四月・はじめて
春は少しだけ苦手だ。
人とのやりとりが得意じゃないわたしにとって、クラス替えも、環境の変化も、それらを含む全てに対してハードルが高い。正直、逃げてしまえば楽なのにな、と思わないこともない。
だけど、そんなことは口にも出さず、わたしはいつものようにへらりと笑って、友達とおしゃべりをする。
少し甲高い声がわたしの周りを飛びかい、新しい担任の登場によりそれは中断された。
ほっとして、わたしは決められた席に座りなおす。
基本的には代わり映えしない生活。退屈で、だけど時間は確実に過ぎてくれることを知っている。好きなことも嫌なことも、何度も息をして眠ってしまえば過去のことになるから。
担任は普通の中年のおじさんで、あからさまにがっかりした雰囲気が女の子たちから漏れていることを気にもしていない。簡単に説明をして、わたしたちはまた新学期第一日という少し特殊な日から日常へとスライドしていく。
二年生というゆるやかな空気の中、授業が終わった後はぼんやりと図書館で過ごす。それは一年生の頃からのことで、最初は妙に見られていたわたしの行動も、そのうちそういうものだと認識されていった。
バイト以外はここで過ごすわたしは、いつも座る席に腰掛け、ゆっくりと厚い表紙をなでる。
古ぼけてやや痛んだその本は、有名なファンタジーのひとつであり、正直わたしには少し難しかった。
でも、その世界観が好きで、わたしは何度でもそれを手に取った。
背表紙を開き、ページをめくる。
周囲の音が徐々に小さくなっていき、わたしは本の中へと没頭していく。
どれぐらい時間がたったかわからなくなったころ、カタンという小さな音でわたしは本の世界から引き離された。おそらく集中力が弱くなってきたのだろう。目をこすり、軽く肩を回して丁寧に本を閉じる。
「ごめん」
聞き覚えのない声がおりてきて、わたしはそちらへと視線を向ける。
身に覚えのない謝罪を受け、わたしはその人物をきっと思った以上に不審な目で見ていたのだろう。すっかり恐縮しきった人物がこちらをまっすぐに見つめていた。
「音、たてちゃって」
男の人は、事態を把握していないわたしを尻目に、淡々と説明を続ける。
おそらく、わたしが集中を切れさせるきっかけをつくったであろうあの物音を立てた人だろうと、ようやく検討をつけた。ゆるゆると頭を左右に振って、気にしていないと態度で示す。外はいつのまにか暗くなっており、あわてて時計を見ればここの閉館時間が迫っている。
いくらここにいたいと願ったとしても、所詮高校の施設を二十四時間開放してくれるわけではない。
のろのろと立ち上がり、今まで読んでいた本を手に取る。
「もう帰らないといけないですから」
ぎこちなく笑う。
「珍しいね」
それは、わたしがここにいることだろうか。それともここに高校生がいることだろうかと考え、おそらくわたしのことを知らないこの人は、後者を知りたいのだろうと推し量る。
「結構いますよ、常連さん。今日はたまたまわたし一人ですけど」
こんな辛気臭いところに、とクラスメートは言うけれど、意外とここには人がいる。そのほとんどが固定されたメンバーだから、数少ない変わり者の巣窟ともいえるのかもしれないけれど。
何かの資料なのか幾冊もの本を机の上に置き、さらには数冊の本を右手に持った人は、困ったような笑顔を作る。
話しかけたまではいいが、それ以上の会話を続けられないのだろう。
先生にしては珍しいタイプだと観察をする。
記憶の奥底からひっぱりだし、この人が同じ学年のどこかのクラスの副担任だということを思い出す。
若ければ格好よくても悪くても人気のある商売において、この人の周囲は比較的静かだったこともついでに。たぶん、それはこの人の持った雰囲気のせいなのだろう。
熱血でもなく、だからといって冷め切ってもいない彼はいたって普通の人間だ。だけどその授業があまりにも単調で、ただこなせばいいだろう、という彼の態度に人気が集まりにくいのだと誰かが言っていた。
彼は教師という職業があまり好きではないのかもしれない。
「手伝いましょうか?」
確実に両手に余るその本たちに手を伸ばしたら、彼の左手に少しだけ触れた。
その瞬間、彼はものすごい勢いで手を引き、そして困ったように笑った。
その笑顔は仮面のようで、そして確実にわたしを拒絶していた。
「先生さようなら」
わたしはおもしろいものをみたような気分で彼に挨拶をし、そして図書館をあとにした。
人間嫌いの教師。
その矛盾した言葉に、彼に少しだけ興味を覚えた。
古瀬学という名前だと、あの先生のことがわかったころには、時間は随分とたってしまっていた。
積極的に探しだすつもりも、知るつもりもない。
だけど、耳に入った名前は、わたしの記憶にしっかりと残ってしまった。
人の名前など覚えることが苦手だというのに、よくわからなくていつのまにかへらりと笑っていた。
「気持ち悪いなぁ」
「ごめん、ちょっと」
それ以上は聞いてはこない彼は、わたしの額を軽く指先ではじく。
痛みに額を押さえ、涙目で彼を見上げる。
幼馴染で保護者のようでもある高井亮太の家に、わたしはこうして入り浸っている。
彼の父親は、仕事人間であり、あまりこの家にはたどり着けないでいる。
わたしの家は、両親そろってそれぞれの恋人のところにでもいるのだろう。
もう顔もおぼろげな彼らを思い出し、乱暴に大根を切る。
「泊まってく?」
「うん」
いつもの会話を交わす。
コンロの上には味噌汁にする予定の出汁が入った鍋と、まだ何も入れられていないフライパンが一つのっている。
これから簡単な料理をして、亮太と一緒に夕食をとる。
わたしにとってはありふれた日常。
だけどふいに浮かんできた男の顔に、わたしは戸惑いを覚えた。