S6 水竜喉の洞窟
天陽さえも霞む水深にも関わらず、洞窟の中は青く影寄りな色調の光で満たされていた。
岩盤に生え渡る濃度の高い青苔が発光しているのだ。所謂、光苔に属する一種、その正式名は青嚢苔と呼ばれる。洞窟の全面を覆うその様子は、光灯に青の色膜を貼り付け暗闇を照らしたら、こんな色合いを生み出せるだろうか。だがその発想は眼前の幻想を乏しめる。
横穴から垂直に落下した直道は水深をさらに十メートル程深める。捉えどころの無い青景に若干の不安さえ覚え、底に辿り着いたところで再び横穴を数メートル。
その先の頭上に伸びた僅かな縦穴を越えた先が浮上点だった。
水飛沫を滴らせながら、洞窟の中へと上がるナディアが呼吸マスクを外し、髪を振り解くとマイキーもまた洞窟内の冷気に素顔を晒して一言を漏らす。
「この洞窟……空気が在るのか」
「湖の底にどうして空気があるの?」
耳に滑り落ちた水を抜きながら、身体を揺するマイキーに疑問の声を投げ掛けたのはアイネだった。そんな二人に振り向いて、ナディアは水深計のライトで薄闇の岩盤を照らし始める。
「アプトレイクの地盤の主成分は泡貝石と呼ばれる層状の鉱石で形成されているんです。ここへ来る途中、湖底から水上へと立ち昇る無数の水泡はご覧になりましたよね。大昔、この湖底が大陸として一繋ぎだった頃に閉じ込められた澄んだ空気がその正体です。ここは奇跡的にも洞窟として、太古の遺産がそのまま残されたんです」
彼女の説明に自身もまたライトを取り出して周囲の様子を照らし始めるタピオ。
「何か不思議な気分だね。水中の深くでマスクなしに呼吸してるなんて。いきなり水かさが増して窒息死なんて事は……ないよね」
「タピオお得意のマイナス思考か。お前ほど後ろ向きなら、一度死んで人生観リセットした方が楽になれるかもな」
ジャックの言葉にタピオの口元がへの字に歪む。
一通りの周囲の状況を確かめたところでアイネがここで、今までも心に秘めていた素朴な疑問を浮かび上がらせる。
「ねぇ、そういえば。ナディアはどうしてこの場所を知ってるの?」
その質問に答えが返されるまでには少しの間が在った。だがそこから違和感を感じ取った者は居ない。
ナディアの微妙な心の動揺を嗅ぎ取った者はその場に僅かだった。
「この洞窟を見つけたのはほんの偶然です。つい最近まで一緒に旅をして来たダイビング仲間が居たんです。彼らとはイルカ島からの付き合いでした。彼らとこの洞窟を見つけた時は心が弾んで、あたし達は完全に油断してしまったんです」
「油断? それに仲間が居たって……今もその人達は居るんでしょ」
尤もなアイネの問い返しに、ナディアの表情が失意に堕ちる。
「彼らは今……この世界には居ません。退会してしまったんです。全てはあたしの判断ミスが命取りになって……」
「何か訳有りみたいだな」
ジャックの配慮の無い、表層的な一言がナディアの内面を抉り始める。
僅かながらにナディアの語調に浮ぶ変化。
「あたし達は興味本位で洞窟の調査に乗り出しました。そこで奴と出会って」
「奴っ……て?」とタピオもまた潜在的に彼女の話の根源に興味を持ち始め、追及に加わる。
ナディアはただ与えられた質問にだけその答えを告げた。洞窟の冷気が相まって、酷く彼女の感情を機能的に描写する。
――水獣ウォルディガズム――
耳奥に響いたその言葉は脳内へと溶け込んで行く。皆はただ消えかけたその言葉を追っていた。
「このアプトレイクの地を守る守護聖獣です。迂闊にも私達は奴の逆鱗に触れてしまった」
ナディアの飾り気の無いその言葉に同情するように、アイネが頷く。
「それで全滅したのね……でも何で。それならナディアに責任は無いじゃない」
「あたしが戦おうって言い張ったんです。水獣が守る程の重要な場所なら……きっとそこに財宝が隠されてる筈って。戦いに敗れた恐怖を刻まれた仲間は、皆それがトラウマになってこの世界を去って行きました。でも、あたしは逃げたくなかった。大切な仲間達を傷つけた奴を絶対に許さない。だからより強い仲間達を求めて、街で声を掛けて回っていたんです。そしたら、柄の悪い連中に絡まれて……助けてくれたのが皆さんでした」
強まった語調にアイネの視線が落ちる。
いつしか、気丈なナディアはその場に泣き崩れていた。
「そうだったのね。大丈夫、私達はあなたに力を貸すから。だから泣かないで」
ここで、一人。崩れ落ちたナディアに冷徹な切り口を見せる男が一人居た。
「一つ腑に落ちないな。その水獣とやらを倒すのに強い仲間達を求めて探し回っていたのならば、何でわざわざあんたよりレベルの低い僕達をここへ連れて来たんだ。目的と行為が矛盾してる。僕達が力に為れるとは到底思えないけどな」
その言葉に明らかな反感を浮かべて、立ち塞がるアイネ。
「マイキー、そんな言い方ないよ。手伝ってあげようよ!」
そして、タピオもまた彼女に同調する。
「僕もアイネさんに同感だよ。どこまでやれるかは分からないけど、やれるところまでは手伝ってあげたい」
だが、静観者も存在した。
「お前達の意向は酌んでやりたいところだけどな、まずは質問に答えて貰おうぜ」
ジャックの言葉に泣き崩れたナディアは無言を返していた。
いつしか、青闇には空間を霞める霧が立ち込め始めていた。狭小空間に立ち込める霧、それは今のマイキーの心理をそのまま描写していた。
人を追い詰めるには少なからずの理由が在る。本来ならば、その作業はここへ到達するまでに済ませて置く必要があったのだ。
彼女という人間像を理解する事が、共に旅をする協力者という立場を取る上ではリスクを減らす事に繋がる。何故ならば彼女が抱えているリスクが、自らの危機に直結するからだ。
明らかに彼女の言動には矛盾がある。彼女が抱えているリスクとは一体何なのか?
何故だか酷く息苦しい。
他人を言及するのは気分が良い行為では無い事は当然。息苦しくもなるだろう。
だが、それだけか? 何かがおかしい。
その違和感に気付いた時、全ては手遅れだった。




