S4 湯屋『藁々』
日没までのシャメロット狩りの成果は一同にとって充分に納得に値するものだった。
マイキーに関して言えば、彼が定めたノルマを超え『シャメロットの甲羅』六枚という成果を上げていた。だが、それだけでは無い。ここで嬉しい誤算が起こったのはシャメロットが落とすアイテムは甲羅だけでは無かった。『シャメロットの蟹肉』という余剰品が計十一枚付いたのである。
これらの素材品を村の道具屋で換金したところ、甲羅は13ELK。蟹肉は7ELKで換金する事が出来た。その換金合計金額は一人が150ELKを裕に超える金額を手にする事となった。
夕方狩りを終え、多少の疲労を覚えた三人はまず宿屋にチェックインする事に決めた。宿屋の位置は大体把握していた。何故ならば三人は村入り口の洞穴を抜けた先で、宿屋らしき立て看板を既に目にしていたのだった。
トライアングルハットから、花畑を右手に抜けて村の入り口付近と引き返した三人はそこで目的の看板を目にする事になる。
――湯屋『藁々(わらわら)』――
看板を目にしてまず呟いたのは、ジャックだった。
「湯屋って書いてあるぜ。ここ宿屋じゃねぇだろ?」
「お風呂屋さん?」とアイネが首を傾げる。
そんな二人にマイキーは淡々とした口調で答える。
「説明書ちゃんと読んでないのかお前等。冒険の手引きの説明項目で観光スポット欄に書いてあっただろ。ちゃんと宿泊出来るから安心しなよ。朝飯も付く。風呂はむしろオプションさ」
マイキーの説明に煙たい顔で頭を掻き始めたジャックは、ふと湯屋の入り口の方へと視線を向ける。
「あの分厚い説明書読む奴の方が少ねぇよ。てか暖簾になんか温泉って書いてないか?」
「何でもこのエリアで火山帯が見つかったとか。オープンβの時には無かったらしいよ」
このエリアには火山帯が通っている。もはやそんな情報はジャックとアイネにとってはどうでも良かった。
疲れて戻ってきたこの村で温泉に浸かる事が出来る。その事実の存在が二人の思考を完全に乱していた。二人に急かされるように背中を押されたマイキーは怪訝な顔を見せながら湯屋の中へと足を踏み込ませる。
藁小屋の中には円壁に沿って木造のカウンターが設置されていた。弧を描くように両側に伸びた壁には油彩の素朴な絵画が飾られており、奥の通路前には美しい水玉模様の毛並みを携えた一角獣の置物が前足を掲げていた。空間奥、右側にはロビーらしき間も存在した。
建物内にはカウンターでPBを広げる冒険者が十数名。それ以外に係員らしき姿は見当たらない。
「係員が居ねぇな。これどうやって予約するんだ」
そう呟いたジャックの傍らを溜息を吐きながら壁際のカウンターに向かって腰を下ろすマイキー。
「インディビジュアルエリアがこの世界に導入されてオートメーション化が進んで、必要人員が大幅に削除されたっていう話は知ってるだろ。きっとこの宿屋もその煽り食らってるんだ。なんか人の出迎えが無いっていうのは少し寂しいけど。仕方無いさ。これ使うんだろ、きっと」
そう語ったマイキーはカウンターに取り付けられているPBの接続端末コードを摘み上げて見せた。
それを見て、マイキーの両側にそれぞれ腰を下ろしPBを広げる二人。一同はそれぞれPB側面部の接続端子に端末コードを取り付ける。
モニターにポップアップする湯屋のポップアップアイコンを見つめながら三人はそれぞれ情報に見入り始める。
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●湯屋『藁々』
この度は湯屋『藁々』をご利用頂きまして誠にありがとうございます。
本屋は創世暦元年よりここエルム村で旅の宿として冒険者の皆様をお迎えしてきました。
昨年末の事です、ティムネイル諸島に火山帯が発見された事で、この島でも温泉が発掘されました。そのため創世暦二年の正式サービスに合わせて本屋は温泉宿として生まれ変わり、湯屋『藁々』と改装させて頂く事になりました。
クローズドαより受け継ぐ藁造りの内観はしっかりと継承しております。古きを受け継いだその純朴な藁独特の香りを楽しんで頂ければ幸いです。
冒険でお疲れの御身体を本屋でごゆっくりとお寛ぎ下さいませ。
▼宿泊のご案内
・個室(10ELK)
・大部屋(25ELK〜)
※大部屋に泊まられる際はパーティーを組む事をお忘れなく
※浴室はそれぞれ個室に付属していますが、温泉は別室にて共同となります。バスタオル、ウォッシュタオル、その他各種備品は浴場にご用意しております。
※本屋では浴衣の無料レンタルを行っております。メニューから浴衣を貸し出しておりますので是非ご利用下さい。ただし、ご利用は本屋内のみ使用が可能となっており、浴衣をご着用されたまま本屋から外出しようとされた場合、プロテクトガードにより外出が不可となりますので、外出の際には予め装備を変更されてお出掛け下さい。浴衣については本屋から出た場合自動で回収させて頂きます。
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室内奥には宿泊室や浴場へと繋がる板張りの通路が延びていた。
それらの位置を確認すると、マイキーは口を開く。
「個室でいいよね。そっちの方が気が楽だろ」
マイキーの言葉に即座に反応したのはアイネだった。
「それじゃ夜一緒にトランプできないよ」
「ウィンクキラーやろうぜ」とジャックがそれに便乗する。
「発言する前に一度考えろよ。ウィンクキラーって三人でやったら主犯者、共犯者、一般市民で。一般市民即死だろ。大体ニ百歩譲ってお前等トランプ持ってるのかよ」
尤もなマイキーのつっこみに不服そうに二人は顔を見合わせる。
「お前、馬鹿って言ったら自分が馬鹿なんだぞ」とジャックが冗談めいて真顔を作る。
「まだ言ってねぇし。これからだよ、バーカ、バーカ!」
そんなマイキーとジャックの様子に両手を広げて呆れた様子で微笑するアイネ。
「あなた達十八歳にもなって、一体何歳のつもり。これだから男の子ってお子様」
「ってゆうか、トランプって言い出したのお前だろうが」
カウンターで騒ぎ始める三人にちょっとした視線を注ぐ周囲の冒険者達。
そんな視線に気付いたマイキーが一同を宥め、再びPBに向い始める。
「無駄な体力使わせんなよ。それじゃ個室で。もう料金支払ったから。飯は風呂の後でいいよね。部屋入ってそれぞれゆっくりしてその後。そうだな、今18:30だから。20:00にここのロビーで待ち合わせしよう。込み具合によっては位相ずらされる可能性もあるから、ずれてたらメールで連絡するから。そうだ、フレンド登録しとこう」
そうして、マイキーの言葉にこれからの行動予定を確認した一同はフレンド登録をここで交わすと、ロビーへと足を進める。水玉模様の不思議な一角獣の置物を左手に通り過ぎると、右手には柔らかな皮で出来たソファーが対に点在していた。その間には木製の平テーブルが挟まれている。
「それじゃ20:00にここで」とマイキー。
「バイバイ。また後でね」と紅瞳で流し目しながら通路へと消えて行くアイネ。
通路奥へと消えて行くアイネの美しい後髪を見つめながらその光景に頷くジャック。
「なるほど、ここでもインディビジュアルシステムってわけか。自動的に位相ずらされて部屋に転送されるって訳だ。そうだよな、こんな小さな湯屋に五十万のプレーヤーが泊まれる訳ねぇもんな」
「後で位相は指定するから安心しなよ」
マイキーの言葉に頷いたジャックは宿泊室へと続く一本道に手を振って姿を消して行く。
「さて、ようやく静かになったか」と一人呟くマイキー。
そうして別れた一同は暫しの時を思い思いに過ごし始める。
張り板を踏みしめながら薄暗い渡り廊下の先の自室に手を掛けるマイキー。
中は小さなワンルームだった。部屋の片隅に柔らそうな布地の敷かれたベッドとその傍らに丸い小さな木製のテーブルと丸椅子が置かれていた。テーブルの上には小さな窓が、そこからは緩やかな傾斜の上のギルドが、手前には花畑に包まれた女神像が一望できる。
こうした美しい光景はいつ見ても心地良い刺激を齎してくる。花畑の前では丁度小さな子供達が祈りを捧げかけっこを始めるところだった。
楽しそうにはしゃぎ出す子供達の姿を見つめながらふっと微笑を漏らして、マイキーは先程の自分達の姿と彼らを重ね合わせていた。
「大して変わんないよな。いつになったらガキから卒業できるんだか」
ベッドでPBを開いたマイキーは自らの位相を確認するとそそくさと立ち上がる。
「さっさと風呂入ってロビーでゆっくりするか。なんか宿のパンフレットとかどっか無いのかな。暇潰しに読みたいとこだけど」
思考を整理しながら、部屋を見回すマイキー。
「あ、そうか、浴衣。どうしようかな。また夕食で外出るし。今はまだいいか。浴衣一度着たら着替えたく無くなるだろうし」
そんな呟きを漏らしながら早々と部屋を出たマイキーは渡り廊下を歩き浴場へと向う。一本道の通路を引き返した彼はロビー前の看板を一瞥すると、案内に従って浴場へとロビーを折れて行く。
外から見るよりも内観は広い。浴場へ向うに連れて多くの冒険者達と廊下ですれ違い始める。浴場は共同と記されていた事から、ここからは空間を他の冒険者達と共有するのだろう。そんな事を考えているマイキーの横をふと浴衣を着た風呂上りと思われる、可愛らしい女の子の三人組が通り過ぎて行った。通り際にほのかに香る石鹸の香りに、ふっと微笑するマイキー。ありきたりだが、男はこういうシチュエーションに弱い。
大浴場と書かれた暖簾に差し掛かったマイキーはそこで立ち止まり当惑する。
「男湯ってどっちだ。どっちも何も一つしかないし。まさか混浴? そんなわけないよな」
そうして、立ち止まるマイキーの後ろから今二人の男女が微笑みながら暖簾を潜りその姿を消して行った。
消えて行く彼らの背中を見つめながら、ふと悩んでいたその表情から曇りが消える。
「ああ、なるほど。ここも自動で男女振り分けられるのか。それしか考えられないよな」
そう呟きながら暖簾を潜り始めるマイキー。
「これって結構、女の人抵抗あるんじゃないか。男と同じ暖簾くぐるって」
そうして、浴場の中に入ったマイキーは辺りを見渡して再び当惑する。浴場と言えば現実からの連想で籠やロッカーが立ち並ぶ旅館独特の風景を思い出してしまうが、その空間にはそうした物は一切存在しない。板目の間に存在するのはバスタオルとウォッシュタオルが綺麗に畳まれ置かれた台座と、真白なスクウェアタイプの小型のボックスが立ち並んでいた。
「なるほど、このBOX内でそれぞれ着替えするわけか」
ボックスに近寄るとそこには青いラインで『空き』と記されていた。
この空間に存在する全てのボックスはどうやら空きのようだった。それどころか人の気配が全く感じられない。たまたま振り分けられた位相に初めてやって来たのがマイキーだったのだろうか。彼は深く考えない事にした。
ボックスの白い扉の青いラインが赤いラインへと変わる。
マイキーはPBを開くと、静かに装備を解くボイスコマンドを宣言する。
「Naked ON」
自らの身体が真白な光に包まれて輝き出すと、マイキーはさらにPB上にポップアップした装備解除のアイコンをクリックする。
装備解除はボイスコマンドによる宣言と、PB上でのアイコンクリックの二重方式。これによってプレーヤーのミスを防止するという事らしい。確かにボイスコマンドだけで全裸に為れるのなら、誤って外で全裸を晒す者も少なくないだろう。
ちなみにただ装備をPB上で外すだけでは全裸になる事は出来ない。ただ装備を外した場合は下着を着服した状態がデフォルトとなる。
PB上で装備解除のアイコンをクリックしたマイキーの身体から光の収縮と共に装備が引き剥がされる。
ウォッシュタオルを片手に持ったマイキーはそのまま引き戸を開けて浴場の中へと足を踏み入れる。その瞬間、視界が夕闇に染まり、冷たい外気が彼の身体を包み込む。
「浴場って、これ外なのか」
そう呟きながら足早に誰も居ない浴場の端に走り込むマイキー。辺りは湯煙に包まれていた。
高い天然石の岩場に取り付けられたシャワーの蛇口を捻り、その湯を頭から受けたマイキーはウォッシュタオルに岩場の窪みに置かれていた石鹸を手に取り身体を洗い始める。
首周りから洗い始めたマイキーはゆっくりと身体の下に向かって汚れを落としながら、ふと辺りを見渡す。岩場の先の段差の上に組まれた小屋の看板にじっと目を凝らすマイキー。
「あの小屋って何だろう。休憩室かな。風呂場に? まさか」
この浴場はどうやら高い岩場に囲まれて外界とは遮断されているようだった。海岸側の高い岩場と藁々の建物に囲まれ、つまり周囲から隠されている。
浴場の入り口から見て正面には巨大な一枚岩の窪みに湧き出した源泉を溜めた大きな湯船が。その右手の岩場にはシャワーが、左手には打たせ湯と小さな水風呂が湯船に隣接するように存在した。
シャワー側の奥の一段、岩場を上がった先には小さな小屋が設置されており、そこだけがマイキーにとって理解の外側だった。
身体を綺麗に洗い流したマイキーはまず、その謎の小屋へと近づいて行く。
「とりあえず、入ってみるか」
そして小屋の扉を開くと同時に彼はその意味を理解する。
小屋に入った瞬間、彼の身体を包み込んだのは外気からは信じられない温度の熱気だった。
「サウナか、ここ。薪焚きってまた随分原始的なサウナだな」
小屋の内部は板張りで二段の段差になっていた。左手前には薪を焚く大きな暖炉が存在した。
段差を上がったマイキーは二段目に上がると、腰を下ろし足を組む。
入り口の壁には大きな十二分用の砂時計がその輝く砂をさらさらと落としていた。その砂時計に歩み寄り逆さにすると再び定位置に戻ると、静かに時を過ごし始める。
「室温98℃か。十二分ってどんくらいだろ。結構長いよな。サウナあるなら先にこっち入ってから身体洗いたかったな。失敗した」
そんな事を呟きながら、ただ身体を包む心地良い熱気に身を任せる。
それは紛れも無く、この上無い至福の一時だった。
それから十二分後、サウナからは飛び出すように駆け出るマイキーの姿が在った。いくら至福の時とは言え、十二分間ともなると後半は忍耐の時間となる。
「あの砂時計、在り得ないだろ」
岩場をよろよろしながら段差を降りたマイキーはそのままシャワーのある岩場で、冷水を身体に浴び火照った身体をクールダウンさせ洗い流す。
脳まで沸騰するような朦朧とした意識が、冷水によって次第に鮮明化し始める。
そこで、ようやくメインの湯船へと彼は視線を向ける。冷水で冷やした身体を温かい湯船に着けた瞬間、背筋を駆け上る感覚に身震いする。
熱い湯に身体をゆっくりと浸しながら岩場の窪みの奥へと身を沈めて行く。
「最高だな」
そうして、マイキーは岩場の一部に自分のスポットを作り、そこに身を落ち着ける。
湯船からは、立ち昇る蒸気によって辺りの様子は朧気だった。相変わらずこの広い浴場にはマイキー以外、冒険者の姿は見られない。文字通り、完全に独占だった。そんな独占という言葉の響きにマイキーが一人悦に浸っていたその時だった。
突然、湯煙の向こうに現れる人影にマイキーは伸ばしていた足を咄嗟に組み直す。
「誰か来たか。残念だな」
岩場に腰掛け直し、その湯煙の向こうのシルエットを見つめていると彼はシャワーがある岩場の方へと消えて行った。そこで流れ出すシャワーの音。
その音にじっと耳を傾けながらマイキーはその人物が来るのをただ静かに待っていた。
シャワーの音が止み、湯船に雫を垂らしながら近づいてくる音。
「お邪魔します」
その声に一瞬の違和感を覚えるマイキー。
湯煙の中で近づいてくるその人影に彼はさりげなく視線を投げていた。そして、近づくにつれて明確になったその人物の姿にマイキーは言葉は失う。
真白な肌に美しく背まで伸ばされたブロンドの髪。ふくらんだ豊かな胸元を手で抑え、紅瞳で驚きを隠さずにマイキーを見つめるその人物。
「アイネ。お前なんでここ居るの」
呆然とするマイキーの前で、アイネは驚いた様子で身を湯船に沈め彼を上目遣いに見上げる。
「それはこっちのセリフだよ。何でマイキーがここに居るの」
どうやら話を聞くと彼女は女湯の場所が分からず、入り口で他の女性冒険者に場所を聞いてここへ入ってきたらしい。彼女が聞いた話も入り口は一つで自動で振り分けられるという内容だった。
「何で。じゃあやっぱ混浴なのか」
そんな事を呟きながらマイキーはアイネから目を反らし俯く。
そんなマイキーの様子に身体を湯船に浸しながら彼に呼びかけるアイネ。
「ねぇ、マイキー」
「……ん」
マイキーは視線も上げずにそう相槌を打つ。
「私の裸……見たでしょ」
アイネのその言葉にふと顔を上げて鋭い眼差しを返すマイキー。
「お前の裸なんか見たってしょうがねぇだろ。見られたくないなら距離取れよ」
それはアイネにとっては恥じらいの言葉だったのか。どちらにせよ、彼女にとってマイキーの返答は期待の外の言葉だった。
無言で湯船から身体を上げたアイネはブロンドの後髪を水面に浸しながらゆっくりとその距離を縮めると、彼の横へと腰を下ろす。
「ねぇ、今私達二人だけなんだよ。この意味分かる?」
そして静かに紅瞳をマイキーの顔元へ近づけ、その身体を彼へと寄せる。
生身の肌と肌が触れ合う瞬間。何の躊躇いも無く、無造作にその白肌と胸元はマイキーへと当てがわれていた。
その理解出来ない行動に呆れた様子で溜息を吐くマイキー。
「たまにお前が何考えてるかわかんなくなる時がある。そんな関係じゃないだろ自分達」
そんなマイキーの言葉にアイネは恍惚の表情で彼に視線を流す。
「なら、そういう関係になろうよ」
近づく二人の距離にマイキーが険しい表情を浮かべる。
「いいから距離取れよ。キレさせんな」
マイキーがそうアイネを突き放したその時だった。
突然アイネは向き直ると、強引にその腕でマイキーの顔を引き寄せ唇を重ねる。優しく甘い香りが口の中に広がると同時に、マイキーの目の色が変わる。
抱きついた彼女の身体を突き飛ばさそうとマイキーが身体を上げたその時には、アイネは彼の身体に覆い被さるように跨っていた。
「マイキー、抱いて」
マイキーの瞳が赤みを増して充血したその時だった。
「お前等、公共の施設で何やってんだ」
湯煙の向こうから突然現れたのはジャックだった。
彼の姿に慌てて身体を引き離し隠すアイネ。
「ここがお前等の自室ならこんな野暮な真似しないけどな。誰が入ってくるかわからねぇこの場所じゃ流石の俺も放置しておけねぇよ」
マイキーは押し倒された身体を起こしながら首を振って体勢を整える。
「やっぱ偶然じゃないな」
「何がだ?」
ジャックは湯船に身体を沈めながらマイキーの言葉の先を促す。
「これだけ転送される位相が数千単位で分岐してるのに、この三人だけが同じ位相に飛ばされる確率がどれだけあると思う? 在り得ないんだよ」
マイキーはふとPBを開くとその推測を確認するように頷く。
「その理由が今分かった。僕ら今パーティ組んでるからだ。おそらくパーティ組んだ状態で暖簾くぐると、そのパーティだけ同一位相に飛ばされてプロテクトされるんだ。だから、他のプレイヤーは入って来れない」
「なるほど。そういう事か。脱衣所で誰も居ないからおかしいと思ったぜ」
湯船の水を両手で掬い上げたジャックは顔を洗い流してそう呟いた。
アイネは依然不服そうに、マイキーを見つめながら湯船から包み隠さず裸体を上げた。
「お前、裸隠せよ」
マイキーの言葉にアイネは二人に無言で背中を向けるとそのまま湯船から上がり湯煙の向こうに消えて行く。消え際にマイキーに対する罵倒の言葉を一言残して彼女は去って行った。
そんな様子を見て「また痴話喧嘩か」と苦笑するジャックに対して「そんなんじゃねぇよ」とマイキーが否定する。
「一度付き合ってみたらどうだ? あんだけ好かれてんだ。見目も悪く無いし、あいつと付き合いたくて振られて来た奴の数考えれば決して悪い話じゃねぇだろ」
「振った数なんか関係ないね。一度真剣に考えた事はある。その時結論は出してるんだ。アイネだけなら、自分でも何とかなるかもしれない。でも彼女にはクライネが居る。あいつが出て来たら僕の手には終えない。どう考えても彼女と関係保つなんて無理なんだよ」
マイキーの言葉にジャックは遠い目をしながら「確かにな」と一言そう呟いた。
「お前なら一番あいつの理解者に為れるんじゃないかとは思うんだけどな」
「買い被るなよ。いつも言ってるけど彼女と僕じゃ症状は別物なんだ。受けてる苦しみもまた別質さ」
そのマイキーの言葉を最後に二人はその話題に触れる事を止めた。今後の予定に会話は移り変わり、ただ純粋に与えられた環境を楽しむ。
湯屋『藁々』。そこは冒険者達に至福の一時と何より笑顔を与える場。
湯に浸かり他愛もない会話をする二人は、湯屋本来の目的を取り戻しつつあった。
▼次回更新日:未定
中途半端ではありますが、暫し筆を置かせて頂くと思います。不定連載で申し訳有りませんが、宜しくお願い致します。なお、これまでに頂いたご質問に関しては、何れどこかのタイミングでQ&Aを作らせて頂きたいと思います。一つ重要なご質問で何故記憶が解禁されたのか。スウィフトに記憶が戻ったら現実へ戻った意味が無いのでは? というものがありました。これについては正式サービス二週間前から、稼動前のオープンα、β経験者は記憶の復帰を選択する権利が生じます。つまりその権利を主張しなければ、本人に記憶が戻る事はありません。またエルツについても同様に彼の意志次第で記憶を復帰させる事が可能となりました。彼が記憶を復帰させるかどうか、それは私にも分かりませんがこれをARCADIA正式稼動後の記憶の在り方として定めています。エルツにとっては人生を決める二者択一で想い出を手放した直後に、こうしたチャンスを与えられるというのはちょっとした運命の皮肉かもしれませんね。