中編
呪いをかけられてから、二週間ほどが過ぎた。
あれから、私に会いたいという男性が何人か現れたが、私は誰一人とも会っていない。全員お兄様に追い返されたからだ。お兄様は忌まわしげに、「ロリコン共め……」と言っていたが、ロコンとは何のことだろう。
お兄様は仕事柄、異国の言葉を多く知っている。そのため、時たまこうして私の知らない言葉を話すのだ。その怒りを内に秘めた冷たい表情から察するに、あまりいいことではないのは確かだが。
そんなこともあり、私はお兄様から外出禁止を言い渡されていた。サイドテーブルに置かれている本に手を伸ばそうとし、掴むのを止める。
「退屈だわ……」
散歩が好きでよく外出していたので、この生活は退屈極まりない。時計に目をやると、十時を指していた。この時間なら、お兄様は仕事で家にはいないはず。だとすれば、今しかない。
「すぐに戻って来ます」
誰にも聞こえない声で、小さく呟く。子供の姿になってよかったことは、見つかりそうになっても隠れるのが楽だということだろうか。無事に裏口までたどり着いた私は、こっそりと外へ出た。
「んー、やっぱり外はいいわね」
私は二週間ぶり外出を満喫する。街は人目が多く、見つかってしまう可能性が高い。ならばと、私は郊外にある森へ足を向けた。
「いい天気ね」
森の中に入ると、濃い緑の匂いがして清々しかった。私は迷子にならないように、道になっているところを進む。途中、野ウサギが草陰から顔をのぞかせる。
「まあ、かわいい」
小さな鼻やぴんと立てた耳が小刻みに揺れる。その姿はとても愛らしかった。白い毛は触ったら心地よさそうだ。
もう少し近づいても大丈夫かしら? 私は驚かせないように、ゆっくりと距離を縮める。しかし、野ウサギは草むらの中へ走り去ってしまった。
「行ってしたまったわね。あら?」
先ほどまで野ウサギがいた場所に、今度は見慣れない鳥が降り立つ。鳥を目で追う内に、私はどんどん森の奥へと入ってしまう。気がつくと道から外れ、自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。
「ここはどこかしら……」
森に入ってから、一時間ほど経っただろうか。私は、完全に迷子になっていた。子供の足なので、そう遠くには行ってないと思うが。それでも、やはり心細くなる。こういう時は、無闇に歩くと逆に森の奥へ行ってしまうだろう。だからと言って、ここで助けを待つのも……。
「……おい」
そんなことを必死に考えていると、背後から人の声が聞こえる。私は驚いて振り向くと、背の高い男性が立っていた。男性は四十歳ほどで、無精ひげを生やしている。少し長めの黒髪も、今しがた起きたかのようにぼさぼさだった。人を寄せ付けないような厳つい顔の男性に、私は思わず出そうになった悲鳴を飲み込む。
男性の青い瞳が、探るように細められる。
「お嬢さん、こんなところでどうした? 迷子か?」
「はい……」
「なら、森の外まで送って行ってやるよ」
願ってもない言葉に、私は安堵する。
「ありがとうございます」
「ところで名前は?」
「えっと……その……」
果たして、正直に答えていいものだろうか。悪い人ではないと思いたいが、見るからに怪しい。もう会わない人だ、そう思い私は答えた。
「ルーシアです」
ごめん、ルーシア。やっぱり、この人怪しいんだもの。
* * *
「あの、おじ様。名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
歩き出してから、十五分ほど経った。歩調は私に合わせてくれているので、足元が悪くても無理なく歩ける。見た目に反して、優しい人なのかも。
しかし、全く会話がなく気まずい。聞こえてくるのは、鳥のさえずりや地面を踏みしめる足音、そして木々が揺れる音だけ。男性があれから口を開くことはなく、沈黙が変えて怖い。
そんな雰囲気を何とかしようと、私は先ほどの質問をした。果たして、おじ様という呼び方でよかったのか。だが、彼は気にした風もなく答える。
「エルドだ」
「えっと、エルド様は……」
「エルドでいい。それから、無理に敬語も使わなくていいぞ。そんな大した奴でもないしな」
もしかしたら、彼なりに気をつかってくれたのかもしれない。身長差があるので、私からは彼の表情は分からないが。私は、素直に好意に甘えてその通りにする。
「エルドは、こんな森の中で何をしているの?」
「絵を描いてるんだ」
「絵を? どんな?」
オルコット家の仕事柄、絵画を見る機会が多く私自身も興味がある。興味を引かれ、つい聞いてしまう。
「色々だな。肖像画や風景画、ただ抽象画とやらはよく分からないが。お嬢ちゃん、クルトは知ってるか?」
「はい、もちろん! 大胆なタッチで描かれた絵からは、生命の力強さが感じられて、まだ若手ですが将来が有望な画家ですね。夢に出て来た風景を描いたというローレンス湖はもちん、クリス婦人のような人物画もまた魅力的だわ。何よりも彼の表現する世界というのは……」
一気にまくし立て、ふと我に返る。大好きな画家の名前が出て来たのでつい話過ぎてしまった。慌てて口をつぐんだが、変な子供だと思われなかっただろうか。
「よく知ってるな。お嬢さんとは気が合いそうだ。……クルトは俺にとって特別な画家なんだ」
「特別って……」
「ほら、着いたぞ」
いつの間にか森を抜けていた。エルドは別れを惜しむ素振りも見せず、来た道を引き返そうとしている。
「あの! また、会いに行ってもいいですか?」
自然とそんな言葉が口を出る。お父様やお兄様以外の人と、満足するまで絵の話が出来たことはない。でも、この人となら。そう私の中の直感が告げていた。
ふと、エルドの青い目が細くなる。
「ああ、もちろん」
笑ったんだ。そう気づいたのは、エルドの姿が見えなくなってからだった。
* * *
家に帰ると、お兄様の小言が待っていた。分からないように帰ったつもりが、あっさりと見つかってしまう。解放された頃には、とっくに日は暮れていた。長い説教が終わり、私はベッドに倒れこむ。
「疲れたわ」
「今回はシルフィー様に非がありますから、仕方がないのでは?」
そう言いながらも、ルーシアはバラの香りがするキャンドルに火を点してくれる。エルヴィーラの店でたかれていた香りとは違うが、どちらも気持ちが安らぐ。
「そうなんだけれども。お兄様も心配しすぎよ」
うつぶせになって、頬杖をつく。笑う気配を感じてそちらを見やれば、笑顔のルーシアと目が合った。
「キース様は、シルフィー様がかわいくて仕方がないんですよ」
私は気恥ずかしくなり、毛布に包まる。その姿に、ルーシアが小さく微笑む。
「お休み、ルーシア」
「はい、お休みなさいませ」
お兄様は、昔から私のことを考えてくれている。私がまだ十歳くらいの頃、ちょうど今の姿くらいの時か、思いを寄せていた少年がいた。私は庭に咲いていた花を髪に飾り、少年に会いに行ったことがある。かわいいとかそんな言葉を期待していたが、返って来た言葉は正反対のもので。それからかしら、お兄様がそれまで以上に私に甘くなったのは。
桃色が好きなのも、お兄様が似合うとほめてくれたから。その時のお兄様の笑顔は、嘘偽りがないことを表していた。だから、私も安心して桃色を好きになれたのだ。
お父様譲りの木の実色の髪も、お兄様はきれいだよと言ってくれた。私からしたら、お兄様の金の髪の方がきれいなのに。
何だか、思い出に浸り過ぎたみたい。
明かりが消え暗くなった室内で、当分の間は外出を控えようと思う。
しかし、そんな決意をした次の日、お兄様から意外な言葉を告げられた。
「昨日は少し言い過ぎた。これからは今まで通り過ごして構わない」
「それでは、外出をしてもいいのですか?」
これには、側で聞いていたルーシアも驚いている。昨日はあんなに怒っていたのに、何があったのかしら。
「ああ。しかし、今のお前は呪いのこともある。十分気をつけるんだぞ」
「ええ、注意します。お兄様、ありがとう」
お母様が、そんなやり取りを見て微笑んでいる。ルーシアが意味ありげにお母様を見たが、まさか……ねえ?
それから、和やかな雰囲気で朝食を食べ終え、私は自室へ戻って来た。
「さて、これからどうしようかしら」
部屋には私しかいない。独り言をこぼし、私は思考を巡らせる。お兄様の許しも出たことだし、部屋にこもりっきりだなんてつまらない。私の頭の中にはある人物が浮かんでいた。
「もう一度話してみたいな……」
エルドとまた話がしたい。それは、ずっと考えていたこと。見た目ほど悪い人じゃなさそうだったし、絵を描いていると言っていたことも気になる。ただ、問題は……。
「どこに住んでるのかしら……」
また会いに行ってもいいと言われたが、肝心なことを聞き忘れた。そのことに気がついて、私は頭を抱えることになる。名前は聞いたけど、それだけじゃどうしようもないわ。森を闇雲に歩き回るわけにもいかないし。どうしよう……。
「そうだ、絵だわ」
エルドは絵を描いていると言っていた。絵描きなら、街に売り込みに行っていてもおかしくない。それにあの容姿なら、人の印象に残っているだろう。
「ルーシア。出かけたいのだけど、一緒に来てくれない?」
考えを実行するため、私は街へと出かけた。
結果から言ってしまえば、エルドの住んでいる場所は分かった。子供一人では教えてくれないだろうと、ルーシアに着いて来てもらったのが功を奏する。何件か街の画商を周りエルドの名前を出すと、その内の一軒で知っているとの返事があった。
「まだ画家として若手ですが、なかなか筋がいい。当店では取り扱っておりませんが、興味がございますか?」
「直接交渉をしたいので、住んでいる場所を教えていただけますか?」
ルーシアが話す横で、私は目立たないように待つ。その言葉に主人は渋ったが、オルコット家の名を出したら表情を変えた。こんなことで、オルコット家の名を使いたくはなかったが、普通に聞いても教えてくれなかっただろう。後ろめたさが胸をちくんと刺す。
「森の中に住んでいるなんて、変わったお方ですね」
帰り道、ルーシアが何気なくこぼす。その言葉に、私は何と答えていいか分からなかった。エルドとは一度、しかも短い時間しか話していない。確かに不思議な人だった。
「そうね。でも、不思議とまた会いたいのよ」
最後は、聞こえないように小さく言う。あの青い瞳が、今度は驚きで丸くなるのを想像して、私は小さく笑った。そんな私を、ルーシアが不思議そうに見ている。
「ルーシア、今日のことは黙っていてくれない?」
「構いませんが……。よろしいのですか?」
「いつか私からちゃんと話すわ」
そう答えれば、ルーシアは納得したように頷く。
「かしこまりました。さあ、早く戻りましょう。今日の夕食は何でしょうね?」
楽しそうに言うルーシアにつられて、私まで笑顔になった。
* * *
三日後、私は森の中に建つ一軒家の前にいた。木製の家の周囲は切り開かれ、ちょっとした広場のようになっている。メモを何度も確認するが、画廊の主人に教えられた場所で間違いはないだろう。思っていたよりも立派な家だ。
私は緊張で強張る腕を上げて、ドアをノックする。
「……あら?」
しかし、中から人の返事はない。留守かしら? 窓から明かりが漏れていることから、人がいることは確かだろう。
「エルド?」
無作法とは思ったが、窓から中を覗いてみる。すると、床にうずくまっているエルドの姿が見えた。
「エルド! 大丈夫!?」
私が慌てて部屋に入ると、エルドの体がわずかに声に反応する。よかった、意識はあるみたい。すると、弱々しくエルドが顔をあげる。
「どうしたの? 具合が悪いの?」
エルドの側に駆け寄り、容態を確認する。どうしよう、人を呼んでくるにも時間がかかるし。ああ、どうしてこんな時私は子供の姿なのかしら。元の姿なら、街まで行くのにも少しは早く着けるだろうに。
すると、エルドがゆっくりと口を開く。私は聞き漏らさないように耳を近づける。
「腹が、減った……」
小さく、エルドが呟く。そして、盛大な腹の虫が鳴った。
「えっ……?」
私は一瞬言っている意味が分からず、エルドの顔を見る。するとエルドは、ばつが悪そうに視線をそらす。
「三日前から、何も食べてないんだ」
「三日も前から!?」
私が驚いて声を上げれば、エルドは口ごもる。もしかして具合が悪いんじゃなくて、ただの空腹?
「絵に集中してて……」
よく見れば、エルドの服には絵の具が付着していた。三日も食事を取らずに絵を描いているなんて。
「もう、人騒がせなんだから。待ってて。今、何か作るわ」
呆れを通り越して、関心してしまう。台所はリビングに併設されていたのですぐに分かった。食材は、何があるかしら? 戸棚を開ける私に、後ろから怪訝そうな声がかかる。
「作るって、誰が?」
「何言ってるの。私しかいないでしょ」
じゃがいもに、たまねぎ。パン……うん、まだ食べられそう。それから、ベーコンに卵もある。ミルクも使えそうね。
「待て、お嬢さんに料理をさせるわけには……」
「黙ってて。段取りを考えてるんだから。それに私はお嬢さんじゃなくて、ルーシアよ」
じゃがいもを手に持ったまま振り返り、反論をはねのけた。側にあった木箱を踏み台代わりに使って台所に立つ。エルドはまだ何か言いたそうだったけど、無視して調理に取りかかった。
「さあ、召し上がれ」
エルドの前に、出来立ての料理を並べる。じゃがいもは、炒めた玉ねぎの甘みが引き立つポタージュに。スクランブルエッグはミルクを加えふわふわに。焼いたベーコンはかりかりに。それからオーブンで軽く温めたパンをそえた。
「いただきます」
恐る恐るといった風に、ポタージュを口にする。すると、エルドの表情が驚きに変わった。
「うまい」
「びっくりした?」
私は得意気に聞く。料理は私の趣味の一つで、お兄様の目を盗んでは腕を上げてきたのだ。最初はメイドにお願いして、部屋に持って来てもらったリンゴで練習したな。今は凝った料理でなければ、ある程度は作れるようになった。お母様とルーシアの後押しもあって、最近ではお兄様も認めてくれている。
「うまかった。ごちそうさま」
エルドは、出した料理全てきれいに平らげた。顔にも血の気が戻ったようで、私は一安心する。
「絵に集中するのもいいけど、ちゃんと食事もしてよね」
「これじゃあ、どっちが年上か分からないな」
苦笑して頷くエルドに、つられて私も笑顔になった。
「ねえ、どんな絵を描いてるの?」
エルドが入れてくれたお茶を飲みながら私は問いかける。絵には人柄がよく出る。自己が強い絵、情熱を秘めた絵、優しい絵。同じ人が描いた絵でも、人生を重ねるごとに雰囲気が変わってくるから面白い。それは技術だけではなく、思いも詰まっているからだろう。
「そうだな、よかったら見てみるか?」
「いいの? ぜひ見たいわ」
「ああ。今持ってくる」
エルドは、奥の部屋へと入っていく。きっとそこがアトリエなのだろう。はやる気持ちを抑えるように、私はお茶を一口飲む。
しばらくして、エルドは一枚の絵を手に戻ってきた。キャンバスの幅は60cmほどだから、大きさは12号くらいだろうか。リビングや広い部屋に飾ることの多いサイズだ。
「一年くらい前に描いた絵だ」
そう前置きして、エルドは絵を私に向ける。そこには満開の美しいバラ園を中心に、手入れをする庭師が描かれていた。深紅のバラは瑞々しく、今にも甘い芳香が感じられそうだ。日に焼けた肌をした庭師の頭には、白いものが混じっている。年老いた彼には、庭仕事も辛いだろう。それでも、剪定バサミを持つ彼はどこか生き生きと感じられた。
「……すてき」
私は、息をゆっくりと吐き出すように言う。それ以上は何も口にすることなく、絵に見入る。その間、エルドは何も聞かずにじっと待ってくれた。じっくり満足するまで絵を堪能し、改めてエルドに向き合う。
「繊細で、心根の優しい人の絵ね」
こんな人に描いてもらえたら幸せだろうな。素直に言えば、エルドは意表を突かれたように数回瞬きする。それから、少し照れたように目を細めた。
「そんなことを言われたのは初めてだ。ありがとう」
今度は、私が意表を突かれた。こんなに優しい表情もするんだ。それの言葉は口にせず、そっと胸に仕舞っておく。
「もうどこかの画商と取引はあるの?」
いくら魅力的な絵でも、買い手がつかない物はいくらでもある。流行もあるが、名が売れていない若手の絵を買う人は少ない。死んでから評価され、高値で取引されるなどということもある。
「今はまだ、どことも取引はないんだ。売り込んではいるんだが、なかなかいい返事がもらえなくてな」
「そうなの」
「ただ、夜の間だけ働いている酒場に、絵を置かせてもらってる。酒場と絵は結びつかないかもしれないが、多くの客が来るという意味では宣伝になるんだ」
そう口にするエルドは、とても前向きだった。酒場は様々な情報が飛び交う社交場でもあり、そこで評判になればいい宣伝になるだろう。
それからも絵の話で盛り上がり、あっという間に時間が過ぎる。危ないからと、エルドは森の出口まで送ってくれた。
「本当にここまででいいのか?」
人通りの多い場所まで送ると言う申し出を、私は丁寧に断る。
「ええ、ありがとう。でも、大丈夫よ」
「今日は助かった。ありがとう」
「どういたしまして。ねえ、また話しに行ってもいい?」
「ああ」
その一言が、何よりも嬉しかった。顔が自然と笑顔になるのを感じる。エルドに見送られ、私は少し高揚した気分のまま家路に着いた。
* * *
「こんにちは」
ドアをノックすると、やはり返事はなない。エルドが食事に無頓着だと分かったので、今日はミートパイを持ってきた。少しは栄養をつけてもらわないと。
ドアノブを回すと、鍵は開いていた。ゆくりと扉を開け中に入る。
「エルド、入るわよ」
少し大きめの声でそう言えば、しばらくして奥の部屋からエルドが出て来る。その顔は疲れていて、やはり無精ひげを生やしていた。髪も整えた形跡がない。やっぱり絵のこと以外、あまり頓着しない人なのかしら。
「ルーシアか。いらっしゃい」
「ミートパイを持ってきたんだけど、よかったらどう?」
「実は、食事はまだなんだ。もらうよ」
エルドは少し遠慮がちに言う。この前、ちゃんと食事をするように言ったのに。視線の意味に気がついたのか、エルドがばつが悪そうに目をそらす。その姿はしかられた子供のようで、何だかおかしかった。
「台所も借りるわね」
「いいけど、何をするんだ?」
「ミートパイだけじゃ栄養がかたよるでしょ? スープを作るから少し待ってて」
踏み台に乗り、にんじんと包丁を手に持つ。料理をする後ろから、エルドの慌てたような声がする。
「また作ってもらうわけには……」
「あら、おいしくなかった?」
「うまかったが、それとこれとは」
「気にしないで、私が好きでやってるんだから。それに、また倒れられたらたまらないわ」
話している間に、にんじんの皮をどんどんむいていく。と、その時。話に気を取られ、手を滑らせてしまう。
「いたっ……」
指を見ると、包丁で切ったようで血が少しにじんでいる。
「ルーシア、大丈夫か?」
「ええ、ちょっと切っただけだか……ら……」
エルドに安心させるように笑いかければ、怪我をした方の手を取られる。そして、エルドが指を口に含んだ。
私は何が起きたのか分からず、そのまま固まってしまう。しばらくして、エルドが口を離す。
「もう血は止まったみたいだな。ルーシア?」
落ち着いた様子のエルドとは正反対に、私は金魚のように口をぱくぱくさせる。触れられた指が、熱を持ったようだ。指だけではない、顔も真っ赤になるのが分かる。
そんな私を不思議そうに見るエルドから、慌てて距離を取る。
「子供じゃないんだから!」
動揺する姿を見せたくなくて、顔を背ける。
「子供だろ?」
当たり前のように言うエルドに、私はため息を吐く。そうだけど、そうじゃなくて!
「……誰にでもそうなの?」
私が非難するように言えば、エルドは意味が分からないとばかりに首をかしげる。
「何を怒ってるんだ?」
「怒ってないわ」
まだ触れられた手がじんじんとする。それは怪我のせいだけではなさそうだ。
「悪かったよ。機嫌を直してくれ」
「何が悪かったか分かってないのに、そんなこと言わないで」
「……すまない」
「もういいわ。その代わり、一つお願いを聞いてくれる?」
私も大人げなかったかも。エルドにとっては、私は小さな子供なんだから。ドキドキしたのは私だけだったのね。でもそれが少しだけ悔しくて、何だか気持ちがすっきりしない。そこで、私はあることを思いつく。お願いだんて、それこそ子供っぽいかしら。
「ああ」
「いつか、私の絵を描いて」
それは、エルドの絵を見た時にも思ったこと。この人に描かれたら幸せだろうな。そんな思いがずっと私の中にあったのだ。
「分かった」
エルドは真剣な表情になって頷く。先ほどまでとは別人のようだ。
「ありがとう。楽しみにしてるわ」
私が笑えば、エルドも笑顔になる。
それから野菜スープを作り、ミートパイと一緒にエルドに振る舞った。夢中で食べるエルドに、どっちが子供かしらと思ったのは内緒だ。
* * *
「最近、機嫌がよろしいですね」
ルーシアに言われ、私はバスケットにイチゴジャムを仕舞う手を止めた。
「そうかしら?」
「そうですよ。今だって、笑っていましたし。何かいいことでもございましたか?」
その言葉に、私は思わず頬に手を当てる。隠してたつもりはないけど、そんなに表情に出てたかしら? ルーシアはいいとしても、お兄様に知れたら……。また最近は仕事で家にいないことが多いけど、朝食は出来るだけ一緒に取っている。
あれから私は、度々エルドに会いに行っていた。エルドは日中は絵を描いていることが多く、食事もろくに取っていない。なので手料理を振る舞ったり、こうして食べ物を持っていくこともあった。
食事を取っていないことを怒ると、エルドはいつもすまなそうに眉を下げる。叱られた子供のようで、その表情を見るとつい許してしまうのだ。それから、おしゃべりをして森の出口まで送ってもらう。それが、いつものパターンだ。
今日もまた、五日ぶりにエルドのところへ行こうと支度をしていた。昨日イチゴジャムを作ったので、それをお土産にする。
「大丈夫ですよ。キース様の前では、普段とお変わりないですから」
それを聞いて安心した。手にしたジャムをバスケットに仕舞い、時間を確認する。時刻は十時。うん、ちょうどいいだろう。
「お友達が出来たの」
首をかしげるルーシアに、先ほどの答えだと伝える。すると、ルーシアは合点がいったように大きく頷く。
「ようございましたね」
私は照れくさくなって、何と返していいか分からなかった。だから返事の代わりに、小さく笑って見せる。
「それじゃあ、行って来るわね」
「はい、行ってらっしゃいませ」
バスケットを腕にかけ、すっかり通い慣れたエルドの家へ向かう。森の中に入ると、暖かくなって若い緑が目立つようになった。名前も知らない花のつぼみを見て、笑みがこぼれる。
最近のエルドは、出会った頃より笑うようになった。笑うと言っても、目を細めて微笑むという感じだが。笑っているのだと気づくまで時間がかかったが、今はエルドの表情の変化にも気がつけるようになったと思う。思い出して、また笑みがこぼれる。
と、その時。どこからか視線を感じる。
「誰かいるの?」
振り返ってみるが、誰もいない。こんな森の中に用のある人も、そうそういないだろう。
「気のせいかしら」
小動物か何かかもしれない。そう思い、私は再び歩き出した。
「こんにちは」
ドアをノックすると、やはり返事がなかったので勝手に中に入る。すると、しばらくして奥の部屋からエルドが出て来た。
「いらっしゃい、ルーシア」
「まだ何も食べてないんでしょ?」
「ああ……悪い」
いつもと同じやりとりをして、私は台所に立つ。エルドはぼさぼさの黒髪に手を当て、申し訳なさそうにしている。その仕草が大きな体に似合わなくて、私は小さく笑みをこぼす。
ボウルで卵と牛乳、砂糖を混ぜ合わせる。そこに食べやすい大きさに切ったパンを浸す。その間に鍋でお湯を沸かし、沸騰する少し前にソーセージ入れる。沸騰したお湯で茹でるより、この方がおいしくなるのだ。
卵液が十分にしみたパンを、バターを溶かしたフライパンで焼く。すると、甘い香りが部屋の中に漂う。エルドも気になるのか、時たま視線をこちらに向けている。さあ、盛り付けだ。
甘くてとろとろのフレンチトーストと、ボイルしたソーセージ。それからサラダをそえる。テーブルに運ぶのは、エルドが手伝ってくれた。
「甘さは控え目にしてあるから、これも使って」
そう言って、手作りのイチゴジャムのビンを差し出す。
「さあ、どうぞ」
「いただきます」
相変わらずエルドは、おいしそうに食べる。やっぱり喜んでもらえると、作りがいがあるわ。食事中は終始無言だが、その沈黙も心地よい。最後の一口を食べ終え、エルドは満足そうに言う。
「うまかった。ごちそうさま」
「どういたしまして」
それから、エルドが入れてくれた食後のお茶を二人で飲む。エルドの入れてくれるお茶はとてもおいしい。エルドの入れたお茶を飲みながら談話するのも、私達の定番となっていた。
「こうして毎回食事を作ってくれるのはあるがたいが、ご家族には心配されてないか?」
「大丈夫よ。お母様には話してあるから」
エルドの問いかけに、私は言葉をにごす。エルドの言うことはもっともである。子供がこんな森の中に一人で来ていたら、普通は心配されるだろう。一応お母様には、お友達に会いに行くと言ってあるので嘘はついていない。
「信頼されてるんだな」
その言葉に、私は違和感を感じる。
「エルドのお母様は、どんな方なの?」
「優しくて、強い人だ。画家になるのを父に反対されて家を飛び出した時は、もう帰って来るなと言われたよ。母なりの優しさだったんだろうな」
エルドは一言一言、大切なことを思い出すように言う。
「帰って来てもいいなんて言われたら、ここまで頑張れなかった。いってらっしゃいと呟いたのも、ちゃんと聞こえてたよ」
「後悔してない?」
「ああ、してない。ただ、妹のことが気がかりでな。手紙のやりとりはしているが、あいつは気弱な子だから」
そう言って、エルドは案ずるように窓の外を見る。その瞳は、少し寂しそうだった。
「なぜだろう、ルーシアが相手だとどうも話過ぎるようだ」
エルドは視線を戻して、苦笑する。
「ありがとう」
視線を合わせて笑いかければ、エルドは首をかしげる。
「だって、私のことを信頼してくれているのでしょう。それは、友人として何より嬉しいことだわ」
そう言えば、エルドは驚いたように目を丸くした後、笑顔を見せる。
「本当に変な子供だ。でも、ありがとう」
そう言ったエルドの表情は明るかった。私は照れくさくなって、お茶を一口飲んだ。
* * *
「今日は楽しかったわ」
いつものように、森の出口までエルドに送ってもらう。日はまだ暮れるには少し早く、辺りはまだ明るい。それでも、エルドの気遣いが嬉しかった。
「気をつけて帰れよ」
「ええ。またね」
去っていくエルドの背中が見えなくなるまで見送る。さあ、次は何を作りに行こうかしら。空になったバスケットを持ち直し、帰ろうとした時だった。
「シルフィー」
「お兄様……。いつからいらしたの?」
木の陰からお兄様が現れる。その表情から怒っているのは明らかだった。
「話は帰ってからだ」
「はい……」
私の問いかけには答えず、お兄様は短く言う。お兄様は、どこまで知っているのかしら。エルドのことを誤解してないといいのだけれど……。不安と心配で、私の足はいつも以上に重かった。
家に帰ると、リビングで向かい合わせに座るように言われる。ルーシアは、いつもと違う雰囲気にドアの隙間から様子をうかがっていた。
ソファーに座ると、お兄様が口を開く。
「最近外出していたのは知っていたが、あの男とはどんな関係なんだ」
「お友達よ」
おずおずと答えれば、お兄様の表情が険しくなる。
「あんな怪しい男と友達? シルフィーはもっと危機感を持たないとだめだ」
「怪しいだなんて、エルドに失礼よ。彼は、いい人だわ」
「いい人? それは、具体的にはどんな男なんだ」
お兄様の詰問に、私は一瞬たじろぐ。
「優しいし、一緒にいて楽しいし……」
「それだけか? 答えになってないな。あの男の何を知ってる。仕事は? 家族は? 出身は?」
「知っているわ。仕事は、絵描きで、夜は街の酒場で働いてる。家族は、ご両親と妹さん。今は離れて暮らしてるわ。出身は、まだ知らない……」
「絵描きと言っても、自称だろう。そんな奴は巨万といる。家族のことも、離れているなどと言えば詮索されないと思ったのだろう。それに、出身すら知らないじゃないか」
「それは……」
お兄様の言葉に何も言い返せなくなってしまう。何か言いたいのに、言葉が見つからない。
「シルフィー、よく聞きなさい。お前はあの男に騙されてるんだ」
「そんなことないわ!」
「どうして言い切れる。シルフィーには悪いが、あの男のことを観察させてもらった」
「お兄様!」
今日森の中で感じた視線は、気のせいじゃなかったんだわ。それだけ私は、信用されていなかったということだろうか。お兄様に対する疑念がわきあがるのを、無理やり押さえ込む。
「あの男は何か隠している。それは確かだ。そんな男に、大切な妹を近づけられない」
「そんな! エルドはお兄様が思ってるような人じゃない」
お兄様は何も分かっていない。私は、必死に訴えるが届かなかった。
「これは、お前のことを思って言ってるんだ。もう金輪際、あの男には会うな」
告げられた言葉は、意味を理解するまでに時間を要した。エルドと、もう会ってはいけない? どうして? だって、彼は……。言いたいことは山ほどあるのに、喉の奥に張り付いて出てこない。
「これ以上話すことはない」
そう言うと、お兄様は席を立つ。残された私は、目の前が真っ暗になるのを感じた。