三月・伝えたい
世の中にはホワイトデーなるものがある、ということはもちろん知っている。
そういうやりとりは、嫌というほど身につけられた、歴代の彼女たちによって。
だが、違うのは相手がずっと年下だということだ。
自分がその年頃だったときを思い浮かべてみても、同級生の女子が何を好んでいたのかさっぱりわからない。
ましてそれからたった年月を考えると、的外れ以上のものは出てこないだろう。
そんなくだらないことを考えながらテストの採点を続ける。
ほぼルーチンワークのそれを黙々とこなしながら、あれこれ雑多なものが浮かんでは消えていく。
結局仕事が終わるころになっても適当なものは思いつかず、帰宅した。
鈴木がこの部屋に来たのはただ二回きりだ。
そのどちらも多少緊張していた彼女は、それでも自分の隣で穏やかな眠りについた。
まるで保護者と被保護者。
望んだものではないが、今はまだこれでいいとも思っている。
ただ依存されているだけだと指摘されるような関係に、それでもいいから彼女といたいと望んでいる。
バレンタインに比べればどちらかというと地味な行事であるホワイトデーは、あたりまえだがバレンタインと同じ平日だった。
あの日は一日どこか華やいでいて、生徒からの戦利品をこれみよがしに机の上に置いていた教師もいたほどだ。
自分は毎年同じようにすべてシャットアウトしている。
もらうなら平等に、もらわなくても平等に。
理にはかなっている。だからなのか文句も少ない。
チョコを渡したであろう生徒たちに、軽く絡まれる教師を横目にさっさと家に帰った自分は、どうやら彼女もちで急いでいるのだと勘ぐられてしまった。
そんないいものじゃない。
特定の人物を思い描きながら小さく悪態をついた。
「メシ食ったか?」
二人用のこたつに小さな物体がコタツ布団に顔をうずめるようにして座っている。
いつのまにかここに出入りすることもある鈴木秋音が寛いでいた。
向こうの意思でやってくることはない。
どれもみな、僕が水を向けたから、彼女はここに足を踏み入れている。
頷いた彼女は、どう考えても嘘を言っている。
近くで接することが多くなってから気がついたが、彼女は食に関しての欲求が希薄だ。
食べなければ食べないままいつまでもいそうで怖い。
ただ、頻繁に保健室に担ぎ込まれるようでは具合が悪いと自覚しているのか、それを回避する程度に食べている、といった具合だ。
だからこそ餌付けのように、思わず食べやすい何かを用意してしまうのだ。
まるで生命力のない体は、細すぎて折れてしまいそうだ。
もう少し年頃らしくふっくらと、までは無理としてもせめてもう少しましにしたいと思うのは、仕方がないことだろう。
庇護欲とかそういった言葉が頭を掠めるが、断じて否定する。
とりあえず簡単に摘めるクッキーを机の上へ出し、暖かいお茶をそそぐ。
「ありがとうございます」
両手で湯飲みを手にして、ちまちまと茶に口をつける。
「お返し、なんだけど」
「何の?」
呼び出された鈴木は、今日が何の日かすっかり忘れているようだ。
確かにらしいといえばらしい態度ではある。
「ホワイトデー」
小首をかしげて、携帯の日付を確認する。
「ああ、確かに」
今日がホワイトデーである、という事実を認識した鈴木は、あわてて首を横に振る。
「いいですいいです。お礼だし、それにこれもらったから」
あの日渡したマフラーは、鈴木のものになった。
登下校で彼女の首に巻かれたそれを見て、ひそかに嬉しがっていたことは、とてもじゃないけど知られることはできない。
「まあ、そういうなって」
用意していたものを彼女の手のひらに落とす。
過剰にラッピングされた小さな箱は、やたらと親切な売り場の女性に勧められたものだ。
「これ」
小さいながらも誕生石がついたピアスは、常に彼女がしているものよりは明らかに高級感が漂っている。
この年代の女の子がするならば、今しているものでも十分ではあるが、それだと自分が贈るには不満足だ。
戸惑ったまま固まっている鈴木は、おろおろとピアスとこちらに視線を行き来させている。
おそらく単純にどうしていいのかわからないのだろう。
「先生、これ」
「おまえは気にするな、これでも給料もらってるからな」
彼女のバイト代に比べれば、それはずっともらっているだろう。いや、もらっていなくてはまずい。
それでもためらっている彼女の手を握る。
「せっかく買ってきたんだからもらってくれないと寂しい」
罪悪感を植えつけるような物言いに、ようやく鈴木は承諾した。
「先生、そろそろ」
時計のを指差して帰宅することを伝える。
だが、ようやく捕獲した彼女をこのまま帰したくはない。
「誰かいるのか?」
答えがわかりきった質問をする。
あの家には誰もいない。
最近はようやく、あの男の影がしなくなって、より一層人気がしなくなったはずだ。
依存していた彼が消え、新たな依存先としての自分との関係は不安定。曲がりなりにも落ち着いていた環境が、今落ち着きのないものとなっている。
それは僕のせいではあるのだけど、この機に乗じて、何もかも手に入れたくなる自分がいる。
「帰っちゃうの?」
別の角度から攻めたせいで帰りづらくなったのか、浮きかけていた腰を落とす。
制服ではない彼女の、それでも幼い仕草にこちらに罪悪感が沸いてくる。
「迷惑じゃ、なければ」
こちらを見ないようにしてそう言う彼女が可愛くて、生物としても当然の欲求が頭をもたげる。
それをぎりぎり押さえ込んで、じゃれ合いのようなやりとりが行なわれる。
簡単な一言が伝えられなくて、それでも僕はこの関係に満足していた。
鈴木はようやく進路希望の書類を提出し、彼女たちの学年もそろそろ受験のシーズンへの準備を始めていった。
おおっぴらに外で会うわけにもいかず、だからといって頻繁に呼び出すこともできない立場の自分は、図書室通いは控え、地味にメールでやりとりをしている。
どういうわけか、いや、ある意味あたってはいるのだが、鈴木との関係を取りざたされ、口頭で注意された身分だ。
おとなしくしているに越したことはない。
短い文のやりとりにも満足し、自分がこんなにまめだったことに驚く。
会えない分、こういうところで発散させている、ということにしておく。
何気なくやりとりをし、彼女の志望校を知った自分は、思わず大声を出していた。
ボタンひとつを押す作業さえもどかしく、彼女の携帯に電話をする。
「今のほんと?」
「ほんとだけど」
砕けた口調になってきた鈴木が、ためらいなく言い切る。
彼女が書いてきた志望校は、記憶が確かならばここからでは飛行機でもかかる距離にある大学だ。
今は立場のせいで気軽に会えない彼女が、距離のせいで気軽に会えなくなってしまう。
「どうして?」
あのレベルの学校ならば、正直ここらあたりにもある。特殊な学科を希望しているわけでもない彼女が、わざわざそこを志望する理由がわからない。
理由があるとすればいないも同然の家族のことであり、正直自分がそれを超える存在になっているだなんて思い上がってはいない。
「家にいたくないからか?」
「あの家、売っちゃうって」
まるで人気のない彼女の家は、昔はそこそこ洒落た家だったのだろう。最低限以上の手を入れるものがいなくなった家は寂れ、落ち着いた住宅街で逆の異彩を放っていた。
そして、取り残された象徴のような家に関して、他人事のように呟く彼女の心は、そうしなければ耐えられなかった彼女の置かれた状況を強調させる。
あんな家でも、彼女にとっては家族と繋ぐ最後の砦のようなものだったのかもしれない。
それすらなくなって、彼女はどこか糸の切れた凧のようだ。
「だったらなおのこと、そんなに遠いところを選ばなくても」
代わりにはならなくとも、別の何かにはなれていると思っていた。
表面だけをさらりとなでるような付き合いしかしない鈴木が、自分には一部を預けてくれていたのだと。
無理やり振り払われようとしたその手に、教師という職業を理由にしてどっちつかずの立場に立ったままだった自分に気がつかされる。
だけど、全部わかった上で、それでも彼女を手放せない、手放したくない。ただそう思う僕はわがままな子供のようだ。
それでも、僕はその手を離すつもりはない。
「どうしてもやりたいことがあるのか?」
そこにしかない学科、というのもあるにはある。それを学びたいためだったのならば、無理やりにでも自分も納得はする。
受身で生きてきたとしか思えない彼女が、それだけやる気をだしてくれたということなのだから。
だけど、どう考えてもそうじゃない。
「逃げるのか?」
「そういう、わけでは」
追い込むようなまねをして、彼女は徐々に言葉数を少なくしていく。
「僕から逃げたいってこと?」
自信過剰な言葉を口にする。
「違う」
「じゃあ、高井君から?」
彼女が依存していた人間の名前ぐらいは知っている。その人の存在が、彼女にとって救いになっていたことも知っている。それが依存という歪な関係だと指摘する人もいるだろう。だが、確かに彼は彼女を救っていた。
「そうじゃ、ない」
こんなやりとりなのに、はっきりとした否定の言葉に喜ぶ。
彼のことをもうそれほど意識していないということを知ることができて。
「だったらどうして?」
黙ったままの彼女に、その場にいるように言い聞かせて通話を終了させる。
おそらく一人きりで家にいるのだろう。
生活感のないあの家を思い浮かべ、そこに一人でいる彼女を想像する。
今までよりずっとそれが寂しくて、彼女の手をとって逃げ出したくなる。
だけど、それよりずっと伝えなくちゃならないことがある。
逃げ出していたのは自分だ。
立場だとか年齢差だとかを気にして、このままでいいと高をくくっていた。自分以外の周囲の人間には、彼女は見向きもしないと、そう思っていた。
携帯をポケットにねじ込んで、車のキーを手に取る。
伝えたい、ことがある。
その気持ちだけで彼女の家へ車を飛ばした。
この日、ようやく言葉を伝えることが出来た僕は、将来彼女の隣に居る自分をようやく想像することができた。
もうすぐ、彼女と先生と生徒として過ごす、最後の一年が始まる。