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瀬野に恋をして、仕事に行くのが楽しみで堪らなくなった。今までは惰性でお金の為にしていた仕事にハリができて、日々の何気無い事も色鮮やかに感じるようになった。瀬野のおかげ。恋の魔法。瀬野をおかずに夜も自分磨きに精が出た。
そんな自分をどこか冷ややかに見つめる俺もいて、きっと瀬野はノンケで、この恋は成就しないと決め付けている。だが、瀬野の思わせぶりな言動に俺の心は掻き乱され、もしかしたら…と期待をしてしまう。その度に、期待しても良い事なんか無い、と何度も自分に言い聞かす。傷付く事を恐れていた。
瀬野と初めて会った日から半年が経った頃。皆、仕事を終えて、ロッカールームで着替えていた。年配者はソファに座り、世間話に花を咲かせていた。専ら健康面の話が多かった。俺は年配者達の特有の匂いが苦手で、いつも一番に帰っていた。瀬野はそんな年配者達と上手く話を合わせて盛り上がっていた。
俺は、今日も早くこの空間から出ようと身支度を進めていた。しかし、瀬野が
「康幸さん、今日、用事ありますか?」
と突然話しかけてきた。さっきまでソファに座って楽しそうに話していたのに、いつの間にか俺の隣に立っていた。
「や。ないけど」
「そしたら、こっから歩いて十五分くらいの所に、美味しいお蕎麦屋さんがあるので、行きません?」
「え?誰と?」
瀬野からの誘いは嬉しいが、年配者達も一緒だと申し訳ないが行く気にはなれない。
「二人っきりで」
瀬野が耳元で囁く。瀬野は頻繁に耳元で囁いてくる。その度にドキッとしてしまう。
「一人だと初めてのお店って緊張しません?紹介してくれた石山さんや伊藤さんは奥さんの手料理が待ってますから行けないんですって」
石山さんと伊藤さんは、二人とも二十年以上勤めているベテランで、年齢を聞いた事はないが、おそらく還暦を超えていると思う。瀬野と二人きり…。
「いいですね?そしたら、外で待っててもらえますか?僕もすぐ着替えて向かいます」
コクっと頷いてロッカールームを出る。待っている間は、そわそわして落ち着かなかった。蕎麦屋で何を期待する訳でもないが、瀬野と二人きりでどこかに出掛けるなんて、初めてだった。
トントン。
左肩を叩かれ、後ろを振り向く。瀬野の人差し指が俺の左頬を直撃する。
「あははは」
瀬野が腹を抱えて笑っている。何が起こったのか俺は一瞬分からなかった。
「康幸さんのその真顔、本当にツボです」
目に涙を浮かべて言う瀬野。
侮辱されたような感覚と、瀬野は俺の事をお笑いの対象として見ているような、何というか、失恋したような感覚に陥り、一気に冷める。笑っていた瀬野は俺の表情を見て
「そういう顔もするんですね。益々興味深いです」
と楽しげだ。瀬野を待っている間は俺も楽しみだったが、今ではもう蕎麦なんていいから一人で帰らせてくれという気分だ。こんな捻くれた性格に嫌気がさすが、これが自分と諦めている。
「こっちですよ」
瀬野に着いて無言で歩く。
「 。」
「 ?」
瀬野が俺に話しかけているが、俺は無視を続けている。これでは余計に瀬野に嫌われてしまうと分かっているが、俺は器用じゃないから取り繕う事なんて出来ない。あの時のショックが今も頭を巡っている。
重たい空気の中、店に入り、それぞれ蕎麦を注文する。俺はざる蕎麦を、瀬野は天ぷら蕎麦を注文した。
瀬野はじーっと俺を見つめる。瀬野の表情からは何を考えているのかが全く分からない。少し怖くなり、蕎麦茶を啜る。それを見た瀬野は
「康幸さんって、今まで何人と人とお付き合いしてきたんですか?童貞…ではないですよね?」
口に含んだ蕎麦茶を吹き出しそうになるのを堪えて飲み込んだ。
「…何で、いきなり…」
「や。僕の予想だと一人か二人…。康幸さんからグイグイアプローチする事はなくって、告白されるタイプというか、告白を待つタイプ。ですよね?」
探偵にでもなったかのような口調で楽しげに話す瀬野。俺の今までの態度など気にしてなさそうだ。
「あ。ちなみに、今日僕の誕生日なんです。お祝いに、一つ望みを聞いてくれますか?
「え?誕生日?…この前、先月二十歳になったって言ってただろ?」
「わ嬉しい。覚えててくれたんですね。誕生日は嘘なんですけど、そんな大きな事じゃないんで、一個お願いしてもいいですか?」
「何?」
「この後、ウチに来ませんか?」
「はいお待ち。ざる蕎麦と天ぷら蕎麦ね」
作務衣を着たおじさんが料理を運んで来た。突然、家に来ないかと誘われ、嬉しい反面不安になった。
「ふふ。迷ってます?あの時みたいに、眉間に皺寄ってますよ」
自分の眉間に手を当てる。確かに皺が寄っていた。
「さっ。旨い物は宵に食えっていいますし、先に食べちゃいましょ!ん〜美味しそ〜。見てください、このエビ天。こんなに大きいの初めてです」
サクサクと小粋な音を立ててエビ天を頬張る瀬野。旨そうに食べる瀬野も可愛い。食べる事に集中していた瀬野が、いきなりふっと顔を上げ
「康幸さん、食べないんですか?それとも、僕に見惚れてました?」
と右側の口角だけ上げて笑う。見られている事に気付いていたのか。恥ずかしくなり、慌てて蕎麦を啜る。
「ふふふ。やっぱり康幸さんって可愛いなぁ」
独り言のようにつぶやく瀬野。蕎麦を啜りながら目線だけ瀬野に向けると、溢れんばかりの笑顔だった。胸を撃ち抜かれた気がした。
「家…行くよ」
気付いたら口にしていた。




