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赤いギンガムチェックのエプロンを翻し、小林はキッチンへ消えていった。
あのナスの味噌汁は、予想以上に美味かった。そして、母のナスの味噌汁とは少し味は違うが、小林の味付けも俺好みだ。これは、生姜焼きやほうれん草のお浸しも期待が膨らむ。早くおかわりは来ないものか、と待ちわびる。
「あ、康幸さん!ウチ、麦茶と牛乳しかないんですけど、どっちか飲まれますか?それとも、スーパーで何か買って来ましょっか?」
小林が、キッチンから首だけ出して問いかけてくる。きっと見えない手元では、味噌汁を温めてくれているのか、何か作業をしているのだろうが、奇怪な光景だ。顔も僅かに揺れている。何をしているのか気になるところだか、
「じゃあ、麦茶で」
と抑揚無く答える。本当はコーヒーが飲みたいが、わざわざ買いに行ってもらうのも申し訳ない。もちろん、俺が買いに行くという選択肢は無い。面倒だ。
「はあーい」
と笑顔で答えて、首が引っ込んでいく。引っ込んだかと思うと、ものの数十秒でお盆に茶碗とコップ2つを乗せて現れた。いっぱい食べてくださいね〜、と言いながらテーブルの上に置いていく。2人分の料理が小さなテーブルに所狭しと並べられ、ご飯、ナスの味噌汁、生姜焼きには、キャベツの千切りと、彩でミニトマトが半分にカットされ添えられている。小鉢には、ほうれん草のお浸し。麦茶が2つ…。ん?小林の麦茶は何か濁ってないか?まさか、牛乳が入っているのか?怪訝に思い、じっと小林の麦茶を見つめる。それに気付いたのか、小林は
「あ、麦茶に牛乳を入れると、あわ〜いコーヒー牛乳みたいな味になって美味しいんですよ?」
とケロリとした顔で言ってくる。嘘だ。ありえない。どうやったら麦茶と牛乳が合うというのか。
「試しに飲んでみますか?」と、差し出される白濁色の麦茶。俺は、顔を顰めて首を横に振った。美味しいのに、と呟いて、そのあわ〜いコーヒー牛乳擬きをグビグビ飲んでいく。
「ぷは〜っ!やっぱ美味し〜!」
ビールでも飲んだ後のような大袈裟なリアクション。とてもじゃないが、俺は飲みたくない。普通のコーヒー牛乳の方が美味しいに決まっている。俺は、じっとコーヒー牛乳擬きを睨みながら麦茶を飲む。うん、良かった。ちゃんと麦茶の味だ。何故だか、麦茶に細工でもされているのではないかと疑心暗鬼になっていた。
「いただきます」
と、小林は行儀良く両手を合わせた。俺は心の中で思う。人の前では良い子ぶって“いただきます”と言うタイプか、誰も居ないところでも“いただきます”と言うタイプ、小林はどっちだろうな、という皮肉を。
「うん。ナスの味噌汁は、出汁から取ったから旨味良し。生姜焼きも良い塩梅です!あ、ほうれん草のお浸しは、ちょっと味が薄いかな?んー」
小林は、自分の作った料理をひと口ずつ食べ、目を閉じて自分で評価している。きっと、俺には分からない手間隙をかけて作ったのだろう。俺も生姜焼きをいただく。生姜の風味がガツンと効いていて味も濃くて、ご飯が進む。掻っ込んで食べていたら、あっという間にご飯茶碗が空になる。ふふ、と小林は笑って、俺の空の茶碗を持ってキッチンに行く。
小林がもし女なら良い嫁になっただろうなぁと、ぼんやりと考える。ご飯を待っている間に、ほうれん草のお浸しを摘む。確かに、小林が言うように若干味が薄い気もするが、生姜焼きと良いバランスが取れている様に思う。湯気が立つご飯を、両手で熱そうに持ちながら小林が戻って来る。軽く会釈して、アツアツのご飯を受け取る。最高だ。結局ご飯を3杯食って、ナスの味噌汁も2杯飲み切り、大満足で腹鼓を打った。俺も、まさかこんなに食べてしまうとは思わなかった。
「康幸さんって、案外大食漢なんですね」
と小林も驚嘆の声を漏らした。
20時過ぎ。夕食も終えて特にする事もないので、俺はそろそろ帰ると言うと、小林が駅まで見送りますよと言い、エプロンを脱いだ。俺は「別にいい」と断ったが、「夜道で、康幸さんに何かあったら大変じゃないですか。それに、帰り道覚えているんですか?」と心配された。そんなに複雑な道でもなかったし、ちゃんと帰る時の事も考えて、曲がり道の目印は覚えていた。それに、俺なんかより、暗闇で見れば女に見えないこともない小林の方が危ないんじゃないか、と思う。
「いや、大丈夫」俺はそう答えた。
「まーまー。ここは、お見送りさせてくれませんか?ね?」
と、結局俺が何を言ったところで、小林が見送るという選択は変わらなかったらしい。無言で肯定した。
帰り道。
「今日は、僕の家にまで来ていただいて、ありがとうございました。ご飯もいっぱい食べていただいて、こっちも気持ち良かったです!」
「ああ。いや、かなり美味しかったよ…」何故か小っ恥ずかしくなり、語尾が尻切れトンボになる。
「わっ!ホントですか??ちょー嬉しいです!!また僕の料理食べていただけますか?」小林の顔にパッと花が咲く。
「あぁ」
「ありがとうございますっ!張り切って作りますね!」
えーっと、ナスの味噌汁が好きってことはぁー、ナスの炒め物とかもありかなー…あっ!そしたら、付け合わせはぁ〜…と小林がひとりでに呟いている。
小林は、何故こんなに底抜けに明るいのだろうか。俺とは根本的な性格の違いだろうか。こんな陰気で愛想の無い俺に、どうして小林は積極的に接点を持とうとしてくるのだろうか。疑問が頭の中で渦を巻く。湧き上がる疑問に対して当然答えなど出るはずもなく。俺は、考えることを止めて空を見上げる。都会の明かりに呑み込まれ、星は見えない。白南風が、俺と小林の間を通り抜ける。
駅に到着し、小林は少し寂しげな面持ちで「じゃあ、気をつけて帰ってくださいね」と手を振る。俺は軽く頷き、改札をくぐる。
俺は一人電車の中で、別れ際の小林の顔が頭から離れないでいた。もっと一緒にいてもよかったな、と思う。独りの方が好きなはずなのに。相反する感情に、苦笑をもらす。
小林の最寄り駅から、家の最寄り駅までは3駅と近く、すぐに家に着いた。玄関の扉が開く音を聞きつけたのか母がやって来て「お友達との晩ご飯は、どうだった?」と、目を輝かせて質問してくる。
「別に友達じゃない」
母の好奇心が煩わしく、突っ慳貪に返す。そのまま自分の部屋に行こうとしたが、リビングから父がのそっと出てくる。
「母さんに対して、その言い方は何だ」
低く怒気を込めた声で、父が俺の行く手を阻む。父は身長が180センチを超えていて、幼い頃から水泳をしていた事もあり、肩幅が広く、その凄みに気圧される。
「すみません」
俺は、俯いて渋々謝った。
「謝る相手が違うだろう。俺じゃなくて、母さんにだろ?」頭上から、父の言葉が重く伸し掛かる。
いちいち五月蝿いなぁと心の中で盾突くが、実際には感情を出さず、母に向き直って「すみませんでした」と言うだけだった。母は、寂寥感たっぷりに「私が余計な事聞いちゃったからよね…」と答えた。それを見た父は、
「母さんは、毎日温かい料理を作ってくれたり、お前の部屋の掃除をしてくれてるんだから、敬意を持つように」
と柔らかい口調で俺に言った後、母の元へ歩み寄った。俺はだだっ広くなった廊下を渡り、自分の部屋に籠もった。