〆第八章 『ラ・サンディラの傷痕』
世界は闇。だが夜の帳が齎す暗黒とは違う。空を覆う積乱雲は狂気を孕む。
湿原を叩くように打ちつける強雨は、あらゆる生物を畏怖させる。ただの夢では無い。
歪んだ世界のど真ん中で、大自然が向いた凶牙の前に存在者達はその存在を消す事が出来ずに居た。
「どうすれば……どうすればいいんだ。こんな状況になるなんて夢にも思ってなかった」
鼻筋を伝う雨粒が言葉を遮る。狼皮の表面を滑り落ちる雫もまた怒涛の如く。
それもその筈だろう。雨は降っているのでは無い。空から流れているのだ。
目鼻立ちの整った本来柔らかい表情を携えた青年ユーウィングは、頻りに黒髪から滲み出る雨粒を払いながら傍らの同期の仲間二人へと救いを求めるように眼差しを向ける。
「精霊の聖言に従うしかないだろう」
目尻の鋭い冷静かつ大胆な行動指針を示すのがラグナス。この曇り空の下では、本来美しい彼の青髪も色彩を完全に失っている。
色褪せた世界の中で、感情だけがその見えざる輪郭を主張していた。
「明らかに常軌を逸してるよ。とてもまとも神経で遂げられるとは思えない」
「ここまできて、臆病風に吹かれたのか?」
ラグナスの指摘を首を打ち震わせて否定するユーウィング。
「臆病なんて物差しじゃ計れない、これは慎重さ。お前だって見てるだろ。目の前のこの光景に何とも思わないのか」
「恐怖の姿を想像した時点でお前は負け犬なんだ。俺に精神論を語らせるな」
「馬鹿言うな。精神論なんかで括れる問題じゃないだろ!」
そんな二人の言い争いを悲しく見守る赤髪の若娘、名をルヴィア。
纏われたコカトリスの羽織は、雨水を吸って倍以上に膨れ上がり、その体力を無尽蔵に奪いつつ在る。
「二人共言い争いは止めて! ねぇ、何か聞こえない」
水飛沫と共に羽織を振り上げたルヴィアの制止に顔色を変えた男達が耳を澄ませる。
「何だ……この振動。近いぞ」ユーウィングの表情に不幸の陰が差し始める。
「上等だ。俺がその姿を確かめてやろうじゃないか」意気込み猛るのはラグナス。
湿原の中を、振動が伝わる源へと向って、背丈を覆い隠すほどの葦の茂みへと走り込むラグナス。
その後ろ背中を残された二人の仲間が視線で追う。
「無茶は止せ。離れたら……だ……」
だが、いつだってその時……その瞬間は突然やってくる。盲目的な冒険者達は必ずと言っていいほど、この事実を忘却している。
事実ユーウィングとルヴィアは暫くの間、気付く事はできなかった。ラグナスの身体が消えた瞬間、猛り吠えた彼の言葉は愚か……その存在感までもが喪失された事に。
「そんな……馬鹿な」
「い……や……ぁぁぁ!」
湿原に響く絶叫と悲鳴が落雷の音に掻き消される。
残されたのは深い絶望。だがそれも仕方あるまい。
結果として、最後まで彼らは存在者として存在を掻き消す事が出来なかったのだから。