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9/13

-14時間

 ―――後頭部に無数の雨が降り注いでいる。

 困った。これは止みそうにない。

 それにしても、いつの間に雨が降ってきたんだろう。

 真っ白の空間のなかに雨を打つ音だけが響く。

 雨の日のビニール傘の音のように。私にとっては心地良い音だ。

 雨は嫌いじゃない。

 雨の音と、アスファルトを濡らす匂いが好きだった。

 特に窓のガラスを叩く音は大好きだ。

 だけど、雨自体は好きでもなかった。

 聞こえるだけでいい。

 雨の役割は、それだけでいい。

 身体を濡らすのは、別の何かがやればいい。

 濡れるのは嫌いだった。

 雨が身体を叩くと、何も聞こえない。

 空間をいくら叩いても、それは空っぽでしかない。

 濡れるのは嫌いだった。


 特にこんな熱い雨に濡れるなんて……



 ―――熱い?

 あれ、これは、


「あ……あっつい!」


 驚いて後ろに飛び退く。

 その拍子に背中が何かにぶつかった。


「ぎゃーっ!」


 そのまま間抜けなことに尻餅をついてしまう。

 雷鳴のような音が聴覚という神経を通り越して頭の中に直接響く。

 何が起きたのか全くわからない。

 目、眼、瞼は閉じているつもりはなかったが、開けようと努力する。

 辺りを見回すと、大体状況がつかめてきた。

 立ち込める湯気の中で段々と部屋の輪郭が見えた。

 そして恐らく私のであろう足も見えた。

 シャワールーム……。

 ああ、そうか、シャワーを浴びていたんだっけ……。

 大きく息を吸って、身体の力が抜けるまで吐き出す。

 シャワーを浴びているときに、ぼーっとしているなんて間抜けにもほどがある。しかも、もしかしたら火傷なんてことも……。


(……一体何をしているんだ私は。)


 立ち上がってシャワーの蛇口を捻ると、私に尻餅をつかせたお湯は止まってくれた。

 寝耳に水、とは良く言ったものだ。耳だけじゃなく身体全体に、それが熱いお湯だったなら、尚更びっくりする。

 などと考えながら戸を開けて、置いてあった服に着替える。

 ぶつけた背中が痛い……痣になってなきゃいいけれど。

 リビングへ向かうと、暗い部屋の中にカーテンの隙間から淡い光が差し込んでいた。

 カーテンを開くと朝の光が部屋の中に満ちた。

 今日も暑くなりそうだ。

 それこそ、朝から熱湯を浴びた私も嫌になるくらいに―――。


 食パンをトースターにセットしながら、冷たいミルクティーを一口飲む。

 パンが焼けるまでソファーに座って、テレビを見始める。

 特に見たい番組があるわけではないが、学生にとっては昼間のテレビ番組というものは、欠席しないかぎり見ることができないので、とても貴重なのだ。


「今日は、結婚してびっくり!夫はマザコンだった!、スペシャルでーす!」


 アナウンサーがさも楽しそうに今日の企画を告げる。

 そんなの早く別れればいいのに……。

 嬉しそうに手元の紙を読み上げているアナウンサーを見て、昨夜のことを思い出した。

 風呂上りに自室に戻った時、デッキの中には9番のビデオがそのままに収まっていた。

 私自身、夢だったのではないかと疑っていたのだが……。ビデオを見つけた途端、安心したような、興奮が蘇ったような、変な気分だった。

 ……現在、23日の午前10時すぎ。

 あのグールが言っていたことが本当なら、日付が変わった瞬間より例の受付が始まるらしい。

 昨夜はあんなに盛り上がっていたものの、いざ考えてみるとすごいことだ。

 何をするのかは詳しくはわからない。けれど、何になるのかはわかる。

 受付をした者はきっと、あのグールのように、殺人鬼になるんだ。

 それが彼らの言う、スターなのだろう。

 ……一般的に言えば、行かないほうが正解に決まっている。

 そもそも、あんな胡散臭いビデオを信用すらしないだろう。

 だとすると、一般人の私も行くべきではないのかもしれない。

 ソファーに深く寄りかかって天井を仰ぐ。

 シャワーを浴びたせいか、身体とは逆に、頭は冷めてしまっていた。

 ―――そうだ。そうだよ。

 大体、そんな話がこの世の中に存在することが、許されるはずがない。

 合法な、殺人なんて、許されるはずがない……。

 考えがうまくまとまらないまま、呆けていると、キッチンでトースターが短い悲鳴をあげた。

 ―――ともかく、出来たてのトーストを食べてしまおう。

 食べ終わったらまた考えればいい。

 キッチンへ向かうと、先ほど大量に作って置いたミルクティーをカップに淹れなおす。

 トーストを一枚取り上げると、皿に乗せ、ソファーに座った。

 姉がいるときは、ちゃんとリビングのテーブルで食べないと死ぬほど怒られるが、今日はそんなこともない。”行儀悪く”、テレビを見ながら頂かせてもらおう。

 お風呂にマザコン夫と一緒に入る義母と、それを隠れて覗く妻の映像を眺めながらトーストにかじりついた。



 朝食という楽しみを簡単に終えた私は、考えを再開しなければならなかった。いや、正確には何をすれば良いのか困っていた。

 何しろ夏休みの計画を全く立てていなかったからだ。

 もちろん映画鑑賞は綿密なスケジュールを立てて行われる。しかしそれは、もちろんというか、夜限定だった。

 一応昼間の鑑賞用に黒い遮光カーテンも買ってあるので、昼間でも恐怖体験はできないことはないが……。


「……暑い。」


 ソファーの上で膝を抱えながら窓の外を見つめて呟く。

 太陽は高々と昇り、さらに光を出して存在を強調している。

 お昼前でこれだ。日中にはもっと暑くなるに違いない。部屋の窓を閉め切っての鑑賞は中々拷問になりそうだ。

 幸いなことに、部屋にはエアコンが完備している。

 が、如何せん私はエアコンというものに、肌に合わないというか、非常に弱かった。すぐに体調を崩してしまうのである。

 と、なると、どうすればいいのか。

 友達を誘って、夜まで涼しい喫茶店へでも洒落込もうか。

 携帯電話に手を伸ばして……すぐに引っ込めた。


「アヤノは……部活だろうな。」


 あれで中々、マネージャーという仕事も大変らしい。夏休みともなれば一日中練習しているはずだ。

 それにしても、バトミントンというのは、こんな暑い日に、閉め切った室内で、どっちつかずな羽を追いかけるのだ。……私には考えられない。

 テレビでは天気予報のお姉さんが、屋外で汗一つかいていない顔で、今日の暑さを何度も解説している。


「――学生さんはそろそろ夏休みが始まっていることでしょうが、お出かけの際には熱中症に気をつけて―――。」


 そう聞くと、改めて自分の状況が思い知らされる。お出かけはしないので熱中症になることはないだろう。

 そう。今の私には"そうなることも"できないのだ。

 せっかくの夏休みに、とにかく私は空っぽだ。


(こうなったら本当に映画を見るしか……。)


 ソファーに倒れこむ。

 ああ、それにしても困った。

 それ以外何もない私。私は困り果てていた。



「あー!もう何で二階に逃げるかなぁ!?」


 ヘッドホンをしながら、つい興奮して叫ぶ。

 画面の中では、黒髪の女性が、自宅にて殺人鬼に追われていた。

 一階のキッチンで恋人が殺されたのだ。その光景を見てしまった彼女は、なぜか、近い玄関には行かず、わざわざ階段を駆け上がっていき……


「あぁ、ほら捕まった……。」


 お約束だ。何年前の作品に憤りを感じても、登場人物はもちろん誰も聞いてはくれない。

 特徴的なマスクを被った殺人鬼のナイフが彼女の胸に突き刺さる。

 断末魔の途中で停止ボタンを押すと、女性の目が画面いっぱいに押し出された。

 ビデオを取り出すと、元のコレクションボックスへ戻す。

 結局、私は映画鑑賞の綿密なスケジュールを、エアコンに耐えながら早々に潰すことになった。

 名作はいつ見ても、色褪せることはない。

 私のコレクションはいつ見ても完璧だった。


(けれど……どこか……。)


 声に出すと、本当にそのとおりになってきそうで、言いたくはない。

 言いたくはないが……。


「……物足りない、かも。」


 言ってしまうと、自分のスケジュールが酷く陳腐なものに見えてきた。

 十本近くの映画を見ておいて、今さらな気はするが。

 どうしてだろう。今まではこんなことはなかったのに。

 背中のベッドに寄り掛かる。

 夏休みの一日目だというのに……その思いが頭を駆け巡る。

 始まる前にはあれだけ映画のスケジュールを立てていたというのに、始まってみればこの有り様だ。

 ふと、コレクションボックスの外に投げ出されている、ビデオテープが目に入った。

 No.9のテープだ。

 そうしてぼーっとしているうちに、自然と身体が動きだし、ビデオデッキにテープを押し込んでいた。

 再生ボタンを押す。予め、巻き戻しをしておいてよかった。こういうとき、自分の几帳面さは有り難い。

 画面には、昨晩と同じような映像が映し出された。


 ……叫ぶブロンドの女性。

 追いかけるグール。

 そして、とうとう捕まり、食される。

 撮影者との会話が始まる。


「[―――私たちは、新しいスターを望んでいます。私たちは―――。]」


 イベントの告知。

 昨晩と同じ言葉、映像、光景。

 そして、昨晩と同じ、高揚があった。

 改めて見ても変わらない。

 これは、名作だから、という理由だけだろうか。

 グールは最終的に、謎の脅迫をすると、映像は途切れた。

 この経験は二度目だ。

 自分の心の中で葛藤が始まる。

 世間の私は、行くな、と言っている。狂人の行いだ、と。

 しかし、その私は、薄い薄い仮面を被っている。

 その仮面を叩き割ると、本性がすぐさま見える。

 これは、チャンスなのだ―――と。


(狂ってる。)


 頭がおかしくなりそうだ。

 でも、でも、そのおかしな頭では、もうそれしか考えられなくなっている。

 今まで、好き勝手に生きてきた。

 嫌なことはせずに、好きな道を選んできた。後悔なんてなかった。

 しかしそれは、常識と社会という器の中で、だ。器の外へは行ってはいけない、器を壊してはならない、と思いつつも、ビデオを通して透けては見える外の世界が気になって仕方がなかった。

 だからこそ、外の世界に似た部屋に自分を押し込めた。目は画面に釘づけにして、ヘッドホンで耳を塞ぐ。ここだけが、この時間だけが、私が、私になれる世界だった。今まではそれだけで良かった。

 けれど、このビデオを見た時から、何かが変わった。自分の空間だけでは抑えきれない衝動が、器にひびを入れていた。

 私にとって、この動物のような衝動を外に出すことは罪だ。その罪を背負う覚悟が私にはあるのだろうか。

 自問自答を繰り返す。

 しかし、その衝動は抑え込めば抑え込むほど、ゴム風船のように跳ね返り、後悔を吸収して膨らんでいく。

 いつだって、これからだって後悔なんてしたくない。こんなことで、悔いを残すことだけは、絶対に嫌だった。

 それが、如何に許されないことだとしても……。

 身体が小刻みに震える。

 呼吸が荒くなる。


(―――やってやる。)


 やっと見つけたんだ。抱いてきた違和感を取り除く術を。

 部屋の壁掛け時計に目を向ける。

 時刻は22時過ぎだ。

 集合場所はマガタホテル。

 昼間、パソコンで調べたのだが、奇しくも、そこは電車で行けば一時間ほどの場所だった。

 まだ電車は十分にある。


(―――やってやる。)


 ドアにかけてある、カレンダーの前に立つ。

 そのカレンダーには、夏休みの終わりまで隙間なく映画のタイトルが書いてある。綿密なスケジュールである。

 勉強机から、赤いマジックペンを取り出すと、キャップを外す。

 そして、カレンダーの予定欄に一本の線を引いていく。残さずに、最後まで。

 ……これで、全ての予定は赤い線により消失した。7月24日から、9月3日まで。


「夏休みどころじゃないかな。」


 これはきっと、普通の夏休みでは味わえない感覚だ。それを食すことにもう迷いはない。

 そうだ。もう迷えない。


「一ヶ月ちょっとの殺人鬼、ね……。」


 壮大なストーリーと奇抜な登場人物と深淵のような音楽。私だけの映画の始まりだ。

 私の頭の中では、この作品にぴったりの、いくつもの映画のタイトル候補が挙げられていた。


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