S7 ブルドーの罠
突如として膝を付き倒れたのはアイネだった。昏睡状態に陥っているのか、彼女は朦朧した様子で言葉も無くその場にうつ伏せに倒れる。
本来ならば、声を掛けて仲間が近寄るところだろう。だが、この時は全ての歯車がアンバランスに軋み金切り声を立てていた。
「あれ……なんか。僕……身体に力が」と呟くタピオもまた膝を付く。
霧に霞む洞窟の中で次々と膝を付き倒れる者達。突如として襲われた浮遊感に立ち尽くしては居られなかった。手先を見つめながら「あれ……何で」と這い蹲るタピオの姿にマイキーは自らの姿を重ねていた。
睡眠薬を飲んだ際の浮遊感に良く似ている。全身から抜けた力は精神的作用に依るモノとは到底思えない。明らかに外部的な要因が働いている事は確かだった。その要因は周囲に香るアーモンド臭に似た嗅覚と何か関連性があるのだろうか。
耳奥に響いてくるのは、どこかで聞き覚えのある。だが決して心地良さを覚える懐古では無い。
陵辱して……切り刻み……
光も届かぬ湖の底に沈めてやる
その肌を刻み……何度も何度も
何度も何度も
傷を穿り……抉り……
その悲鳴が……枯れ果てるまで
後悔するだろう
死よりも惨い苦痛を前に恐怖した時には……
絶望がそこに在る
霧霞に浮んだ男の姿を捉えようと、マイキーは必至にその両脚を突き立て耐えていた。
浮かび上がる人物像は……窪んだ眼窩に、無精髭。特徴的な容貌から、思考が正常ならば容易に思い出す事は可能な筈だった。
「魂の契りを忘れたのか糞ガキ共。俺の命はそこまで安くはないんだがな」
影人の言葉に、苦笑を交えて皮肉を返すのはジャックだった。
「三下が毒霧攻めとは考えたな……猿の知能にしては上出来だ」
脚を震わせながら立つジャックに悠々と歩み寄った男は薄笑みを浮かべると、右腕を湾曲させジャックの鳩尾へと深々とその拳を突き立てる。
「言動には気をつけろよ。貴様等の命は今俺様が握ってるんだ。以後、ブルドー様と呼ぶんだな。お前らが今かかってる毒種はバーダックの花弁によるモノ。殺傷能力は高く十秒に一のヒットポイントが削がれる。まともに肺に吸い込んだお前達にとっては既に致死量。十分を待たない内に貴様等は死亡する」
崩れ落ちたジャックの顔面が蹴り飛ばされ、仰向けに洞窟に倒れる。
影人を含めた三人の蛮人達は、慢心に打ち震えているようだった。影人は絶え間無く押し寄せる一時の至福に喜びに恍惚としていた。
「だがこれほどの侮辱を受けながらも俺様は実に寛大な男だ。ここに毒薬を浄化する血清がある。もし、お前達が犯した罪を認め、懺悔するならばこの血清をくれてやろうじゃないか」
「懺悔って……?」と、両の手で身体を支えながら必死に顔を上げるタピオ。
質問に対するブルドーの答えは簡潔だった。
「簡単な事だ。土下座して俺の足を一人ずつ舐めろ」
「なるほど……下衆が考えそうな事だぜ。反吐が出る」
呟き身体を起こしたジャックの脇腹に、再び走りこんだブルドーの蹴りが食い込む。
「俺は酷く気が短い。何が切欠で心変わりするか分からんぞ」
激しい敵意を以て、ブルドー一味を睨みつけるその視線が、相手を昂ぶらせたのか。
事態は次々と泥沼の深みへと悪化して行く。
「そうか、貴様等のパーティーにはクレリックが居るんだったな」とブルドーの指示に仲間の蛮人が地面に伏せ倒れているキティの身体を遠慮無く引き起こす。
「あなた達、キティに何する気……?」とアイネの表情が引き攣ると同時にブルドーが残酷な薄笑みを、悪魔の笑みへと膨張させる。
「小娘は黙ってろ。面白いものを見せてやる」
両手を左右に開かれ、支えられたキティの元へと歩み寄るブルドー。
不躾で下品な片腕が今、ゆっくりと幼女の首を掴み、力任せに引き上げる。同時に呼吸の苦しみから、まるで助けを求めるようにブルドーの腕を掴み、両足をばたつかせるキティ。蛮人の狂気の前に為す術も無く苦しみに必死にもがきながら目元に涙を浮かべる親愛なる仲間の姿に悲鳴が上がる。
「止めて! お願いだから止めて!!」
「いい声で鳴くじゃないか。俺には賛美歌に聴こえるね。邪魔立てするならば、早目に死体の数が増える事になるが」
苦しみに落ちたキティの身体が地上に投げ出されると、悲痛に歪んだアイネがその場に崩れる。
真っ赤に涙で濡らしたその瞳は、眼前の憎き仇敵の姿をしっかりと捉えていた。
「そんな目で見つめてくれるな。俺達の仲じゃねぇか。もっとこの状況を楽しまんといかん。それにしても、お前に付いてきたのは正解だったな」
湧き起こる疑念。その言葉に腫れ上がったアイネの瞼が背後に立ち尽くす一人の少女へと当てられる。
「付いてきた……ナディア。嘘でしょ?」
「違う……知らない。あたしはこんな……」
うろたえている彼女が告げた言葉は否定。だが、今の状況から彼女との関連性は凡そ否定できるものでは無い。
膨れ上がった疑惑が、心の確信を捉えてジャックの口から言葉として零れる。
「笑える話だぜ……まさかグルだったとはな」
ジャックの言葉を遮るように、悪魔は遂に本来の目的と差し迫り始める。
「御託はそこまでだ。ついでだ、有り金を全て出せ。そっちが先だ。時間が無ぇんだ、早くしろ」
「あなた達、こんな事して許されると思ってるの。GMを呼べばあなた達なんか」
アイネの悲痛なる叫びに薄笑みを崩すブルドー。
「そいつは困るな。だが犠牲は大きいと思え。なぁ、嬢ちゃん」
ブルドーの合図に倒れたキティの首元に蛮人の鈍い輝きを放つ刃が当てられる。
冷たい刃の感触に、僅かに身悶えしたキティが身体を起こそうとすると、強引にその身体を地盤に抑え付け、その小さな身体に馬乗りになる。
「お願いだから、キティを傷つけないで! お金なら払うから! 皆、払うわ。だからキティには手を出さないで!」
泣き濡らしたアイネの言葉にブルドーの口元が笑みに歪む。
「以後、俺達との一切の接触を忘れる事だ。その方が幸せに為れる」
記憶は虚ろ。経緯のほとんどは霧霞に消えた。
事を済ませた蛮人達は、もはや残された死人達に眼も当てなかった。
崩れ落ちたパーティーの姿に呆然としたナディアの肩に回される太腕。
「それじゃ、行こうか相棒。メインディッシュはこれからだからな」
そうして、洞窟の奥へ消えようとしたブルドーが何かを思い返したように立ち止まる。
「おっと、すまねぇな。忘れるところだった。精々、最後を迎える前に生にしがみつく事だ」
投げ出された小箱から漏れ落ちたのは試験管型の小瓶に入った無色の液体と、注射器だった。
連中が消えた空間で、朦朧とする意識をしきりに機能させようと奮い立たせながら、身を起こすアイネ。
「早く血清を打たないと」
「待て、アイネ」
その行為を、マイキーが言葉で制止する。
「どうして、止めるの。皆死んじゃうよ!」
感情を露にする前で、マイキーは血清の溶液の入った小瓶を手に取りマテリアライズを行う。
カード化されたその内容を一目見るなり、顔を伏せるマイキー。
「ただの蒸留水だ」
その様子を隣で眺めていたジャックが脇腹を抱えながらその身を起こす。
「……あの野郎」
虚ろな表情で身体を起こしたタピオが独り言のように呟く。
「僕達は……もうこのまま死ぬしかないんだね。死ぬって、どんな感じなのかな」
「勝手な事言わないで。最後まで希望は捨てちゃダメだよ!」
昏睡したキティの身体を抱き寄せながら懸命に声を張るアイネのその姿が悲しくも痛々しい。
「マイキー……策は無いのか?」
ジャックの言葉にマイキーはPBを開き、自らのステータス画面を見つめていた。
「奴の言った通り、ヒットポイントは約十秒に一の割合で減ってる。減少中はヒールも無効。毒の総与ダメージが定数なら、回復する事で凌げるかもしれないが、頼みの綱のキティがあの状態だ」
「万策尽きたって事か」
諦観からか、香煙草を取り出して口に加えるジャックの前に、身を乗り出してマイキーに訴えかけるのはアイネだった。
「GMは? 報告しようよ。きっと助けてくれるよ」
「実を言うとさっきからずっとエマージェンシーは宣言してるんだ。だけど、反応が無い。恐らくは処理待ちか」
理不尽なその言葉に苦笑を以て吐き出された煙が宙を舞う。
「処理待ちって何の為の緊急宣言なんだ。これじゃ、ああいう連中の思う壺だ」
「正式稼動からユーザー数は爆発的に増えてるから、緊急発動件数もうなぎ登りだ。掲示板でもGM対応は問題に挙げられてたけど、まさか自分達がプレイヤー狩りに合うとは夢にも思わなかったな」
毒の侵食から赤点滅を始めたキティの額を優しく撫でて見守るアイネ。
「私達はもう……ただ待つしかないのね」
静寂が心までをも支配する。諦めはしない。したくない。
可能性がある限りは、生にしがみつくべきだ。その考えはマイキーの中で一徹していた。
だがその可能性が消えたならば? もはや生に固執する必要は無いのだろうか。悔やめば悔やみ切れない。蛮人に折れた自らの不甲斐なさを呪えばキリが無い。
だが、もはやそんな次元を今は越えている。生きるか、死ぬか。そんな時に、復讐などと云う余念は馬鹿げた考え方だ。
ふと周囲の光景を見渡すマイキーにとって、生にしがみつく限りは命の終始においてここが一つの最後の光景になるのだろうか。
――またやり直せばいい――
だが、不幸の中でいつだって女神は不自然な形で微笑むのだ。その事をマイキーは忘れていた。
「アイネ、お前の言った言葉だったな。最後まで希望は捨てちゃダメ……か。地獄に仏とはこの事か」
「まさかお前まで気が触れたんじゃないだろうな。どういう意味だ?」
血迷い言かとマイキーの顔色を伺いながら、香煙草を踏み消すジャック。
彼の真意は一体どこにあるのか。幻想的な青闇が生き地獄とさえ思える今、マイキーのその表情に失意など微塵も感じられない。
その答えを今、彼は告げようとしていた。
「そのまんまの意味さ。僕達は助かるかもしれない」




