八月・溶けちゃいそう
暑い中、わたしは自転車を漕いで市立図書館へと急ぐ。
昨夜、亮太の家に泊まったわたしは、彼と一緒に家を出た。
大学生らしくバイトとサークル活動とやらに忙しい彼は、規則正しい夏休みを送っている。
家にいていい、という彼の言葉を聞き流し、それなりに居心地のよい図書館であてもなく本を探す。
少なくとも、エアコンが効いているだけここは過ごしやすい。
ようやく今日読む一冊を決め、取ってあった席に戻る。
夏休みは人が多い。それでも図書館の本を利用しない学習を禁止したせいなのか、宿題をするためだけにやってきていたような人たちは減った。それでも、そこここに適当に資料を机の上に置き、学校で与えられた宿題をこなしている学生もみかける。
それらをかいくぐり、ようやく手に入れた椅子にゆったりとすわり、そして本をめくる。
それだけで現実の世界が遠くなり、わたしは本の中に入っていく。
どれほど時間がたったのだろう。
空腹を覚えて顔をあげれば、はずした腕時計は随分と正午から過ぎた時間を指していた。
面倒くささを覚え、再び本に目を落とす。
雑音が消え、体の瑣末な現象も感じなくなっていく。
ようやく本を読み終えたころには、閉館時間間際となっていた。
亮太のバイトもそろそろ終わる頃だ。
固まった体をのろのろと動かし本を元の位置へと戻す。
軽く背伸びをしたあと、立ちくらみでその場にへたりこんだ。
暗転した視界と、血の気が下がっていく感覚。じっとしてそれらが治まるのを待つ。
ゆっくりと回復していく視界にあわせ、立ち上がる。
こちらを振り返ろうともしない周囲に沿うように歩き始めた。
「おかえり」
待ち合わせた亮太と一緒に、スーパーに買い物に行って、適当にごはんをつまむ。
今日はわたしの家で、自分の家のようにくつろいだ亮太と一緒に戯れるように過ごす。
この時間は嫌いじゃない。
自分じゃない誰かの存在が、わたしが存在していることを強く感じさせてくれるから。
暗闇の中、混じり合って、やがて眠りに落ちる。
ずっとこうやって過ごしてきた。
ひとりきりだと眠れないわたしに気がついて、救い出してくれた人。
「もう少し太れ」
わたしの体を触るたびに言う言葉をお休みの代わりに、亮太は眠りに落ちた。
どこかにそっと触れながら、わたしも眠る。
多分今日も夢をみない。
誰かが隣にいてくれるから。
学校の開放日に図書室へ行って、どっぷりと本を読んだわたしは、暑さにへばりそうになりながら帰り道を歩いていた。
高校は比較的近い位置にあって、徒歩で通っている。この日も当然歩きで、暑さに陰りがない夕暮れを後悔しながら歩く。
アスファルトからは容赦い照り返し、沈みかけだというのに勢いが衰えない太陽の光。
そしてぱったりと止まってしまった風に恨み言を呟く。
ようやく見えてきたコンビニの明りに喜ぶ。
自動ドアをくぐり、強い冷気を浴びる。
さして興味のない雑誌をめくり、ゆっくりとアイスを選ぶ。
今日は亮太がバイトで遅い日だ、だからあてのないわたしはこんなところで時間を潰すしかない。
涼しいところでお茶だのは、わたしの経済状態ではそう頻繁にやれることじゃない。
「鈴木?」
「古瀬先生?」
後ろから声がかかり振り替える。
古瀬先生が不思議な顔をして、こちらを見下ろしていた。
背の高い先生と比較的小さいわたしとでは、実のところかなりの身長差がある。出会う場所は図書室で、わたしが座っている状態が多かったから気にしないようにしていたけど、改めて見せ付けられたみたいで、自分の成長のしなさぶりにがっかりする。
「先生アイスおごって」
とりあえず軽い感じで強請ってみたら、先生はあっけなくそれを許可してくれた。
拒否しそうなキャラの先生からそんなことを言われて、驚いたままのわたしを尻目に先生は自分の分も選び出す。
あわてて抹茶のアイスを掴んで渡す。
会計が済まされたあげく、同じビニル袋に入れられ、なんとなく先生の背中を見ながらあとにくっついていく。
無言でしばらく歩いたのち、もう誰も遊んでいない小さな公園にたどり着いた。
比較的キレイなベンチに座った先生の隣に、大人しくわたしも腰掛けた。
少しだけ間を開けて、それでも今までにない距離に戸惑う。
「溶けるぞ」
「ありがとうございます」
座ったきり口も手も動かさないわたしに、先生は水滴のついたアイスを手渡してくれる。
言われるままに蓋を開け、食べ始める。
ソフトクリームの形をしたアイスを食べ始めた先生は、溶けるまもなく勢いよくそれを食べ進めている。
「家、近いんですか?」
「まあ、わりと」
会話が続かなくて困り果てる。
そもそもわたしも先生も話が上手なわけでも好きなわけでもない。なんとなく一言二言会話らしきものを交わすことはあったけれど、それ以上長文を聞いたこともなければ話した記憶もない。
ちっとも涼しくならない気温に多少いらつきながら、アイスを口に運ぶ。
甘みと冷たさが口の中に広がり、少しだけ気持ちが落ち着く。
「宿題はやったのか?」
全くそんなことに興味がなさそうな先生が、先生らしいことを問う。
「なんとか」
家庭教師のアルバイトをしている亮太にしごかれて、いつのまにか宿題は終わってしまった。それ以上勉強させようとする亮太と、したくないわたしは、そういうところでは対立している。
どうも同じ大学に入れたいらしいが、わたしの学力と根性では無理だと、本人が匙を遠くへ放りなげている。
「意外だな」
「言われます」
わたしの外見は、どちらかというと軽そうな外見に入る。
細くて猫毛で茶色がかった髪も、派手な顔のパーツも、少しいじれば大人がイメージする遊んでいる女の子だ。
だからといって中身がそうじゃないことを周囲に知らせながら歩くわけにもいかないし、言ったところで信じてくれるわけじゃない。しょせん人間なんて見た目でほとんど判断されるのだから。
そんなことを考えてたら、先生の眉間に皺が寄っていた。
先生は、わたしとなけなしの会話をするときによくこの顔をする。困ったような何かを考えているかのような。
それを知ってみたい、と思って否定する。
わたしは、踏み込んじゃいけない。
先生のアイスはとっくに終わっていて、カップが所在無く握られている。
どうしてそんなことを言ったのかわからないけど、わたしは思わず口をついた自分の言葉に、わたしが一番びっくりした。
「食べる?」
気安い口調で、あくまで冗談のつもりで、スプーンで一口すくった抹茶アイスを差し出す。
もちろん否定されるだろうと思って。
だけど、先生はなんのためらいもなくそれを口にした。
「趣味まで渋いんだな」
そう言って先生はアイスを飲み込んでいった。
先生が口をつけたスプーンをしばし見つめる。
大人と子供。
わたしはただの子供。
それだけを心の中で呟きながら、溶けかかったアイスをすくう。
やっぱりそれは甘くて、冷たくて。
自意識過剰な自分を誰かが笑っているようで、黙ったまま最後まで食べ続けた。
ごちそうさまでした、と手を合わせたころには大分時間が過ぎていたようで、先生は笑ってわたしと別れていった。
亮太と会える時間までもう少し。
誰もいない公園で、わたしは途方にくれていた。