十月・食べる?
気がついたら保健室にいて、まず最初にやってしまったと思った。
亮太が忙しくて、ここ数日ごはんを一緒に食べなかったせいだ。
夜はかろうじて同じ部屋で過ごせたけれど、あまりわがままを言うわけにはいかない。
だから、それこそ適当に口に放りこめるものだけを食べていたのだけど、食に興味がないわたしだとどうしてもとらなさ過ぎてしまうのだ。
だからこれは、単なる栄養不足による貧血みたいなものだけど、学校側は容赦なく保護者に連絡をとってしまうだろう。
それが保護者とはとても呼べない人たちであっても、面倒くさいことに巻き込まれてしまうのがいやだ。
「少し顔色よくなってきたわねぇ」
ふくよかな体つきに、たれ目の優しい顔立ちをした保健の先生は、まるで普通のお母さんのように生徒たちに慕われている存在だ。
あまり大人が得意ではないわたしも、この人の近くはちょっとだけ安心をする。
やさしい声をかけられ、緩められたブラウスを締めながら笑顔を作る。
手を出しなさい、と言われておとなしく右手を差し出したら、チョコレートを渡された。
「とりあえずそれでも食べときなさい、何かおなかに入れないと。内緒だけどね」
片目をつぶって言う先生は、どこかかわいらしい。
黙ったままうなずいて、おとなしくチョコを口にする。
少し冷まされたお茶を飲みながら、他愛もない会話をする。先生はそういうところから色々なことを探ろうとしているのだろうけど、はぐらかしながらも、会話は楽しんでいる。
そういう術だけが上達していく自分に嫌気がさしながらも。
「ん?鈴木か?妙なところで会うな」
女同士の話に邪魔者が入り、中断される。
「古瀬先生」
見知ったような知らないような、わたしの中でよくわからないポジションにいる先生が、ゆうゆうと私たちを見下ろしていた。
どうしてこんなところに、という疑問が顔に出すぎていたのか、先生は左手をひらひらふってこちらに見せた。
左手の中指に巻きつけられた布と、それに染み付いている鮮やかな赤色。
あちこちに飛び散ったその色は、見た目にものすごいインパクトがある。
思わず口を押さえた私を保健の先生は反対方向に向け、古瀬先生をどなりつける。
「あまりそういうものは見せないでください!特にこういう子には!!!」
叱れた格好になる先生は、その迫力に押され、おとなしく誤りながら手当てを受けているようだ。
背中側から器具を扱う音がして、情けない先生の声がする。
「はい、終わった。刃物の傷だから治りは早いと思うよ」
「ありがとうございます」
先生のお礼の声が聞こえて、ようやくわたしはそちらに向きなおした。
「先生、大丈夫?」
全く知らない仲ではない人に対して、何も言わないのもあれだろうと、わたしらしくないことをたずねる。
「怪我そのものはたいしたことない。ちょっと面倒くさいけど」
確かに利き手ではないとはいえ、指を怪我したら日常生活が色々と面倒くさいだろう。
「あ、でも先生、彼女さんとかに色々してもらったら」
軽い口調で、からかうように続けたら、先生が不機嫌になった。
「悪いけど、今はいないんで」
ぶすっとして言い訳をするように返す先生は、幼くて少しかわいい。
「あら、あんた恋人の一人や二人いないの?いい年してなさけないねぇ」
強く背中を叩きながら、古瀬先生をからかう。そういうときのこの人はとても楽しそうだ。
「すみませんね。そんなことより鈴木はどうしてここに?」
だけど、古瀬先生はあっという間に距離をとって、わたしへと注意を向ける。
彼はそういうところが他者に対してとても素っ気無い。
「まあ、ちょっと」
暗に女の子は色々ありますよ、ということを濁しながら察してもらう。
もちろん原因は違うけど、それを保健の先生が鈴木先生に告げ口することはないだろうとふむ。
案の定先生は、困った顔をして目を逸らした。
わたしはタイミングだとばかりに、お礼を言って授業に戻ることにした。
どういうわけか一緒に退室した古瀬先生は、途中までだが同道することになった。
「早退しなくていいのか?」
「たいしたことないですから」
曖昧にしたまま、嘘はついていないと彼の目を覗き込むようにして見上げる。
こういうときは身長差が辛い。
「先生こそ気をつけてくださいね」
階段を上がる先生と、あがらないわたし。別れ道で手を振る。
ふいに先生の手がわたしのブラウスの襟首を掴む。
ちょっとした抵抗感でゆっくりと振り返り、先生を改めて見上げる。
「いや、ごめん、なんでもない」
黙ったまま、数秒見つめていた視線をはずし、おもむろにポケットから何かを取りだした。
はい、といって渡されたそれは小さな飴で、あまりに唐突な彼の行動に疑問符だけが頭に浮かんでいる。
「もっと食べろ」
先生はそれだけを言って、階段を走りあがっていった。
先生が触れた襟首を直しながら、よくわからない感情が広がっていった。
苦いような痛いような、よくつかめない感情を持て余しながら、わたしは教室へと帰っていった。
「そういうところは母親そっくりなのね」
久しぶりに亮太に会って、晩御飯の買い物をして自宅へ行くと、珍しい人物が玄関の前に立っていた。
わたしと隣に立つ亮太を見比べながら蔑むような視線を寄越すのは、父方の祖母だ。
おばあちゃん、と親しげに呼んだこともない彼女は、実母に顔が似ているわたしを嫌い抜いている。
そもそもこの人は、父の前の恋人のことが気にいっていたらしい。
母の親友でもあったその人は、母には似ず、堅実でかわいらしい人だった、ようだ。
そんな彼女から肩書きだけはエリートな父親を略奪して結婚した母を気に入るはずはない。ましてわたしを妊娠することで、それに成功したという実母のことを。
わたしから言わせれば、されるほうもされるほうで、あっさりそんな女にひっかかる野郎も悪いのだと、実父なのに言いたくもない悪態を心の中でつく。
わたしの中の緊張感を感じとったのか、亮太は意地の悪い笑みを浮かべ、祖母に丁寧に挨拶をした。
「はじめまして、秋音さんの家庭教師をしている高井と申します」
「家庭教師?」
いかにも胡散臭い、といった顔をした祖母は、しかし亮太の学生証の印をみて、途端に態度を変えた。
「あら、まあ。こんな優秀な人が」
肩書きだとか権威だとか学歴だとかに弱い祖母は、彼の所属大学の名前であっけなく納得させられたようだ。
ひとしきりわたしに生活態度を注意する小言をくれて、あっさりと引き上げていってくれた。
「ありがと」
一言も口が聞けなかったわたしに代わり、適当に相手をしてくれた亮太に感謝をする。
彼女たちのことなどどうでもいい、と毒づきながら、わたしは彼女たちに反抗のひとつもできたことがない。
それは、刷り込みのようなものなのかもしれない。
足が震え、声もでないわたしは、普段強がっている分ひどく滑稽だ。
「メシにするか、とりあえず」
「うん」
わたしが今日倒れてしまったことがばれた後では、その提案を却下する勇気はない。
「で、そのあと勉強な」
「それは、ちょっと」
怒ったような顔をした彼は、彼の刑事だという父親にそっくりで、とても怖い。
「逃げられると思っているのか?」
「そういうわけでは」
戯れながらのやり取りはいつもどおりで、だけどポケットにしまってある飴の存在に、わたしは素直に入り込んでいくことができなかった。
亮太との過ごす時間をはじめて落ち着かないと思ってしまった。