか耐え抜いた四日目の土曜の朝。昨日までが嘘のように、体も頭もすっきりしていた。
ちゅんちゅくとスズメの鳴き声が聞こえ、カーテンの隙間から白い光が差し込んでいる。
俺はベッドから起き上がって、カーテンを開けた。
さんさんと降り注ぐ朝日を浴び、まぶしさに目を細める。生まれ変わったようだ。
『……さんさん……さんさん……』
そして窓の外から聞こえてくるのは、大御所声優っぽいダンディな低音ボイス……。
「……!?」
光の速さでカーテンを閉める。何も聞こえない。
カーテンに耳を近づけてみても、外から聞こえるのはスズメの鳴き声だけ。
どうやら家の外に大御所声優がいるわけではなさそうだ。
次にゆっくりと、カーテンを開けてみる。
『さんさん……さんさん……』
聞こえる。カーテン閉じる。聞こえない。カーテン開ける。聞こえる。
……まって……なにこれ……もしかしてコロナの後遺症とかのアレ……?
動揺する指先でスマホから検索してみたけど、低音ボイスで擬音が聞こえるようになったなんて話は、もちろんひとつも見当たらない。
その間も、スマホの画面をスクロールさせるたび『スッ』『スッ』と指先から低音ボイスが囁いていた。
そこに、旅行帰りの母親が申し訳なさそうにお粥を運んできてくれた。
たちのぼる湯気と一緒に鳴りまくる低音ボイスの『ほかほか』をまったく気にする様子がなかったので、やっぱりこれは自分にだけ聞こえているようだ。
なお、温泉卵の乗ったお粥は絶妙な塩加減でめちゃウマだった。
そのとき一緒に手渡されたのが、真新しい一冊のノート。
郵便受けに投函されていたというそれには、俺が休んでいる間の授業内容が、几帳面な文字と簡潔な文面でわかりやすくまとめられていた。
めちゃくちゃありがたいけど、基本的に孤独を愛する俺には、クラスに親しい友人もいない。ああ、ぼっちと呼びたければそう呼んでくれていい。
それにしても、いったい誰が……?
──困惑しながらノートを閉じた瞬間、低音ボイスが『ふわり』と小さく囁く。
顔を近づけると、ふわり仄かに甘い香りがした。
◇ ◇ ◇
明けて月曜日のお昼休み。俺は校舎の屋上でフェンスごしの曇天を眺めつつ、購買の絶品サクサクカツサンドをぱくつきながら、初夏の風に吹かれていた。
ノートの主は、わからなかった。級長の増田くんに聞いてみても、そういう話は出なかったとのことで、逆に申し訳ないと謝罪されてしまった。
それじゃあ、誰かが個人的に? いったい……
『サクッ』
思考を遮るように、カツサンドを咀嚼する口の中から小気味いい低音ボイスが鳴った。
そう、あれから二日経っても擬音は聞こえている。最初は、このまま続いたら頭がおかしくなるんじゃないかと心配したけど、案外そうでもない。
聞こえるのはほとんどが、頭痛の「ガンガン」とか太陽の「さんさん」のような実際には音がしない擬音語──正確には「擬態語」と呼ぶらしい──ばかりだし、そもそも漫画のそれと同じで、すべての事象に擬音が付くわけでもない。
何より大御所声優さんを思わせるダンディな低音ボイスは、不思議なくらい耳心地が良い。もういっそ「後遺症」でなく、そういう「能力」が覚醒したと考えた方が前向きでいいかも知れない。
名付けて【囁く擬声】──うん、悪くないんじゃないか。
『じーーーっ』
そんな俺の厨二病を、今度は後方からの擬音が遮った。
しかし振り向いてみても、立ち入り禁止の屋上に俺以外の気配はない。
なのに『じーーーっ』は息継ぎもなく鳴り続けている。
さすが大御所声優の肺活量……とか感心してもしょうがない。
どうやら、それは屋上入り口の扉の方角から聞こえてくるようだ。
よーく見ると、金属製の錆びついた扉には、細い隙間が空いている気がする。
その辺を見詰めると、低音ボイスが『ぴたり』と囁いて『じーーーっ』は止まった。
「気のせいか」
わざとらしく口に出しながら、俺は扉に背を向けて視線を曇天に戻す。
それから十秒と経たずに、扉のきしむ微かな音に続いて、『そろり、そろり』と忍び足の擬音が近付いてきた。
「屋上は、立ち入り禁止です」
そして背後から冷たい声が掛けられ──ほぼ同時に、俺は無造作に振り向いていた。
そこに背筋まっすぐに立つのは制服姿の女子。黒髪ロングをセンター分けにした、青フレームのメガネが似合う知的美少女だ。
「……!?」
おそらく彼女の中では、急に声をかけられた俺が驚き慌てて振り向く想定だったのだろう。
レンズの向こうの切れ長の目をいっぱいに見開いて、でも一瞬後には元通りの涼しげな眼差しを取り戻している。
それと、これはきっと聞き間違いだと思うのだけど──俺が振り向いた瞬間、彼女の胸の辺りから微かに『キュン』と低音ボイスが囁いた──ような気がした。
──片瀬 紗瑛さん。うちのクラスの風紀委員。
仕切り直すように黒髪を右の耳に掛けた彼女の仕草に、低音ボイスが『しゃらん』と謎の擬音を付けた。
「いやあ、屋上が好きなんだよね俺」
「好きだからという理由でルールが免除されたら、世の中はめちゃくちゃになります」
感情の希薄な冷たい声で、俺の言い訳を一刀両断する。低音ボイスの『バッサリ』が追い打ちをかける。
いつも圧倒的に正しくて、県の弁論大会で優勝経験もある彼女に、口先では誰も敵わない。次期風紀委員長も確実視され、硬質な美貌も相まって、口さがない連中からは【氷姫】などと呼ばれ恐れられている。
おかげで、どこからどう見ても完璧な美少女なのに、告白した命知らずはひとりもいないとか。
そんな彼女は、なぜか俺のことを特に目の敵にしていて、事あるごとに厳しいお小言を頂戴するのだ。たとえば……
・登校時間に余裕を持て(チャイム同着常習犯でごめん)
・授業中ボーッとするな(自分の世界にこもってごめん)
・背中を丸めて歩くな(……はい……ごめん)
あとなんだっけ、宿題を忘れるような人はもっと大事なことも忘れてる、とか……
思い返してたらちょっと凹んできた……。
まあ、きっと嫌われてるのだろう。
いつもなら早々に降参するけど、さっき聞こえた気がした『キュン』がどうにも引っかかっていた。
「……でも、人間たまには空を見上げる余裕を持ったほうがいいよ」
なので今日は、勇気を振り絞って少しだけ口応えしてみることにする。
「片瀬さんも一緒にどう?」
「ばかなこと言わないで」
隣の空間を指さしながらのお誘いは、当然ながらクールに即却下だった。だけど同時に彼女の胸元から、低音ボイスが大きくはっきり鳴り響く。
『キュン!』
──えっ!?
思わず、擬音の発生源を凝視してしまう。
しかしそこは柔らかな曲線を描く白いブラウスの胸元であり、冷静に考えると凝視はだいぶ危険行為──そう気付いた時には、俺の視線を遮るように彼女の両腕が胸前で交差していた。
「……どこ……見てるの……?」
そのドスの効いた低音ボイスは、擬音ではなく片瀬さんが発したものだった。
下を向いて表情は見えないが、怒りで耳まで真っ赤に染まっているようだ。
まずいとてもまずい。
「いや違うんだ! 思ったより大きかったから驚いて……」
慌てて口走った言葉の意味はもちろん「擬音の大きさ」についてだけど、擬音が聞こえない彼女に伝わるわけもなく、きっと別の意味で彼女の耳に届いたことだろう。
片瀬さんの華奢な肩が、小刻みに震えているのが見えた。
──ああ、口応えなんてするもんじゃなかった。
失礼な行為と発言をしてしまったのは事実だから、ここは潔く謝るべきだろう。
「ありがとう」と「ごめんなさい」の気持ちだけは、迷わず言葉に出して相手に伝える。それだけは譲れない、俺の信条だ。
「言い訳はしない。嫌な気持ちにさせてしまったなら、俺が悪い。ごめんなさい。ほんと、いつも片瀬さんのこと怒らせてばかりで……」
『キュン!』
ええ……? そこで鳴る……?
「…………わかりました。反省してるようだから、許してあげます。でも、もし今後わたし以外の子に同じことしたら、絶対に許さないから」
とにかく許してもらえたことに、内心で胸をなでおろす。
しかし同時に俺は、彼女の言葉に引っかかりを感じていた。
これまでなら、聞き流していたかも知れない。けど彼女が「わたし以外の子に」と口にしたとき、その胸元から『ドキドキ、ドキドキ』と低音ボイスが聞こえていた。
到底ありえない、仮定の話だ。だけどもしも、彼女の胸から鳴りまくる『キュン』がそのままそういう意味で、つまり彼女が俺にキュンとしている──好意を抱いてくれているということだとすれば。
……それなら彼女の言葉は……そもそも本当に怒っていたのか……いやでもさすがに……
「またボーッとして。わたしの話、聞いてるの?」
考えてもわからない。ならいっそ試してみよう。
「聞いてるよ。わかってる、他の子には絶対しないと誓います」
ひと呼吸して、言葉を続ける。
「そういう目で見るのは、片瀬さんだけにする」
片瀬さんは満足げにうなずいてから、ようやく言葉の意味を理解したらしい。
「なっなななにを言ってるの! そういう意味じゃないから!」
『キュキュキュキュギュゥーーンッ!!』
否定の言葉を掻き消すように、改造車のエンジン音じみた迫真の低音ボイスが響き渡っていた。
「そっそっそんな揚げ足なんか取って、もうっ、本気で怒ったから!」
ヤンキーも震え上がるという氷姫の言葉はしかし、もはやなんの説得力もない。
「ほんとに怒ってるなら、片瀬さん」
──俺は、冷静に指摘する。
「どうしてそんなに、口元がニヤけてるの?」
『ハッ!?』
驚きの擬音と共に、慌てて彼女は口元を両手で覆う。勢い余った指先に弾かれたメガネが、曇天に『ひゅるるるる』と放物線を描き、俺の足元に落ちた。
「……俺、片瀬さんに嫌われてると思ってたよ」
青いスクエアフレームのメガネを、拾い上げる。
片瀬さんは口元だけじゃなく顔を両手で覆って、しゃがみ込んでいた。……あれ……? なんだろう、この既視感……。
『……カチリ……』
その低音ボイスは俺の頭の中から響いた。
歯車が、噛み合うような擬音。
──同時に、記憶が鮮やかに蘇る。
◇ ◇ ◇
あれは小学校の低学年だから、もう十年も前だ。
クラスに、メガネのよく似合う女の子がひとり転校してきた。
他にかけている子がいなかったから、彼女のあだ名はそのまま「メガネ」になる。
そして、何かにつけ疑問が出ると「メガネに聞いてみようぜ!」からの「メガネのくせに知らないんだ?」がお約束になった。
恥ずかしながら、孤独を愛する前の俺もそのクソガキムーブに参加していた。
はじめは困ったように笑っているだけだった彼女は、ある日いつもの「お約束」のあと無言で立ち上がり、おもむろにメガネを外して────教室のすみのゴミ箱に、捨てた。
それでようやくクソガキどもは理解した。彼女を傷付けていたのだと。
突然のことで、女子たちもどうすればいいかわからなかったのだろう。
流れる気まずい沈黙のなか、席に戻り顔を両手で覆った彼女のすすり泣きだけが響く。
『──勉強とか運動とか、そういうのはできるだけでいいよ。ただ、“ありがとう”と“ごめんなさい”だけは、ちゃんと言葉に出して伝えられる人間になってほしいんだ』
病室のベッドで色んな管に繋がれながら横たわる父親に、言われたのはほんの数日前だったと思う。
そのとき隣から聞こえていた母親のすすり泣きと、いま教室に響く彼女のそれが頭のなかで重なって、俺は考える前に立ち上がっていた。
ゴミ箱に駆け寄ってメガネを拾いあげ、まっすぐ彼女の席の前に向かう。
「いやなこと言って、ごめんね」
そしてハンカチで拭いたメガネを差し出した。
しかし彼女は顔を覆って鼻をすするだけ。
「……このメガネ、かっこいいと思う……」
何か言わねばと思って絞り出した言葉。
鼻をすする音が、止まる。
「……ありがとう……」
顔から両手を離すと、彼女はメガネを受け取ってくれた。
消えそうに儚い声と、涙で潤んだ上目づかいの瞳、はじめて直視するメガネなしの素顔。
そのとき、いままで感じたことのない強烈な気恥ずかしさに襲われた俺は、何も言わず早足で席に戻っていた。
入れ替わりに他の女子たちが彼女の席を囲み「ちょっと男子ー!」とかやりはじめる。
いま思えば、あのとき浮かんだ感情こそ、俺にとっての初恋だったのかも知れない。
その学期末、彼女は再び転校していった。
最後にお別れ会的なものが開かれたらしいが、俺は参加できなかった。
ちょうど、父親の葬儀と重なったから。
記憶の中で思い出した父の声は、病のせいで弱々しかったけど、例の擬音の低音ボイスと声質が似ていた気がする。
そういえば母も「顔は好みじゃなかったけど、美声に惚れたのよねえ」とか言ってたな……。
もし父が健在だったなら、その声は擬音とよく似たダンディボイスになっていたのかも知れない。
──そうして、俺は思い出す。「さよなら」の一言も伝えられず、それきりになったあの女の子の名前を。
「──さえちゃん?」
落ちる沈黙。擬音は鳴らない。
えっ、まさかここまで来て別人? そんなことある? 俺が不安に襲われた、瞬間だった。
『……ボンッ!!!!』
不意打ちで、爆発音が鳴り響いた。もちろん本物ではなく低音ボイスによる迫真の演技だけど、発生源である片瀬さんは無事ではなさそうだ。
「だめ……ちゃん付けとか……もうムリ……」
『ぷしゅぅぅぅぅ……』
耳まで真っ赤にした彼女の、うわ言のような呟きに、蒸気的な何かが噴出される擬音が続いていた。片瀬さん=さえちゃんは間違いなかったようだ。
噴出音が収まるまでしばらく待ってから、うずくまる彼女に俺はメガネを差し出した。
「ごめん。ずっと、気付かなくて」
「わたしは、すぐに、わかったよ……だって、きみはわたしのヒーローで、あれが初恋だったから……」
微かに震える声で答えながら、彼女は片手で顔を隠したままメガネを受け取る。
初恋……彼女にとっても、そうだったのか。
「……でも、ちょっとイメージとは違ってた。前よりすごく、ウジウジした感じで……」
それは本当に、心から申し訳ないと思う。けど、これが今の俺だから。
「話しかけたかったけど、すごい壁っていうか『俺に話しかけるな』オーラ出してるから、どう声かければいいかわからなかったし……」
えっ、それじゃあ、まさかとは思うけど……
「そのために風紀委員に!?」
「ちっちがうのっ! 風紀は中学の先輩に誘われてたの!」
下を向いてメガネを掛け直そうとしていた彼女は、俺の言葉に焦って顔を上げ訂正した。
おかげで、十年ぶりに素顔の彼女の上目遣いと視線が噛み合った。
震えるまつ毛の下で潤んだ瞳、赤く染まった頬。いつものクール完璧美少女がギャップによって超強化され、どえらいことになっていた。
『キュン!』
──お互い、慌てて目を逸らす。
「……でも、きみが遅刻しかけたとき、風紀委員だったおかげで自然に声をかけられて……そしたら『ごめん』って言われて……あのときも謝ってくれたの思い出して……」
あのとき……小学生の俺が小学生の片瀬さんにメガネを渡した、あのとき。
「何度も注意してたら、そのうち思い出してくれるかもしれないなって思って……あとね……注意だとしても、お話できるのが嬉しくて……」
片瀬さん、不器用すぎるよ。でも、俺にどうこう言う資格はない。
思えばあのころ、父親と初恋の女の子が同時に自分の前から「いなくなった」ことは、幼かった俺の心に大きな影を落としたのだろう。
別離の痛みを恐れるあまり、他人との間に最初から壁を作って、内に閉じこもるようになった。それを自覚しながら、ずっと目を逸らしてきた。
──俺は孤独を愛しているんじゃなく、孤独に逃げ込んでいるだけだった。
「それに、きみがみんなと話すきっかけにもなるかなって」
「きっかけ……?」
「わたしが注意したあと、みんな慰めてくれるでしょ?」
たしかに、俺が彼女に責められたあとは決まって、クラスの男子たちがそれとなく声をかけてくれた。
「いやあ、姫は今日もキレキレだねえ」「まあなんだ、あんま気にすんなよ」「しかしなんで小野ばかり……うらやましい……」
ちなみに最後の発言は級長の増田君だ。彼は優等生なので片瀬さんから責められる機会がなく、いつも俺に羨望の眼差しを向けてくるドMだ。
「……ありがとう。でも、そういうのはいいよ。俺のことなんて、みんな興味ないだろうし」
彼女の気づかいは本当に嬉しかった。クラスメイトも、本当にいいやつらだと思う。だからこそ、このままでいい。
俺のことなんか、放っておいてくれればいい。
「やっぱり、自覚ないよね。授業中にきみが教科書を読んでるとき、女子がみんなきみの声にうっとりしてること」
「……は……?」
ふと、母親が嬉しそうに言っていたのを思い出す。
声変わりしてからどんどん、俺の声が父親の美声に似てきていると。
「……だからダメなんだよ……そんな声でちゃん付けとか、もう校則違反だから……」
あまりに想定外の情報を聞かされ呆然とする俺の前で、メガネを掛け直し立ち上がった彼女は、スカートのしわを直しながらぶつぶつと呟いている。
「放送部の吉沢さんと演劇部の阿部くん、どっちが先にきみをスカウトするかでモメてるのも知らないでしょ? きみはお昼休みすぐどこか行っちゃうし」
「……そう……なんだ……」
「まあ、行き先はもう突き止めたわけですが」
俺が情報を整理し切れずおろおろしているうちに、すっかり氷姫の空気を取り戻した片瀬さんは、まっすぐクールな視線を向けてきた。
「いろんな、理由があるのかも知れません。だからちょっとずつ、できるだけでいいから。きみの作ったその壁をね、少しだけ低くしてみてほしいな」
けれどその言葉は、いつもの尖った氷のようなそれとは違って、優しく俺の胸の中にしみ込んで、いちばん深いところを温かく満たしていく。
「……やって、みるよ……」
『ふわり』
思わず答えてしまった俺の言葉に、擬音が重なった。それは彼女の浮かべた柔らかな微笑みと、初夏の風に乗ってとどいた、仄かな甘い香り。
──そうか。あのノートは。
「うん。でもね」
すぐに微笑みを消してクールに戻った彼女は、いつもの冷たい声で宣言する。
「あんまり他の女子と仲良くしないこと。その際は不純異性交遊の疑いで厳重注意します」
「はい……え……?」
反射的に返答してから、思い切り困惑した。そこまで厳しい校則はないはずだけど……。
対する片瀬さんはメガネの中央に白い指を添え、『クイッ』の擬音と共に言葉を続ける。
「だって、きみが自分で言ったんだよ? 今後そういう目で見てもいいのは、わたしのことだけ」
──ああ。彼女を試すために放った決め台詞は、まんまと自分の首を絞める首輪にすげ替えられていた。弁論大会優勝を甘く見ちゃいけなかった……。
「それじゃ、わたしは先に教室に戻ります。もう時間ないから、遅れないでね」
「……ちょっと待って、片瀬さん」
くるり背を向け、屋上の入り口にすたすた歩き出した彼女を、俺は呼び止める。
「何? 前言撤回とか、受け付けないから……」
『……ドキドキ……ドキドキ……』
足を止めた背中から聞こえるのは、態度と裏腹の不安げな擬音。俺は覚悟を決めて、孤独から踏み出すための言葉を絞り出した。
「ええと、その。ノート届けてくれたの、片瀬さんだよね? ありがとう。今度、お礼にご飯でもおごらせて」
彼女は背を向けたまま無言で小さくうなずいて、少しの後に付け加えた。
「今日の放課後、駅裏のカフェのケーキセットを所望します」
「……うん、じゃあそれにしよう」
俺の返事を聞くと、耳を真っ赤に染めた彼女は逃げるように走り去る。
スキップ寸前の軽やかな足取りで、一歩ごとに『るん、るん』と擬音を響かせながら、その背は鉄扉の向こうに消えていった。
『キュン!』
他に誰もいない屋上に低音ボイスがはっきり響く。
それはもう誤魔化しようもなく、俺の胸の内側から鳴っていた。
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