【第1話】おじさんと私
「こんな夜中に車でドライブなんて初めて。この道、よくランニングするんだけどね。ここから見る夜景がこんなに綺麗だなんて知らなかった。なんだか違う街に来たみたい。」
湖を横目に見ながら、そうだろうと言う声から彼の得意げな表情が想像できた。窓の外に見える湖岸沿いの歩道は景色も良く信号待ちもなく、ランニングにはもってこいの場所である。私の家はこの湖のすぐそばにあった。自宅から湖までは徒歩10分ほどの距離で、湖に着いたら湖岸沿いの歩道を約3キロ走り、ちょうどそのあたりにあるフェリー乗り場を折り返し地点にし、また約3キロの道のりを走って戻る。それが私のいつものランニングコースだった。夕方、空と湖の境目が青色からオレンジ色のグラデーションに変わる頃、青ともピンクとも紫とも言えぬ色をした水面を見ながら風を切って走るのだ。小学校卒業後、父親が念願のマイホームを建て引っ越してきたこの街には、友達もおらず、以前住んでいた街にはたくさんあった美味しいケーキ屋やパン屋もなく、どうしてもすぐには好きになれなかった。けれど、今ではこの街から離れなくてはならなくなったとき、この湖の景色が見られなくなるのは嫌だとすら思う。
昼間は釣り人やランナーたちで賑わうこの場所も、22時を過ぎた頃にはひとりの人影も見当たらなかった。車中に流れるロックミュージックに合わせて動く彼の指先に目をやりながら、無意識に私も頭を揺らしていたことに気づく。彼は若い頃ギタリストだったらしい。というか、今も本人はギタリストのつもりである。しかし、彼の相棒は故障中で楽器屋に預けられたまま、なかなか出てこない。おそらく、ギターはすでに直っているのだが、彼にはその代金を支払う余裕がなかったのである。
「ねぇ、どこに向かってるの?」
「山だよ。この先にさっきの場所よりもっと夜景が綺麗に見える場所があるんだ。もう少しで着くよ。」
街灯の明かりが少なくなってきた。もう1時間以上走り続けている。母親はすでに寝ている頃だろうか。大学卒業後、就職して下宿も考えたが、なんとか通えない距離でもないため、私は実家で暮らしていた。朝5時半に起きて電車を3本乗り継ぎ、往復3時間かけて職場まで通っていた私を夜勤明けに毎朝最寄りの駅まで車で送ってくれていたのが父親である。私は母親はもちろん、父親とも仲が良く2人で映画や演劇鑑賞に出かけることもしばしばあった。かといって、結婚するならお父さんみたいな人と答えるようなファザーコンプレックスだったわけではない。父は大の本好きで、自宅には2000冊以上の本があった。本の重みでマンションの床が少し傾いたほどである。父の影響で、私も本を読むのは好きだった。私立の中学校に通っていた私は、電車通学の途中にある本屋に毎週のように通い、小説ばかり読んでいた。そういえば、当時の中学校では朝読書という時間があった。小中高等学校において読書を習慣づける目的で始業時間前に読書の時間を設ける朝の読書運動のことである。読書の時間といっても10分程度しかなく、私には物足りなかったが、読書が苦手な生徒にとってはその10分間ですら本に集中できず、何度も時計を見ていたそうだ。それに比べて私は何かに集中すると、周りの音が何も聞こえなくなるたちで、電車の中で本を読んでいると乗り過ごしてしまうことがよくあった。そんなことを思い出しているうちに、どうやら山道に差し掛かったようである。
「思ったより狭いなこの道。対向車が来ないといいけど。どこかでターンできる場所があるかな。戻れなくならないよな。」
いつも強気な彼が隣で焦っている姿を見て、なんだかおかしくなってしまい、けらけらと笑っていたら、笑ってる場合じゃねえよと情けない声がまた聞こえて、それでも私は笑いをこらえつつくすくすとまだ笑っていた。その時ちょうど、オーディオから彼のお気に入りのロックミュージックが流れ出した。彼はおっと反応し、勇気が湧いてきたぜと調子に乗りながら、ものすごい勢いでヘアピンカーブを何度も通り過ぎ、やっと頂上にたどり着いた頃には私は軽く車酔いをしていた。
「よかった、よかった。広い道に出たよ。こんなのバックで戻るなんて無理だからな。安心したよ。さあ、外に出てみようぜ。」
彼が私の愛するおじさんである。出会った頃の彼の歳は45歳。その当時の私が19歳だったので、26歳も歳の離れた彼氏だった。別に特別若く見えて格好いいわけではなく、ごく普通のおじさんである。私はと言えば、見た目もスタイルもいたって普通の女子大生であった。おじさんぐらいしか相手にされないほど見た目が悪いわけでもなく、おじさん好きなわけでもなく、今までに何人か歳の近い彼氏がいたこともあった。歳の近い男の子がたくさんいるのになぜわざわざそんな歳の離れたおじさんと付き合ったのか、今から思うと自分でも不思議だが、よく考えてみればそれにはそうなってしまったきっかけがいくつかあったのだ。それはおいおい話していくとして、まずは私がおじさんと出会うまでの恋の話から始めたい。