S1 最後の夕陽
荒野の中に寂しげに佇む一軒の赤煉瓦の建物。周囲には何も無い。
立ち話もなんだからと、少年が案内された店の看板にはMarshe nes Abelとそう記されていた。
開かれた扉を潜ると心地良い鈴音が耳奥を刺激する。店内の奥ではテーブルに乗せられたシュガークッキーとコーヒーカップを囲んで幾人かの冒険者達が会話を楽しんでいた。
「おかえり、マイキー。あら、その子は?」
青年の姿に気付いた、そのテーブルを囲んでいた一人の女性。美しいブロンドに宝石のように透き通った鮮やかな紅瞳を浮かべた彼女は、少年の姿に優しい眼差しを向ける。
「採集の帰りに荒野を歩いてたら、ワイルドファングの群れに襲われてたんだ。無抵抗に身体差し出してたから自殺かと思ったんだけど、それならセルフ・ディストラクションあるしな。余りに様子が変なもんだから気になってさ。店から近いし、立ち話もなんだから連れて帰ってきた」
「そうだったのね。大丈夫? 怪我は無い?」
優しい女性の言葉は胸の内をそっと撫で落ち着かせるような、そんな響きを携えていた。
「そこの天然ボケ。いい事教えてやる。この世界じゃ怪我はしないんだぜ」
そんな彼女に向けてテーブルから痛烈な一言を放つ黒髪の男性。肩まで流した、まるで百獣の王を象徴するかのような鬣に似たワイルド・ヘアに曇りの無い黒瞳。整った目鼻立ちと引き締まった口元からは、多少の威圧感を感じ取る事が出来る。
そんな青年の隣ではライト・ブラウンの毛髪を立たせた尖り頭の少年が椅子の背凭れ越しに振り返り、人懐こい笑顔を見せていた。
「ジャック、発言気を付けないと。女性は皆デリケートなんだから。女の人は相当の年になると、いらつき易くなるって僕の母さんが言ってたよ」
「誰が更年期障害ですって。タピオ後で覚えてなさい!」
激昂する女性の言葉に「何で僕!?」と震え上がるタピオと呼ばれた少年。
「ごめんね。騒がしいけど良かったらゆっくりしていってね」
再度向けられる優しい眼差しにほっと胸を撫で下ろす招かれた少年。
テーブルの中で、絶え間無く広げられる会話の中で簡易な自己紹介を始める一同。
少年の名は、テトラと言った。
「さてと……それにしても何であんなところに一人で居たんだ?」
この店を訪れる切欠で在り、命の恩人でもあるマイキーの言葉にテトラは一瞬の躊躇を見せる。だが、隠す必要性の有無を認識した時、少年は素直にその理由を告げる。
「夕陽が見たかったんです」
少年の言葉に、戸惑い顔を見合わせる一同。
「ボクは今日で引退するつもりだったから。だからこの世界で一番大好きなバスティアの夕陽を見たかったんです」
「引退……でもどうして? ごめんね、こんな事聞いて」
アイネの言葉に少年は力無く頷いて視線をテーブルへと下げる。
「ボクはゲームは好きだけど、運動神経も良くないし、喧嘩も苦手で。争いとかあまり好きじゃないから」
「確かに、争いごとが苦手じゃこの世界はちょっとキツイよな。俺らだって何度死にかけたか分からねぇし。ある種、マゾヒストでも無い限り享受は難しいぜ」
ジャックの共感に対して、その言葉に反感を表明するのはナディアだった。
「そんな事はないですよ。ジャックさんの言い方だとこの世界を楽しんでいる人は皆マゾヒストみたいじゃないですか」
「そんな論議今どうでもいいんだよ。なるほど、それでこの世界を引退するつもりだったのか。でも何でそれならセルフ・ディストラクションを使わなかったんだ?」
会話の流れを引き戻したマイキーにタピオが純粋な答えを口にする。
「知らなかったんじゃないかな? 現に僕もウォールズ行くまで知らなかったし」
「引退って……やっぱり悲しいね。完全にこのゲームを辞めちゃうの? 今はトラベル・モードもあるし、景色を楽しむだけなら方法はあるんじゃないかな?」
先日のバージョン・アップによって追加されたトラベル・モードではあらゆる戦闘要素は排除されている。純粋に旅や景色を楽しみたい冒険者にとっては、望ましい世界を体験する事が出来るだろう。
ただし、このトラベル・モードには現段階では一つの問題を抱えていた。
「確かトラベル・モードで旅できるのは今はティムネイル諸島に限られてる筈です」
「大好きなバスティアの夕陽が見れないんじゃ、意味ないもんね」
ナディアの指摘に対して、漏らされたタピオの感想に当人の表情を窺がう一同。
俯く少年が何も語らないところを見ると、的を得ているようにも思える。
「とりあえずは食事にしないか。これも何かの縁さ。引退の前にちょっと付き合ってくれないか、テトラ」
そこに思惑があったのか、単純に腹が減っていただけか。
その真偽はマイキー自身さえも知るところではないが、とりあえずは話を聞いた彼を放置するのも人情として気が引けるのは確かだった。
とりあえずは食事でもして後の事はそれから考えようと、その程度の事だったのかもしれない。