六月・雨の音、二人きり
「ごはん食べてく?といってもあまった弁当だけど」
「ああ、見張ってないと秋音は食べないから」
コンビニのバイトをやっているわたしを、たまに亮太は迎えにきてくれる。
親でも兄弟でもない彼が、わたしのことを一番思ってくれている。
ただの近所の年の違う知り合いだった彼と、こうして二人で過ごすことがあたりまえになったのは、いつだったか忘れるぐらい前のことだ。
放置されていたわたしと、違う意味で放置されていた彼が行動範囲の狭い子供の頃によく出くわすのはあたりまえだ。人の多いスーパー、コンビニ、公園、そういったところを徘徊していた彼とわたしは、いつの間にか一緒に行動していた。
頭がよく、問題行動を起こさない彼と、頭はよくないけれども内向的なわたしは、対外的には大してトラブルを起こさずに、そして徐々にお互い顔の家で遊ぶことで落ち着いていった。わたしが曲がりなりにもまっすぐに育ったのは、彼の愛情があってこそだと思っている。
たった数歳しか違わないのに、父親扱いしたら嫌がるだろうけど。
わたしの家には誰もいない。
正式には両親がいるはずだが、わたしが生まれた歳に無理して買ったはずのこの家には彼らは寄り付きもしない。
きっと今頃それぞれの恋人のところにでもいるのだろう。
わたしはそれを悲観するほど彼らに対して何かの感情を持ち合わせてはいない。
「泊まってく?」
「もちろん」
どちらの家かの違いはあるけれど、ほとんど一緒にすごすというのに、わたしは確認をしない日はいない。
わたしは、わたしで彼に依存している。
役に立たない両親の代わりに。
そして、彼も彼でわたしに依存している。
いなくなってしまった母親の代わりに。
健康的とはいえない関係は、それでもどうにか均衡状態を保ちながら続いている。
亮太かわたしに恋人でもできればまた違うのだろうけど。
そんなことを考えていたら、また、誰かの顔が浮かんだ。
その記憶をかきけすように、わたしは亮太の腕にしがみついた。
元々バイトがない日は図書室に入り浸っている。
大学生である亮太とは帰宅時間が違う。彼は遊んでいそうな外見とは裏腹に、真面目な大学生活を送っているらしい。
あの家には帰りたくない。
だけど、亮太の家に先に上がりこむことはできない。そんなことは気にしない、と言われてはいるけれど、わたしの中のなけなしの線引きのようなものだ。
だからこうやって図書室にいるのだけど、試験勉強をしにくる人間どころか常連組みさえいなかった意味に気がつけばよかったのだ。
大粒の雨が図書室の窓を連打してようやく、わたしは彼らがいない理由に気がついた。
空は真っ黒で、古典的な表現ではあるがバケツをひっくりかえしたような雨が空から降り注いでいる。
持ち合わせの折りたたみ傘で帰宅するのはいささか心もとない。
時計をみれば、閉館時間まであと三十分ほどとなっていた。
その時間で事態が好転するとは思えないけど、とりあえず窓を覗き込むために立っていたわたしは席に座りなおした。
雨音しかしない室内は、かえって静けさが目立っていた。
わたし以外に人がいないのだからなおさらだ。
形式的な図書係ですらとっくに姿を消している。
頬杖をついてぼんやりと空をみる。
もはやどれ程好きな話であろうと本に集中できるような状態ではなくなっている。
「あれ?人いたのか?」
驚きを含んだ声がかかる。
その声に聞き覚えがあって、ぼんやりとした頭を働かせながら振り返る。
「鈴木……」
聞き取れないほど小さな声で、その人がわたしの名前を呟いた。
知られていることに驚く。
彼は、古瀬先生は生徒のことなど興味がないと思っていた。まして全くかかわりのないわたしのことなど。
「古瀬先生は押し付けられたんですか?」
鍵束を手にした姿から想像をする。
歳が若い方に入る彼ならば、ここの責任者である教師から面倒くさい仕事を押し付けられそうだと。
予想通りだったらしく、苦笑して頷く。
「外ひどいぞ?」
「そうですねぇ」
「帰れるのか?」
「まあ、なんとか」
短い会話を交わす。
眼鏡の奥には感情のよくわからない瞳が覗いている。
この先生は、いつもそうだ。
「送って行こうか?」
興味がなさそうな顔をした先生に、予想外の提案をされ驚く。
必要以上の接触を自ら図ろうとするタイプには到底見えないのに。
だけど、外の雨の強さをみて、さすがのこの人も知らんふりはできなかったのだろうと思い直す。
「迷惑でなければ」
先生は微かに笑って、こちらを手招きをする。
閉館時間には早いけど、わたしを追い出してここの戸締りを済ませるつもりなのだろう。
大人しくしたがい、わたしは彼の隣に並ぶ。
暗い色の長袖のシャツに、思ったより細い手首と神経質そうな指先がみえる。
亮太とは違う。
しっくりと馴染んだ彼の体を思い出し、いつのまにか比較していた。
「いくぞ」
「ありがとうございます」
外の雨音だけに支配された車内は、ほとんど会話を交わさなかったにも関わらず、とても居心地が良かった。