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ルンルン気分で晩ご飯の準備をすると言い、小林とは別れた。
小林は安いアパートで一人暮らしをしているらしく、十八時にアパートの近くの最寄り駅に集合することになった。
俺は十分くらい前に到着した。特にする事もなく、ぼーっと改札口で待つ。家を出る前、母に、同期生に晩ご飯を作ってもらうため夕食は要らないと伝えた時は、最初は目をまん丸にして驚いたが、嬉しそうに行ってらっしゃい、と言われた。しかし、俺が、晩ご飯をご馳走になろうと思うなんて不思議だ。普段の俺なら絶対に面倒臭がるはずだが、小林といると調子が狂う。ペペロンチーノも美味しかった。ファミレスで食べる物より、数倍も美味しかった。リクエストしたナスの味噌汁も期待が膨らむ。母の手料理で、一番好きな料理だ。
十八時になったが、小林が来ない。晩ご飯の準備が間に合っていないのかもしれない。メールの着信音が鳴る。『ごめんなさい!料理の準備が少し遅れてしまって!十分くらい遅れそうです!ごめんなさい!』
やはり、料理に時間がかかっているようだ。仕方がないとは思いつつ、十分前から待っているため、これで合計二十分待つ事になるのかと思うと疲れる。約束の時間ちょうどに来れば良かった。『分かりました』とメールを返信し、ただ同じ場所で待つ。駅の近くを散策するなんて面倒だし、いつ小林が来るかも分からないため、大人しく待つ事にした。
宣言通り十分遅れて、小林が走って来た。肩で息をしながら
「ごめんっ…なさっ…。お待たせっ…しました」
正直、待たされた事に対して少しイラついていたが、こんなにも苦しそうにしている小林を見ると、気が収まる。ここで、少し休憩してから行こうか、とか気の利いた一言でも言えればいいのだろうが、俺は黙ったまま小林の息が整うのを待つ。しかし、小林の汗の匂いは、ベリー系の香りと相まって、嫌な感じがしない。
「すみません!待っていただいて。もう大丈夫です。僕のアパートは、歩いて十五分くらいなんで、行きましょうか?」
「ああ」
小林は歩いて十五分の距離を全速力で走って来たのだろうか。ふと、そんな事を考える。別に、そこまでしなくてもいいのに。まあ、待たされた間、イライラしていたのは事実だが。
「お待たせしてしまった分、美味しく作れましたからね!康幸さんの口に合うといいんですけど…」
小林のアパートへ向かう途中、小林が人差し指同士を顔の手前で合わせながら上目遣いで言ってくる。
「…」
「あ!もちろん、ナスの味噌汁だけじゃなくて、豚の生姜焼きと、ほうれん草のお浸しも作りましたよ!あ!康幸さんって嫌いな食べ物とかあります?」
「ピーマン…」
「可愛いっ…。はっ!!?ごめんなさい!気分悪くしちゃいました?」
ボソっと可愛いと呟いたかと思ったら、いきなり大声で我に返ったり、忙しいヤツだなと思う。俺は、大体こういう騒がしいタイプは嫌いなはずだが、何故だか嫌な気分にならない。
「いや、大丈夫」
「あーーー良かったーーーもーー気を付けよーーー」
いや、やっぱり嫌いかもしれない。鬱陶しい。
「あ!着きましたよ!ここです!このアパートです」
安いアパートということもあり、外壁は蔦でみっちり覆われている。アパートの看板は木製だか、黒ずんでいて文字が薄っすらとしか読めない。築年数は三十年以上だろうか。二階建てだか、至る所が錆びている。これからこの中で食事をするのかと思うと食欲がそそられない。そんな俺を見て察したのか、小林が
「中は、割と綺麗ですし、ちゃんと掃除もしてるので安心してくださいね?」
と言ってきた。まあ、小林自身が清潔感があるから、大丈夫だろうか。
小林の部屋は一○二号室。ど〜ぞ〜、と案内され、部屋の中に入る。玄関を開けてすぐキッチンがあり、フライパンや片手鍋が置かれている。おそらく、この中に生姜焼きやナスの味噌汁が入っているのだろう。調理器具なども、狭いスペースを有効に活用して綺麗に整理されている。部屋の中は掃除が行き届いており、清潔感と、やはりベリー系の柔軟剤の香りがほのかに香る。間取りはワンケーで、一人暮らしには十分そうだ。パッチワークのサークルに入っているからか、鍋敷きやエプロン、ミトンは手作りだ。
「料理温め直すんで、部屋で寛いでてくださいね」
赤いギンガムチェックのエプロンを纏いながら、小林は手を洗い出した。何かエプロン、女性モノっぽくないか?と思うが、美形の顔に違和感なくエプロンが映える。手際良く片手鍋に火をかけたり、皿の用意をする小林を横目で見ながら、黙って部屋に移動する。
部屋の中も片付いてはいるが、熊のぬいぐるみや、犬のクッション、猫のコースターなど手作り品で溢れ返っていた。何だか居心地が悪い。とりあえず、テーブルの近くに置いてある犬のクッションの上に座って待つ。しばらくすると、キッチンから生姜焼きや味噌汁の香りがほんのり漂う。お腹もかなり空いてきた。キッチンの方を覗いていると、エプロン姿の小林が
「お待たせしました〜。出来ましたよ〜」
と、お盆に料理を乗せてゆっくりとやって来た。旅館の女将のように綺麗な所作で、テーブルの上に生姜焼きの皿や味噌汁を置いていく。
「お味噌汁とか熱いので気をつけて…って、えーーーーー!」
いきなり大声を出され、ビクッと体が反応する。小林が、俺の尻の下敷きになった犬のクッションに近付いて来て
「あーーーーん……ジョン君が、ぺしゃんこに…」
と哀感を込めた声を出す。ジョン君?この犬のクッションのことか?小林がすごく悲しそうにクッションを見つめるため、尻を浮かしジョン君?を取り出す。ホットケーキが潰れたみたいなジョン君を小林は両手で抱え、頬をすり寄せている。テーブルの近くに置いてあるから、座る用だと思っていたが違ったらしい。小林に、何て声をかければいいんだ…。やはり謝った方がいいのか?もんもんと頭の中で考えていると、小林がムクっと頭を上げた。少し目元が赤くなっているように見える。小林が手を合わせて、笑顔を作り、
「料理冷めちゃいますよね?すみません!食べましょっか?」
と言ってきた。どこかぎこちなく、無理して笑っているように見える。
「ごめん…」
自然と口から出て来て、俺も驚く。小林も目を丸くして
「あっ。…大丈夫ですよ。…また綿を詰めれば、直りますから」
と笑ってくれた。今度の笑顔は、ぎこちなさを感じなかった。ほっとした。でも、ジョン君は相当大切な物なのだろう。小林のあんな顔、初めて見た。そして出来れば二度と見たくないと思う。……は?…俺は何を思ってんだ?俺らしくない。小っ恥ずかしい。
「あれ?康幸さん、食べないんですか?冷めちゃいますよ?」
小林が不思議そうに俺の顔を覗き込む。目が合う。不意打ちを食らい、俺の顔が紅潮していくのが分かる。何でコイツは、こんなに美形なんだ…。スッと通った鼻、クリっとした二重、柔らかそうなピンクの唇…俺、おかしいだろ、男に対してこんなふうに思うなんて。自分の頭をクリアにするため、目の前のナスの味噌汁を勢いよく飲み込む。一瞬の熱さの後に来る、味噌の風味。ゴマ油も入っているようで、味噌の風味を邪魔せず調和している。ナスのアクもきちんと抜けていて、エグミは無くトロットロ。主役のナスを引き立てている油揚げと青ネギの最強コンボ。箸が止まらない。あっという間に飲み干してしまった。小林は、そんな俺をニッコリ見つめて
「おかわり、いりますか?」
と尋ねてくる。コクコクと頷き、空の茶碗を小林に渡す。