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 それからしばらく、小林やカナエとは会ったり連絡を取ったりしていない。まあ、カナエの連絡先は知らないが。元々学科も違うし、数多くいる学生の中から小林やカナエに会うことはなかった。だか、あれ以来中庭に行くことは少し避けていた。中庭に行くと、小林やカナエに会ってしまうかもしれないと思ったから。何故避けているのか、うまく言葉で表現できないが、これ以上小林と深く関わって責任感が増えるのが嫌なのかもしれない。小林の父について、何があったのか気にはなるが、深く知ることが怖くもある。カナエに小さな変化に気付いてあげてと言われたが、もし気付けたとしても俺はどうしてあげればいいのか分からないだろう。愛想の無い俺が、無理に取り繕っても小林は余計に気を遣うかもしれないし、俺自身も疲れてしまう。

 あの日から、携帯はたまにチェックするようになった。小林からメールや電話が来てないか見るが、何もない。空っぽだ。俺は、小林と出会う前の張りのない日常に戻っていった。照りつける夏の太陽が鬱陶しく感じる。夏休みに入れば、余計に小林と会うこともないだろう。日曜日の昼下がり。小腹が空いたのでコンビニでカレーパンと缶コーヒーを買って、家に帰ろうとしていた。小腹を満たすための代償に、このじとじととした暑さに耐えるのは苦痛だった。家に着くと、エアコンが効いていて天国に思えた。俺の部屋も、エアコンをつけたままにしていたため涼しい。快適な空間でカレーパンと缶コーヒーをいただく。ふと、あの時の小林が残したクリームパンが頭に浮かぶ。あのクリームパンは、その後どうなったのだろうか。そもそも食堂なのに、何故小林はクリームパンを食べていたのか。今更になって少し違和感を感じた。売店にクリームパンは売っているが、食堂ではクリームパンを売ってない。それに、いくら細身でも昼ご飯でクリームパン一個は少ないだろう。まあ、クリームパンの前に何か別の物を食べていたのかもしれないが。突然、机に置いていた携帯がバイブレーションする。体がビクッと反応する。小林か?期待して携帯を開く。

『康幸さん、お久しぶりです。あの千円、ありがとうございました。お伝えするのが遅くなって、すみません。バイトを多めに入れてて忙しかったんですけど、今日は夜休みなんです。もしご都合がよければ、晩ご飯食べに来ませんか?リクエストがあれば作りますよ』

ただのメールなのに、ものすごく嬉しい。顔がにやける。あまり認めたくないが、ずっと小林からメールが来るのを待っていたんだと実感してしまう。それと同時に、もやもやした不安も感じる。小林と関わっていって、俺は受け止められるだろうか。何が待っているのか分からないが、受け止めきれずに逃げ出してしまう自分の未来しか想像できない。


 『リクエストは特にないけど、何時に行けばいい?』

もやもやした気持ちより、食欲の方が勝っていた。どんな料理が出るのだろう、そんなふうに期待しながらメールを返信していた。返信したと思ったら、すぐに携帯がバイブレーションし少し驚く。

『分かりました!そしたら、また十八時に駅まで来ていただけますか?』

『小林の家分かるから、直接行くよ。その方が面倒じゃないだろ』送信しようとボタンを押す前に、ナスの味噌汁をご馳走になった時を思い出す。小林は迎えに来たいし、帰りは見送りたいのだろう。全て消して『分かった』と返信した。


 母に、また夕食は要らないと伝えなければ、と思いキッチンに向かったがいなかった。大体キッチンにいるイメージがあるため迷わず来たが、どこにいるのだろうか。辺りを見渡す。ガタンと音がして振り向くと、母が洗濯カゴを置いてリビングからベランダに出ようとしていた。

「あのさ」一瞬母の体がこわばる。俺がキッチンにいるとは思いもしなかったのだろう。

「今日、小林の家で晩ご飯食べるから、夕食要らないから」

「小林さんていうのね。あ、そうだ!ご馳走になるだけだど悪いから、これ持っていったら?」噛み締めるように小林の名前を言い、母がキッチンに近付いてくる。戸棚から父が好きな獺祭(だっさい)を取り出して見せてくる。どお?と自信満々の顔で聞いてくる。

「いや、小林は日本酒なんて飲まないと思う」

そう答えると、母はしょんぼりした声で「そう」と言うと新品の獺祭(だっさい)を戸棚にしまう。少し申し訳なく思い、

「あ。飲むか、小林に聞いてみる」と言い、携帯を取り出す。

『小林って、日本酒飲む?』一分もしない内に返信が届く。

『日本酒好きですよ?!』

『じゃあ持っていく』

『わ!ありがとうございます!!そしたら日本酒に合う料理にしますね』

携帯を閉じる。「小林、日本酒飲むって」

その言葉を聞いた母は、「じゃあ持ってってね」と微笑んだ。


 十七時五十五分。すっかり日も長くなっていて、辺りはまだ明るい。電車を降りるともわっと暑い空気の塊が俺を覆う。改札を出た先に、既に小林が待っていて少し驚く。今回も遅れて来るだろうと思っていたからだ。ターコイズブルーのシャンブレーシャツに白のハーフパンツ姿の小林は、すごく爽やかだ。胸の前で小さく手を振っている。普段の小林なら、腕を伸ばして存分に手を振ってきそうだが…ほんの些細な違和感を覚える。

「康幸さん、今日はお待たせしないように準備もバッチリして来ましたから。行きましょっか」

「あぁ。あ、これ、日本酒」紙袋に入った獺祭(だっさい)を渡す。

「わっ!こんなに大きいなんて、ありがとうございます!僕たち飲み切れますかね?」

紙袋の中を覗いて、ふっと顔を上げた時の小林からはいつもより強くベリー系の香りがした。

「別に飲み切らなくていいだろ」

「まっ。それもそうですね」ニコッと笑う小林の白い歯に、妙にテカッている唇。化粧、いつもより濃くないか?いや、久々に会うからそう感じるだけかもしれない。俺達は、小林のアパートへ向かった。


 蔦に覆われたアパートが見えてくる。最初に見た時のような衝撃はもうないが、やはりおんぼろだ。小林に案内され、一○二号室に入る。キッチンの奥の部屋には、もう料理がテーブルに並べられていた。どこまで用意周到なのだろうか。

「えへへ。張り切って作り過ぎちゃったので、いっぱい食べてくださいね」

テーブルの上には、ジャガイモとイカの塩辛の炒め物、一口サイズの揚げ物、鶏皮ポン酢、ナスとミョウガの和え物と種類も豊富だ。見ているだけで、口の中から(よだれ)が溢れてくる。小林は、キッチンで紙袋から獺祭を取り出し

「あ!獺祭ですか!これ僕まだ飲んだことないんですよね。お洒落なグラスがなくて申し訳ないんですが、飲むのワクワクしますね」と言い、前回麦茶を飲んだコップに獺祭を注ぐ。雰囲気はないが、俺は日本酒にこだわりがあるわけでもないので構わない。

 テーブルの上に獺祭も到着し、これで全て揃った。小林は満足げに眺め、「康幸さん、いただきますね」と言って獺祭を一口飲む。

「わぁぁ。想像してたよりも甘くて、飲みやすいです。スッキリしてるんですけど、ちゃんとコクもありますね」

口の中で転がすように味わう小林。俺の成人式の日に父が勧めてくれて飲んだが、小林のように味わうことなく何となく美味しかったな、くらいの記憶しかない。それ以来、獺祭を飲んだ記憶もない。俺も一口飲む。

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