九月・夏の幻想
嫌になるほど暑い夏が続いたまま、二学期が始まった。
そろそろ最終進路の提出がなされ、クラス分けが考えられるころだ。
最終学年で担任になれるはずもなく、おそらくこのまま副担任のままだろう自分は割とのんきに構えたままだ。
進路を相談にくる生徒も少なく、教科を教わりにくる生徒も少ない。
それは自分のとっつきにくくしているスタイルによるものだろうけど、やっぱりそれを変える必要性を感じていない。
膨大な事務仕事を片付け、さっさと仕事場をあとにしてねぐらへと帰る。
ネクタイを緩め、シャツをカゴに放り投げる。
シャワーを浴び、トランクス一枚にバスタオルを背中に引っ掛けた状態で冷蔵庫をあさる。
ビールの缶を取り出し、あおる。
苦くて冷たい液体が体中に広がり、外の暑さを忘れさせてくれる。
親父臭いが至福のひと時を過ごしていると、不躾なチャイムの音が鳴った。
そのままの格好でワンルームの玄関までいき、無言で覗き窓をみる。
誰もが見惚れるような笑顔をした、元彼女が一分の隙もない格好で立っていた。
思案して、シャツと短パンだけをとりあえず身につけてドアを開ける。
チェーンをしたままで、それでも僅かしかない隙間から、彼女の香水の匂いがこちらへ届く。
「相談したいことがあって」
「力不足だから他をあたってくれないか?」
あまり彼女にしたことがない態度をとったせいなのか、完璧な笑顔が少しだけ曇る。
「学しか頼れなくて」
「旦那がいるだろ?」
自慢の旦那が、と付け加えようとしてやめた。
それでは、自分がまるで嫉妬しているみたいだ。
「ちょっと、でも、少しだけ」
言葉を濁しながら、からめ取るような仕草をする。彼女が瞬きをするたびに、甘えた気配が濃厚になっていく。
そういえば、彼女はそうだったな、と思い出す。
いや、正確には思い知らされる。
姉妹がいる友人たちは、彼女の事を割りと冷たく判断していたはずだ。
あれは全て擬態であると。
そのときにはまるでわからなかったその意味が、今になって理解できた。
やる気はないとはいえ、難しい年頃の少女たちを数多く見てきたからだろうか。彼女たちはまだ幼いながら、似たような態度をとることがある。未熟さゆえのつたなさから、生徒たちのそれはまだかわいげがあるものの、元恋人のそれはまるでかわいげがない。
あんなに未練がましく彼女のメールが来るたびに一喜一憂していた自分が信じられない。
吹っ切れたあとは、なかったことにしたいほどだ。
「ねぇ」
女の煮詰めたの、と友人は彼女の事を評したことがあるが、確かにそれ以外現しようがない態度で甘えをみせる。
「悪いけど他あたって」
まるで他人のように、いや実際他人なのだけど、彼女を拒絶し、空間も遮断する。
閉じられたドアの向こうには声を荒げることなどない彼女が、唯一感情を表すかのように強いヒールの音をさせて去っていった。
ため息をついてベッドに腰掛ける。
勢いよく大の字になって天井を見上げる。
自分に対して影響を与えることがなかったことに、安堵した。
どんなことがあっても日常は淡々と続いていく。
まして勤め人ならば、こなさなければ明日にも困る。
社会人の無駄な憂いになど気がつくはずもなく、彼ら彼女たちは無邪気に学校という箱の中に集まっている。
「今帰りか?」
すっかりと暗くなった空を指しながら、偶然校外へと続く道で出会った鈴木に尋ねる。
彼女は帰宅部だが図書室通いが常で、帰りが遅いのも頷けるが、それにしても閉館時間を考えればやや遅い。そこまで考えて、すっかり一生徒である鈴木の行動の一端を把握している自分に驚いた。
「ええ、はい」
曖昧に笑って、見上げる。
色素の薄い髪に、瞳。
それが人工ではなくて天然だということは、近づけばよくわかる。そして、その目鼻立ちのせいで無駄に派手な印象を与える彼女の顔立ちも、近づいて見てみれば最低限の化粧しかしていないことに気がつく。
そんなことを知らなかった頃は、ただ彼女を浮ついた女子生徒の一人だと認識していた。
携帯を片手に無意味に友達と話している方が似合う彼女が、図書室にいたから驚いた。
だから気になった。
ただそれだけだ。
自分がしていたイレギュラーな行動をなかったことにして、そう判断を下す。
「大丈夫か?」
自分の質問の意味がわからなかったのか、見上げたまま鈴木は首をかしげる。その仕草が小動物じみていて、思わず撫で回したくなる。
どちらかというと大人びた印象を与える彼女が、こんな雰囲気を撒き散らすのはアンバランスでよくわからない引力のようなものを感じてしまう。
「夜も遅いし」
「そうですね」
一向にこちらの意図を解しないのはわざとなのか天然なのか。
図々しい子供たちなら、とっくに甘えの一つも出てくるものなのに、鈴木はそういう素振りを一切みせてこない。
そういう子たちが苦手だったくせに、自分でもわけがわからないことを思っていることだけは理解している。
「何してた?」
責めるような口調は、教師らしくもありらしくもない。
だが、鈴木はあくまでさらりとそれを交わしていく。
「勉強、とか?」
こうみえて彼女の成績は悪くはない。目を見張るほどよくもないが。
どこにでもいる平均的にできる少女、というのは実はどこにでもいるわけではなく、彼女ほどほどほどに出来て出来ない生徒は実は少数派だ。
大抵得意な教科が不出来な教科を穴埋めする格好で平均値を形作る。
そんなことに気がついているのは、自分だけなのかもしれないが。
気がつけば、彼女のことを詳細に知る自分がいる。
そんなつもりはなかったのだという言い訳すら出来ないほどに。
「進路は決めたのか?」
無難な言葉を口にする。
それがどれだけ自分という教師らしくなくとも。
「さぁ」
だが帰ってきたのは他人事のような一言だった。
まるで突き放されたかのように、鈴木は口を引き締め押し黙ってしまった。
この頃の子供たちは不安定だ。
未来や将来に不安に思うのは少女「らしい」とも言える。
歳相応の一面を垣間見て、安堵と同時に寂しさが支配する。
その感傷的な気持ちは、鈴木の一言で唐突に終了された。
「先生、さようなら」
彼女は何かに気がついたのか、校門のあたりで蠢く物体に手を振り、挨拶をして走っていった。
それが成人男性だと気がついたときには、僕はどうしてだか両手の拳を強く握り締めていた。
笑い声など聞こえるはずもない距離で、それが聞こえてきそうな錯覚に陥る。
見えなくなるまで、いや、見えなくなっても鈴木が歩いていった方向を見つめたまま立ちすくんでいた。
ようやく、もう誰もいないただの暗がりだと頭が認識した頃、のろのろと帰宅すべく駐車場へと歩き始めた。
よくわからない気持ちに支配されながら。
元彼女とのやりとりで神経がささくれだっていただけだと、言い聞かせる。
だけど浮かんでは消えるのは誰かの顔で、それはこの暑さが見せたただの幻だと言い聞かせた。