お兄さんは私の下僕になりました
私が“お願い”を告げると、お兄さんは固まってしまいました。きっと、これが漫画やアニメのような映像作品であれば、お兄さんの頭の上にはクエスチョンマークがついている事でしょう。
「……なんで?」
そして整理がついてから、疑問を一言口にします。確かに、お兄さんのこの反応はもっともでしょう。あんなに脅された挙句の頼み事が“夕飯を作る事”だなんて、小悪党も良い所です。誰だって、そんな風に拍子抜けしてしまいます。
しかし、それこそが私の狙いなのです。良い感じに油断してくれましたね、お兄さん。
「たまには良いじゃないですか。いつも出来あいの物ばかり食べていたら、育ち盛りの私には毒だと思いませんか?」
事が上手く運び過ぎていて溢れそうになる笑みを抑えつつ、陰謀を悟られないように平常心で、私は会話を続けます。
「まぁ毒にゃならんだろうが、良くは無いだろうな」
そうでしょうそうでしょう。今は少なくなっているようですが、合成着色料や保存料などの食品添加物は体に良くないはずです。特に、私のような成長期真っ盛りの子どもには。年が離れているからこそできる技、必殺“子どもには良くない”を使って保護者心理を巧みにつきます。
「それに、知ってるんですよ?」
「何をだ」
お兄さんはきっとお気づきにもなられていなかったでしょう。最近、私がお母様の朝食作りのお手伝いをしていた事になんか。そこで手に入れた情報で、ダメ押しです。
「お兄さんがお料理上手な事ぐらい」
「ぎくり」
これには流石に肝を冷やしたようです。だって私の前では料理はおろか、包丁さえ握った事がないのですから。どこからそんな個人情報が流出したのかと、冷や汗を流しながら尋ねます。
「だ、誰から」
「お母様からです」
「あの野郎……」
「実の母をあの野郎呼ばわりとは何事ですか。ぶっ飛ばしますよ」
全く。良いじゃないですかお料理が得意な事ぐらい。私に知られたぐらいで、お母様を酷い呼び方するなんてあんまりです。むしろ、お兄さんの株がうなぎ上りに上がるじゃないですか。
けれども言い方が良くありませんでした。乱暴な物言いをつっこまれてしまいます。
「お前の方が怖いわ」
その後、しばらくにらみ合いが続きましたが、私が引き下がらない事が分かったのか、はたまた写真に釣られたのかは分かりませんが、最終的にお兄さんの方が折れてくださいました。
「ったく、しょうがねぇなぁ……。リクエストは?」
ようやく、あのお兄さんに勝ちました。この一週間、必死に考え、情報を集め、プレッシャーに耐えた甲斐がありました。心の中で大きくガッツポーズをします。
「あり合わせの物で構いませんよ。今日は」
「今日は?」
動揺しているとはいえ、流石お兄さん。言葉尻を素早くとらえました。
「これからお買い物に行くのも大変でしょうし。今日は」
お兄さんは、やっと私の企みに気がついたようです。はめられたというような顔をなさいました。そうです、私は一言も“今晩”と言っていないのです。これが何を意味するかはもうお分かりでしょう。私の企み、それはお兄さんに“これから毎日お夕飯を作っていただく事”だったのです。まんまと引っ掛かっていただき、自然と頬が緩みます。
そんな私の様子を見て、最初は嫌な顔をなさっていましたが、しかし武士に二言は無いというように、了承して下さいました。
「……とりあえず、冷蔵庫チェックだな」
そう言って、お台所に向かったので何となく私もついていきます。べ、別にお台所に立つお兄さんの姿が見たいからとか、そんな理由では無いですよ。
白くて大きな冷蔵庫を開けると、お兄さんは次々と食材を手に取り、その量と賞味期限を確認していきます。
「えーっと、卵と牛乳とハム、玉ねぎ……。まともに使えそうなのはそのぐらいか。レタスはあるが、これはサラダにしよう」
「本当、うちの冷蔵庫って物入っていませんよね……」
普通はメインである上の段が充実しているはずなのですが、我が家の冷蔵庫は冷凍庫の方に中身がぎっしり詰まっています。次いで多いのはお酒。生鮮食品はほとんど入っていない、というのが常なのです。といいますのも。
「まぁ、朝食だけだしな。作るの」
お兄さんが言ったように、梅里家は朝食しか家族そろって食べる事がありません。お父様とお母様はお二人とも会社に勤めていらっしゃる、所謂共働きという奴だからです。その為お帰りが遅いので、私とお兄さんのお夕飯はいつもスーパーのお弁当。冷凍食品だったり、レトルト食品だったりする事もありました。最近の技術は素晴らしいですし、お弁当も二百九十八円の安さとは思えないクオリティを誇っておりますので、たまに食べる分には美味しいのですが、毎日だと飽きてしまいます。それもあって、私は人の温もりが感じられる手料理が食べたかった、という訳なのでした。
「よし、じゃああれにしよう。朔はレタスちぎってくれ」
「はーい」
「あと片付けな。すぐ出来るから、用意して待ってろ」
そう言うと、お兄さんはエプロンを装着しました。本気になった事を確認すると、光のような早さでレタスをちぎり、お片付けを終えます。あまりにも早く終わってしまったので、散らかっていた書類のような物を整頓しようと思ったのですが、そこは仕事関係の資料だから良いからとお兄さんにやんわり止められてしまいました。
その後はする事が無くなってしまったので仕方なく、台所の椅子に座って、お兄さんの鮮やかな手さばきとそのお姿を見守っていました。真剣な眼差しで包丁を握る姿は新鮮で見蕩れて、なんかいませんよ。
「出来たぞー」
三十分ほどで、お兄さんは見事にお料理を完成させて下さいました。今日のメニューはオムライスとサラダとコンソメスープです。オムライスの中はハムと玉ねぎが入ったケチャップライス。また卵には、牛乳と隠し味に粉チーズを少し加えるという憎い演出もなさっています。ハムはレタスサラダの上にも乗っており、彩りも鮮やか。一見シンプルに見えるコンソメスープも、玉ねぎを飴色になるまで炒める事によって深い味わいを醸し出しています。
「おいしそうー。流石詩兄さん」
あれだけの材料から、よくここまで作れるものです。素直に感心した私は、惜しみなく称賛の言葉を述べました。
「久々にその呼び方したな」
「いけませんか?」
美味しそうなお料理を前に浮かれている私に、お兄さんはからかいたくなったのか、にやりと意地悪な事を言います。
「呼び捨てでもいいんだぞ?」
「え、あの、それは、なんというか」
よ、呼び捨てだなんてそんな、五歳も離れているお兄さんを軽々しく名前で呼べないじゃないですか。しかもこの場合、下の名前という事でしょう? ですから、お兄さんの事を、詩って呼んで良いってことなんでしょう? そ、そんなおこがましい。私が詩って呼んで、お兄さんが私を朔って呼んで。それじゃまるで、ここここ恋人同士じゃないですか! 出来る訳がないでしょう!?
「何で顔を真っ赤にしているんだ……? 熱でもあるんじゃないのか?」
「い、いえ、大丈夫ですから。大丈夫ですから」
誰の所為で私がこんなに動揺していると思っているのでしょう。お兄さんが落ち着きはらっている所を見ると天然か、さもなくば冗談だという事は分かっているのですが、この胸の高鳴りは治まりそうにありません。
「……朔」
「は、はい?」
「なんでもない」
思わぬ事に真に受けてしまってあたふたとする私に、お兄さんはご自分で何かを言いかけましたが、それを誤魔化す様に顔を背け、ぶっきらぼうに言葉を吐きました。そしておもむろに立ち上がり、私に背を向けて発します。
「先食っとけ」
「えー」
勿論お腹は空いていますし、今すぐにでも食べたいぐらいですが、それは出来ませんでした。
「一緒にいただきます、したいです」
だって、お兄さんが初めて私の為に作って下さったのですから。
「……じゃあちょっとだけ待ってろ。トイレ行ってくる」
「はーい」
少し冷めたぐらいで、このオムライスのおいしさは変わらないでしょう。私は大人しくお預け状態のまま、忠犬ハチ公のようにお待ち申し上げる事にしました。
だから、お兄さんがドアの外で顔を真っ赤にして呟いていた言葉なんて、私は知る由も無いのです。
「ったく、分かりやす過ぎなんだよ、朔は」
お兄さんが戻られたので、早速両手を合わせてご挨拶をします。
『いただきます』
まずは勿論メインから。見るからにふわふわしている卵をスプーンですくいとり、口の中に運びます。
「うわー、卵がとろとろです。おいしいです!」
「そうか、良かった良かった」
ご自分でも納得の出来だったのでしょう。満足そうに頷いています。
「やっぱり、お料理上手なんですね。もっと早く、作って下さいって言えば良かったです」
「お前が作っても良いんだからな?」
「何をおっしゃる。私が下手なのはよくご存じじゃないですか」
私だって、お兄さんに食べていただきたいたいのはやまやまなのですが、けれどもお兄さんに黒こげのハンバーグや塩辛いお味噌汁、お粥のようなご飯を作って差し上げるようなまねは出来ません。
ですがお兄さんは、私の料理の腕前を知らないようです。なんだかよく分からない、不思議な事を言いかけました。
「下手ではないだろう。というか下手な方が」
しかしその後をおっしゃられる前に、そこでしまったというように口をつぐまれました。
「下手な方が?」
私は続きが気になったので催促してみますが、
「なんでもない」
答えてはいただけませんでした。
「今日はなんだかはぐらかしますね。お兄さん」
こうやって私が追及したからでしょうか。どうにか話題を転換させようとなさったお兄さんに、約束を思い出されてしまいました。
「あ、ほら、写真は?」
「むぅ……」
これじゃあ等価交換みたいで嫌じゃないですかとも思い、あえて黙っていたのですが、元はと言えばそうやってお兄さんを買収したのです。このおいしいご飯に免じて、今度は私が引きましょう。
「はい、どうぞ」
私は懐から、先程の写真を取り出しました。
「ありがたき幸せ」
お兄さんはそれをうやうやしく両手で受け取り、そのままポケットの中にしまってしまいました。
「見ないんですか?」
「後でお前のいない所ではしゃぐ」
流石に、妹の前で情けない姿は見せられないという事なのでしょうか。お兄さんにもまだ羞恥深があった事に驚きました。
その後、お夕飯はぺろりとたいらげ、やっぱりそろって御馳走様をしました。食べ終わったら食器のお片付け。作っていただいたので洗い物は私が引き受けますと言ったのですが聞き入れてくださらなくて、結局一緒にやる事になりました。こ、これはこれで幸せだなんて思っていないのですから!
そうしているうちにお父様とお母様がお帰りになられたので、ご挨拶だけ済ませてから、私は自室に戻りました。
それからというもの、お夕飯の支度はお兄さんがしてくれるようになりました。まさか本当に引き受けてくださるとは思いませんでしたので、私は写真を一日一枚から三枚にすると追加報酬を申し出ます。しかしそれに対してお兄さんが出した条件は、準備と片付けを手伝う事で、なんだか申し訳なくなりました。
また、人に教えた方が頭に残るからと、私の勉強も見ていただけることとなりました。中学生と大学生の内容じゃレベルが違い過ぎるので、それが嘘だという事は端からお見通しでしたが、それを指摘した所でどちらも特にはならないので、黙ってお兄さんの授業を受けています。
しかしまだまだ、お兄さんにしてほしい事はどんなベテラン登山家でも登れないような山のように、うず高く積み上がっているのです。
例えば、その……。こ、これは決してデートとかそういう意味合いでは無いのですが、お買い物に付き合っていただく、とか。
いよいよ朔が実権を握りました(何かが違う
しかしこの方法を使ったからこそ、朔は自ら泥沼にはまっていきます。
悩める乙女って可愛いですよねと妄言を吐きながら、また次回。