彼女と僕と
ぴりりりと長針が12に差し掛かるとほぼ同時に僕のスマフォが鳴った。時計を見て気が付く。いつもの時間だ。非日常から日常に引き戻される。画面には僕の彼女の名前がしっかりと表示されていた。部屋の中では電波状況が悪いのでいつものようにベランダに出る。すぐに彼女の騒がしい声が聞こえてきた。
「うおーやっと出たよ。遅いじゃん。いつもはすぐに出るのに……あれ今日はバイトの日だったっけ?」
「わるいな若菜。考え事してた。」
「なんか悩みでもあるの?だったら私に相談しなよ。私が何とかしてあげるから。なんたって私はいつでもよっちゃんの彼女なんだから。」
「そうだな。若菜にはいっつも迷惑かけっぱなしだもんな。」
「迷惑なんかじゃないんだけどね。どちらかというと最初はよっちゃんの方が迷惑してたんじゃない。」
「そんなこと……あったかもしれない。」
笑ながら言うと彼女も笑った。僕と彼女、茅垣若菜との週に一度の会話。メールはしているものの忙しい僕を気遣ってか若菜はあまり電話してこない。違う学校に通ってはいるものの3年くらい付き合っている。
若菜は3年前に転校生としてこの町にやってきた。その第一印象はきれいだなだった。絹のようになめらかな長い美しい黒髪が劣ってしまうほどに若菜は輝いていた。スマートで無駄のない装いはまるでいい家のお嬢様のようでいて、僕にとっては高嶺の花どころか天と地の差ぐらいあったと思う。手を伸ばすことすら馬鹿らしいと思えるほど若菜は輝いていた。出雲がアライグマなら、若菜はきっと豹だ。一度本人に言ったら次のデートに全身ヒョウ柄で来たのだがあれは怒っていたのだろうか。若菜のスマートさからなかなかに的を射ていると思うのだけれど。そんな若菜が注目を集めないはずもなく、あっという間にクラスにもなじみ男子だけではなく、女子からも尊敬のまなざしを集める英雄のような存在になっていった。その当時は席も離れていたし、自分から積極的に話すこともなく、特に何の感情も抱かなかった。
そしてあの事故が起こった。
軽傷とはいえ夕は入院していて僕は一人部屋に閉じこもっていた。僕にとって身近な二人が急にいなくなり、嫌でも死がやってくることを意識させられた。一度そうなってしまえば何をしても無駄のように思ってしまった。カーテンを閉め切った暗い部屋で僕は一人でいた。そこにやってきたのが若菜だった。最初はクラスの係りとしてプリントを持ってくるだけだった。だが次第に彼女は玄関だけでなく僕の部屋まで入ってくるようになった。毎日決まった時間に若菜はインターフォンを鳴らし、僕はその時間だけはひとりでなくなった。といっても若菜は10分くらい経つとあっけなく帰ってしまう。そんな若菜が僕には理解できなかった。全部無駄なことなんだ。それなのに貴重な時間を割いて僕なんかのところに来る理由が分からなかった。そしてとうとう僕は若菜に尋ねていた。
「理由……ね。たぶんそれはきみがクラスメイトだからだと思うよ。」
若菜はまっすぐ僕の顔を見て答えた。そう断言した。クラスメイトという理由で、ただそれだけでここまでのことが出来てしまう。そして若菜にとってそれはすごいことではなくあたり前のことなのだ。越えられないな。そう素直に実感した。若菜がまた一回り大きくなった気がした。まさにそんなパーフェクト人間な若菜が僕のところにきてくれている。その時僕はふと思ってしまったのだ。もし若菜をこえることが出来たならば、無意味な世界に意味が見つかるのだろうか、と。
「へーそんなふうに考えてたんだ。なんかよっちゃんらしい。それで学校に復帰早々わたしのところに来て『あなたの背中を追いかけてもいいですか』ってストーカーみたいのことを言ったんだ。」
若菜はその時の様子を思い出したのか、くすくすと笑っている。事実なのだから仕方がないのだが今考えてみると少し恥ずかしい。
「そんなすごいやつに『OK。じゃあしっかり追えばいいじゃない。言っとくけど私は全力疾走だよ。』なんて言った若菜もなかなかだったけどな。」
「で、追いかけたんだよね。よっちゃんはすごいよ。だって最初はわたしのはるか後ろにいたのにいつからか私の隣に並んでいるんだから。子どもが育っていくのを見てる母親の気分を味わってるみたい。」
「そうなんだよな。もう、並んでいるのかもな。でもさ、僕はやっぱり若菜はスゲーんだと思うよ。僕には絶対に追い越せない。」
憧れの対象はいつからか恋愛の対象へと変わっていった。明確に意識はしていなかったけれど、突然として変わったのではなく淡いグラデーションのようにゆっくりと、時間をかけて色は変わっていった。今は未来もなく真っ黒に塗りつぶされそうになってはいるが。
若菜のことを一番に考えていると思っていたが、僕が最初に助けたいと思ったのは妹であり若菜ではなかった。僕だけしか知らないことだが若菜には申し訳なく思う。これは紛れもない事実であり否定することはできない。恋人という理由だけで僕は若菜を選ぶことが出来なかった。
「なあ若菜、今度の日曜日空いてるか?」
その言葉は若菜への罪滅ぼしのつもりなのだろうか、それとも妹を見捨てようとしているのだろうか。僕にもわからない。
「うーん、日曜日は部活の試合だからなあ。無理っぽいね。あっ、そうそういつも言ってるけれど応援なんて来ないでね。よっちゃんが来てるとプレーに集中できないから。」
「分かってるよ。今までも行ってないだろ?再来週は僕が修学旅行だから……」
「じゃあその次の日曜日だね。その日なら私も大丈夫。それにしても修学旅行かー沖縄だっけ?」
「朝がバカほど早いんだよな。スケジュルーも結構きつきつだし。あんまりゆっくり楽しめないかもな。」
「修学旅行なんて、みんなでワイワイ行くから楽しいんだよ。一人で行っても寂しいだけだろうしね。」
「僕はそれはそれで楽しそうだけどな。」
「それもよっちゃんらしいよね。」
そういって彼女はくすくすと笑う。
「じゃあ、3週間後の日曜日、どこか行こうよ。行きたいところとかある?」
「どこでもいいよ。よっちゃんのセンスに任せる。」
「よし、わかった。任せとけ。僕の進化っぷりを若菜に見せてやるよ。」
「ありがとう。楽しみにしてるね。ってもうこんな時間か。一時間も話してる。」
「ああ、そういえばそうだな。」
気が付いていた。若菜との会話中も自然と時計に目がいっていた。だって時間は有限だから。
「じゃあまたね。おやすみ。」
「ああ、おやすみ。」
ぷつんと電話は切れる。途端に若菜の声は聞こえなくなる。
若菜と約束したのは人類滅亡のちょうど5日前。もしかしたら若菜と会うのはその日が最後になるかもしれない。僕はその日までに誰を生き残らせる決めているのだろうか。遠いようでいて近く、嫌でも現実味を帯びてしまう時間だ。ベランダから見える景色はいつもと同じで終わりなんて全く感じられなかった。
秋とはいえ体が冷えてきたので僕は部屋に戻る。オレンジ色の明かりがテラス室内は少しまぶしい。
「試合か。そういえば行ったことなかったな。」
部屋に戻ってから一人僕はつぶやいた。
中学時代から背が高かった若菜はバレーボール部に所属していた。今も続けているかは僕にはわからない。高校が変わってからか、若菜は自分の近況を話さないようになった。以前はクラスが違ってもそういう話は出たのだが、今はほとんどない。いや、隠しているのだろうか。
そう思ってしまうのも時間は有限だからである。無限だと思い続けていたなら、僕はそこまで深く追及しなかっただろう。けれどそれを知る機会が失われるかもしれない今ただ立ち止まるなんてことは出来なかった。僕は若菜と同じ高校に行った友達を通じて試合会場やその時間を教えてもらった。尋ねてからものの五分ほどですぐにその情報は手に入った。若菜はバレーボールを続けているらしく、試合会場は近くの市民体育館だ。そこで僕はふと思ってしまった。
僕は今メールを送ってくれた友人を助けることはできないんだ。と。
守りたいものが多い主人公は不幸ですね。