十二月・春になったら、
亮太との生活は相変わらずで、わたしは誰にも干渉されずに暮らしていけている。
父も母も、それぞれの恋人との生活が忙しいらしく、わたしにかまってくる気配すらない。
そんな中で、時折現れる亮太のお父さんとのやりとりは珍しくて嬉しい。
放置されていた、とはいえ亮太はちゃんと愛されている。
そんな事実に少しへこんだ。
「いいかげん抵抗はよせ」
亮太は、わたしを同じ大学へ進学させることに執着している。
確かに近いし、学費は安いし、きっと祖母あたりは狂喜して喜んでくれるだろう。おおよそ外面でしか判断できない彼らはにとって、その肩書きは誇れるものだからだ。
だからといってそれを喜んでいられるほどわたしは子供のままじゃない。
「勉強嫌いだし」
「やってみたら楽しいかもしれないじゃん」
「そんな楽観的な予想だけじゃ」
「大丈夫だって」
正直、わたしは勉強が好きじゃないし、目的を見つけられないでいる。
亮太は早くからそこのあたりは割り切っていたようだけど、わたしはそうじゃない。
彼の提案にいつまでたっても首を立てに振らないものの、それでも根気よくわたしをそちらの方向へ向けるように努力している。
「卒業したら一緒に暮らすか?」
さりげなく呟かれた亮太の言葉に、わたしは咄嗟に何も答えられなかった。
亮太と暮らす毎日は、きっと穏やかなものだろう。
想像して、あまりにもしっくりきて、でも返事をすることができないでいる。
「そこまで甘えていられないよ」
ようやく搾り出した答えは、亮太にとっては不愉快なものだったようだ。一瞬表情をなくして、でもすぐいつもの彼に戻っていった。
それ以上その話を続けることなく、同じ夜が過ぎていく。いつのまにかあたりまえだと思ってしまっていた毎日が、そうじゃないのだと思い知らされた。
「進路の紙出してないんだって?」
図書室で話しかけてきた人は、ここのところわたしに何かと絡んでくることが多い古瀬先生だ。
避けることができるのに、それをしないわたしの気持ちは、自分が一番よくわかっていない。
「就職するならするで準備がいると思うけど」
確かに先生の言うことは正論だ。
こんな時代に中途半端なわたしがきちんと就職することは簡単なはずはない。
わかりきったことを、よくわからない距離感で迫ってくる人に言い聞かされ、わたしは意味もなく反抗心をもつ。
そんなわたしの内心などおかまいなしに、先生はわたしが現実拒否をするための本を前に小言を繰り出す。
うっとうしくて、でも、どこかわかっていたことで言い返すこともできない。
「まあ、そう言ってもわかんないわな」
そのまま黙って先生は本を持って遠ざかっていった。
将来なりたいもの。
わたしはいつでも逃げることばかりを考えて、具体的にそれらの手段を考えたことはなかった。
ただ辛くて、逃げたくて。
そこに亮太がいたから逃げ込んで。
ずるいだけの自分が、ものすごく嫌いになった。
「秋音ちゃんって、古瀬先生と付き合ってるの?」
「え?」
クラスメートと四人で輪になって昼ごはんを食べていたら、そんなことを聞かれた。
びっくりしすぎて思わずパンに喉が詰まったわたしに、他の子たちがあわててお茶だのを差し出してくれる。
「どうして?」
それはどうしてそんなことを思ったのか、だの、どうしてそんな風に見えたのかとか色々な意味が込められた言葉だったのだけど、友達はその意図に気がついたのか、つらつらと説明をしてくれた。
「一緒に校庭歩いてたって聞いたし」
「いや、偶然だけど」
「腕組んでたって」
「勘違い」
「大体物理の先生なのにどうして図書館で頻繁に目撃されるわけ?」
「本好きなんじゃないの?」
彼女が聞いたというその裏づけに、わたしは反論していく。
「まあ、私もただの噂だとしか思えないんだけど」
そう舌をだして、彼女がただわたしをからかっていたことがわかる。
あまりそういう話がないわたしに振って沸いた面白い話だから、さっそく餌食にしただけなのだろう。
だけど、本人に噂が届くということは、その噂はかなり広がってしまったあとだ。
わたしは良いとして、古瀬先生はそんな噂を立てられてひどく迷惑しているに違いない。
「秋音って彼氏いるし」
「そういえば」
噂を聞きつけた友達が、あっさりと他の友人の言葉に頷く。
たぶんそれは亮太のことを言っているのだろうけど、わたしは保身のため曖昧に頷いた。
「でも先生の方は軽く注意されたって聞いたけど」
「それ、ほんと?」
「まあ、あんなことがあったからね」
在学中の女子生徒が妊娠して、卒業とともにここの先生と結婚したことは在学生なら誰もが知る有名すぎる話だ。かなりおおっぴらに関係を持っていた二人は、あっさりと離婚して別の相手とくっついたり離れたりをしているらしい。そんなことまで噂に登るのは、ここが人口の割には田舎だからだろう。
「なんでだろう?」
わたしと、古瀬先生が噂をされる理由がわからなくて、素直に疑問を口にする。
「そりゃあ、あんたと先生って何の接点もない割には一緒に目撃されてるし」
「そもそもあの先生って生徒近寄らせないじゃん、一切」
それは今でもそうで、先生の周囲にわたし以外の子がいたことはなかった。
「ただ珍しいってだけでしょ?本当じゃないんだからそのうち落ち着くって。それに来年は違う学年かもしれないし」
暗に来年には古瀬先生が他の学年へと回される、ということを仄めかして慰められる。気がつけばみんなのごはんはそれぞれの胃の中におさまっていた。食べる気をなくした私は、食べかけでもよいという友人にパンを渡す。
あちこちに飛ぶ会話に相槌を打ちながら、わたしはぼんやりと先生の事を考えていた。
「先生、大丈夫?」
噂を聞いて、それでも先生には届いていないのかもしれなくて、図書室に偶然現れた先生にそんなことを尋ねる。
難しそうな本を手にしていた先生は、わからない、という顔をしてこちらを見下ろした。
あんなことを聞いたせいなのか、常連たちの視線がこちらに向いているような気がしてしまう。ただの自意識過剰だと思い直そうとしているけど。
「なんでもない」
だけどこんなところで直接先生に言いつけることもできなくて、適当に会話を区切る。
誰が見ているかもわからない場所で個人的に話しかけるのは、やっぱりよくないだろう。
口をつぐんだわたしの目の前に、先生は持っていた本を置いた。
「これ、おもしろかった」
タイトルからわたしが好む本とは違って、首をひねる。
意図をつかめないまま、先生はその本を置いて帰っていってしまった。
代わりに返しておけ、ということなのかと、それでも一応本をめくる。
中に入っていた一枚のメモに、走り書きをみつける。
それが、先生の携帯番号だと気がつき、大げさにならないよう周囲に視線を走らせる。
常連たちは、黙々と本だけをめくっている。
それに安堵して、メモを丸めてポケットの中へと突っ込む。
なんでもない顔をして、わたしはその本を係へとわたす。
あっさりと返却手続きがなされ、内心のあせりをみせないようにしながら席へと戻る。
ポケットの中のメモを確認する。
心がざわめくような感覚を始めて味わった。
亮太のいない家で、わたしは珍しく一人でいた。
生活感のない部屋のベッドの上で、天井を眺める。
外は暗くなって、部屋の中も真っ暗になる。
制服のまま、随分とその姿勢で寝転がっていたわたしは、意を決して握っていた携帯を開く。
画面からの光がぼんやりとわたしの周辺だけを照らす。
かちかちとボタンを押し、短い文章を作る。
入力してあるアドレスにそれを送る。
送信された、という画面から待ち受けに戻り、それを睨みつける。
やがてバッグライトが消灯し、周囲は再び暗くなっていく。
ようやう放り投げた携帯に、着信の知らせが届く。
起き上がり、ベッドの上に座りなおして携帯を開く。
予想した人からの返信に、わたしは嬉しくなる。
数回にわたるやり取りのあと、わたしは携帯を握ったまま眠りについた。
その日、わたしははじめて誰もいないのに安心して眠りにつくことができた。
春になったら二人で菜の花を見に行く夢をみながら。