〆第一章『緑園の風』
青い水平線の彼方に連なるその影は
人々の想いを乗せて運ぶ箱舟のようにも見える
(ヨハン=エルゼウス 『箱舟』より)
■創世暦ニ年
四天の月 火刻 13■
澄み渡った美しい青空の下にはどこまでも透き通る蒼海が広がっていた。
空と海が織り成すグラデーションは現実では見る事の出来ない自然芸術である。いや、この世界の根底を問うならばその表現はやや誤りだろう。今存在するこの場所が仮想現実である事を考えるならば、自ずと青年が喚起された感情も造られたものに過ぎないのだろうか。
だが、それは青年にとっては愚問に等しい。浜辺で海を眺める淡い青色の瞳。優しい栗色の髪を風に靡かせながら彼は一言呟いた。
「興醒めなんだよ」
余計な思考は切り捨てればいい。この世界に来てまでわざわざその美しさの根底を否定する事は愚かしいにも程がある。青年が吐き捨てた興醒めという言葉は、まさに彼の素直な気持ちを表していた。
この世界へ来た彼の目的は極単純だ。人工物で固められ廃れた現実には興味が無い。ただアスファルトやコンクリートで塗り固められたそんな現実世界で自らの感性を日々乏しめられる事は青年にとって死よりも苦痛だった。
だが、この世界ならば辟易としていたそんな日常では有り得ない様々な貴重な体験を得る事が出来る。
国内初のVRMMORPGであるARCADIAの情報が解禁されたのは、僅か二週間前の事だった。今までゲーム内のその全ての情報を伏せてきたD.C社が突如公開したその内容は驚くべきものだった。インターネットやTVなど各メディアを通じて放映されたその鮮烈な世界の姿は人々を一瞬にして魅了したのだった。
六十八万二千五百円という筐体価格にして、発売日の供給筐体数は国内で百万を突破した。小型のお手頃価格のハードソフトでも業界の伸び行きが下降線を辿る現代で、ミリオンセラーとは、異例に超が付く程の事件である。だが売れたのは事実。この事実をそのまま受け止めるならば、ARCADIAの正式サービスが稼働する五月二十六日、この日最大で百万のプレイヤーがこの世界へアクセスしてくる事になる。
そんな稼働日当日にアクセスする奴は余程の馬鹿野朗に決まっている。オンラインの稼働日というのは決まって事故が付きものだ。ましてやその規模が百万とも為れば、自ずとその想像は容易い。だからこそ、稼働日にまるで餌付けを待った雛鳥のように巣から落っこちそうな勢いで餌に食らいつくプレーヤーは青年にとっては馬鹿の一言で一蹴出来るのだ。
そして、青年もまたそんな馬鹿野郎の一人だった。
◆―――――――――――――――――――――――――――◆
PLAYER NAME:Mikey
Login Password:********
◆―――――――――――――――――――――――――――◆
筐体が届くと同時にクレジットカード番号や住所登録といった個人情報や認証を手早く済ませた彼は、一秒でも早くこの世界へのアクセスを望んでいた。プレイヤーネーム『マイキー』。それがこの世界での彼の名前だ。
頭には大小無数のコードが絡み合った奇妙なヘッドメット。このアクセス端末を用いる事で、自らの脳を一つのサーバーとしコントロールし、ARCADIAのメインサーバーへと繋げる事が出来る。カプセル型の透明なボックスに横たわりながら、仰向けに頭上のモニターを見つめボックスから吊り下げ固定されたキーボードを弾き認証を行う。
接続準備が済むと同時に、モニターにはログイン中という文字が浮かび上がり、ボックス内には真白な煙が充満し始める。ひんやりとした冷凍ガスの気温に当てられながらアクセス端末の脳波制御によって次第に意識が遠のき始める。その感覚は麻酔ガスによる全身麻酔に酷く似ている。
遠のく意識の中で暗闇が全てを包み込む瞬間、まるで自らの身体が重力を失い空気に溶け込むかのようなその解放感は何とも言葉にし難い快感だ。
やがて、視界の中には小さな光が浮かび上がり始める。浮遊する意識の中、漆黒の闇だと思っていたその世界に浮かび上がるは無数の星々。その星々の合間で煌く輝き。ただの闇だと思っていた世界が大宇宙へと移り変わる瞬間。その時初めてプレイヤーは自らもまた星間で輝くそんな不思議な輝きの一つである事を知る。大宇宙に煌くその無数の輝きが織り成すその幻想的な光景はそれを前にするプレーヤーから言葉を奪う。
そんな輝きの群れの前にただ一つ確かに存在する巨星。圧倒的な存在感を前にマイキーの思考は完全に停止していた。宇宙から見ても分かるその蒼い輝きは生物の起源である海を示すのだろう。また美しいまでの豊かな緑は、言うまでも無く植生を示すのか。それは紛れも無くこの巨星が生きている事の証だった。
この巨星が示す名を既にマイキーは知っていた。何故ならば、この星を開拓し理想の世界とする事が自分達プレイヤーに課せられた使命、つまりプレイ目的であるとこの世界へアクセスした者の誰もがその前提に基づいているからだ。
――惑星ARCADIA――
蒼と緑に包まれたこの巨星の名にこそ、人々の理想が託されているのだ。
星間で輝いていたその一つ一つが今、この巨星の引力によって導かれ落下して行く。
マイキーもまたその例外では無かった。迫り来る巨星の大気圏に向けて今ゆっくりと落下を始める。それは引力が重力へと導かれ移る瞬間。
大宇宙の中での浮遊感はいつしか緊迫した落下運動へと変わっていた。次第に加速して行く自らの身体を見つめながらマイキーの心は少なからず動揺していた。
穏やかな運動は急速に変化を見せる。光に包まれていたマイキーの身体は巨星の大気圏に差し掛かると同時に、摩擦熱で噴煙と炎に包まれる。凄まじい熱気、これがただの生身であれば一瞬にして彼の身体は塵と化す。だが、光によって保護された彼の身体は今真白な大気圏の中を一直線に突き抜け、僅か数分後には彼の目の前には蒼と緑に包まれた鮮烈な世界の姿が浮かび上がっていた。
「これが……ARCADIA」
今惑星の重力によって自由落下する彼の身体は風を切りながら惑星の地表を目指し始める。自らの身体がどこへ向っているのか、そんな疑問はもはや彼の意識の外の事だった。このまま自由落下を続ければ、たとえ落ちた先が海面だとしても死は免れ得ない。だが、今の彼にとってはそんな事は些細な問題だ。
――最高だ――
始めは大陸として見えていた地表はいつしか明確な海岸線を帯びていた。
不思議な陸続きとなったその海岸線の先には小さな村の姿も映った。
「始めの目的地はあそこか」
そうしてここで目的地を意識したところでようやくマイキーは着地方法を考え始める。
地表はもはや目前に迫っていた。その距離、僅か数十メートル。数秒後には彼は地表に落下する。もはや衝突は避けられない。
彼が死を覚悟して落下の衝撃に身を構えたその時だった。
光が地表と衝突すると同時に、巨大な衝撃音と共に一瞬ふわりと空気圧で舞い上がる。避けられぬ地表との衝突からマイキーを救ったのは目に見えぬ空気のクッションだった。
その衝撃によって一度大きく浮いた身体をマイキーは立て直しながら、ゆっくりと辺りを見渡し始める。
これが彼がこの砂浜へ降り立った経緯だった。
「……助かったのか?」
そこは小さな浜辺だった。突き出た岩礁の合間に覗いた白く美しい砂浜。
冒険者の誰もが通る通過点。全ての物語が始まる起源点であった。
ここが旅立ちの浜辺と呼ばれる事をマイキーは事前情報から知っていた。ここへ到達するまでの演出はこの世界を始めて体験する者達へのちょっとしたご挨拶と云ったところだろうか。どちらにせよ、マイキーの好奇心を誘うにはこの上無い効果を発揮した事は事実だった。
腰元に備え付けられたのは銅製のナイフが一本。衣服はいつの間にか麻着を纏っていた。紐による結び目に付いた茶色のチュニックに、同様に茶色に染色された麻のジーンズ。
護身用のナイフなのか、マイキーは銅製のそのナイフを腰元から引き抜くとニ、三振りしてその感触を確かめる。確かな重量感。それは紛れも無く武器と呼ばれる代物だった。
現実ではこんなものを振り回していれば忽ち銃刀法違反という揺ぎ無い罰則が待っているが、この世界でのこの武器の在り方はそうした法律に定められるところでは無い。
「初期装備か。敵がこの近くに居るのか? まぁいいか、あいつらでも探すか」
そうして歩き始めるマイキー。
湧き起こる疑問は数々あったが、だがこの時はまだ深く考えない事に決めていた。
あの宇宙空間で見た無数の輝きが自分と同じプレイヤーだったのならば、彼らはどこへ消えたのか。降り立った場所が違うのか。アクセスポイントが無数にあるならば、何を以って振り分けされたのか。だが、ここで思考は振り出しに戻る。
どうせ、今そんな事を考えても無意味なのだ。そんな疑問は経験が解決する事だ。目的地は既に決まっている。まずはこの世界へ落下して来る際に映ったあの村を目指す。
そうして、冒険者は今本来の目的へと歩みを始める。それは一人の冒険者の新たな門出。
波に打たれるその白い砂浜にはしっかりとその足跡が残されていた。