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白い世界。

目の前には本棚。

ノートが隙間なく詰め込まれた本棚。

自然と、腰の高さにあるノートを取り出していた。

これといって何も特徴のない、大学ノート。

表紙を捲る。

そこには、行という行が子供の字で埋め尽くされていた。

どうやら日記のようだ。

何のとりとめのない言葉で、一日も欠かさずに書き綴られている。

今日の朝ご飯、何をして遊んだか、誰と何について話したか。

事細かに、まるでその情景がすぐに浮かぶように。

一段高い場所からノートを取り出す。

少し成長したのか、字もきれいで、文章もまとまってきた。

内容はよくわからない。

けれど、どこか懐かしくて……少し寂しい。

手を伸ばして、さらに高い場所のノートを取り出す。

さっきまでと同じようにノートを捲り……手を止めた。

そこには、何も書かれていなかった。

この世界と同じように。

心臓を掴まれているように、胸が苦しくなる。

次のノートを取り出す。

捲る。

白紙。

機械のように、同じ動作を繰り返す。

何故だろう。

呼吸が止まりそうだ。

続きがないことが、こんなにも辛く、怖い。

忘れてしまった。

ああ、駄目だ。

思い出せ。

忘れてはいけないんだ。

ここでは、忘却は罪。

ノートは私なんだ。

忘れてはいけないんだ。

忘れては―――。


◆◇◆◇◆


ゆっくりと目を開く。

白い光が開いた目に差し込んで痛いほどに眩しい。

重い右手を動かして、顔を覆う。


「九畝さん?九畝さん?」


間延びした誰かの声がする。

それが自分の名前だと気付くのに、少し時間がかかる。


「あ、まだ動かずにそのままでいてくださいね~。今、先生を呼んできますからね~。」


パタパタと音がして、誰かが遠ざかっていく。

言われなくても、そのつもりだった。

深呼吸をひとつする。

どうやら、ベッドの上にいるようだ。

身体全体が蜂蜜をかけられたように重く粘りついて、だるい。

このままもう一度眠ってしまいたいくらいだ。

目が慣れてきたようなので、少しだけ瞼を開ける。

ぼやけているが、きれいに正方形に区切られた天井が見える。

頭を動かすと、大きな窓から見える青空と風に揺れたカーテンが見えた。

何を考えるまでもなく、ぼんやりと見ていると、誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。


「九畝さん、はい、ちょっとこちらを向いてくださいね。」


頭を元の位置に戻されて強烈な光を当てられた。

痛いくらいに眩しい。


「はい、もう大丈夫みたいですね。」


きっちりと固めたられた白髪混じりの男が目の前にいた。

白衣を着て眼鏡をしている。

先生……医者か?

先生と呼ばれた男は、看護婦に何かを話しかけている。


「……ここは?」


「病院ですよ、九畝さん。」


「病院……。」


なんで病院なんかに?

……ああ、頭が回らない。

何があったんだっけ……?

マコマ、どこにいるんだ……?

忘れてしまっ―――。

―――仮面の男!


「マコマっ!!」


自然と体を起こしていた。

目の前の男に掴みかかる。


「マコマはどこだ!?」


「く、苦し……。」


先生は苦しそうに呻き声をあげるだけで、何も答えてくれない。


「九畝さん!落ち着いてください!」


呆気にとられていた看護婦が、思い出したように腕に飛びついてきた。

構うもんか。

さらに腕に力を込める。

早く言え。言ってくれ。

殴りつけて口を割らせてやろうか……!


「九畝くん!やめるんだ!」


そのとき、ドアが開く音が聞こえた。

聞き覚えのある声に、咄嗟にそちらに目を向ける。

3人の制服警官と、一人の、中年の男がいた。


「九畝くん、その手を放すんだ。」


いつもと同じ、皺だらけの茶色がかったスーツ。

煙草でしゃがれた声は今後も直りそうにない。

ハンチングでも被ったら、一昔前の刑事ドラマにでも出演していそうな風貌と物腰。


「磯辺、さん……。」


そう言った途端、自然に、力が抜けていた。


「ああ、ああ、九畝くん、久しぶりだ。」


医者はネクタイや服装を直し、看護婦も胸に手を当てて深呼吸をしている。

それを見て、初めて自分が何をしていたかに気付いた。

医者と看護婦に謝ると、磯辺さんの顔を見ることができなかった。


「恥ずかしいところを見せてしまいましたね……。」


「はは。でも、元気そうで安心したよ。本当にね。」


そう言って顔の皺を寄せて笑ってくれた。

恥ずかしいような、嬉しくなるような気持ち。

まるで子供が父親に叱られているようだ。



磯辺さんとの出会いは、私が今の仕事を始めたばかりのことだ。

私はそのころ、とある探偵事務所のバイトとして働いており、資料の整理などの雑務をこなす日々を過ごしていた。

そのころ、4人組の銀行強盗による事件が世間を賑わせていた。

大胆にも昼間に行われた犯行は、目撃者も多く、すぐに解決すると思われていたのだが、問題はここからだった。

4人組のうちの3人と見られる、男2人と女1人の容疑者がそれぞれのマンションやアパートの自宅にて、殺害されていたのだ。

単なる金を巡っての仲間割れと思われていたが、それよりも警察を困らせたのは、玄関や窓には内側から鍵がかかっているという、いわゆる密室殺人だったことだ。

そして、不思議なことにその鍵は、それぞれの自宅に3人とも別々に置かれていたのだ。

殺人と強盗の容疑者は残った一人に絞られたものの、当然犯人たちの死亡により足取りを掴むことは困難になった。

この不可解で不可思議な事件に心動かされた私は、興味本位から個人的にこの事件を調べていた。幸い、その事務所には数々の事件の資料が山ほどあったので、情報収集に困ることはなかった。

そして調査を進め……ついに真犯人を突き止めた私は、これまた興味本位で(今考えると無謀だが)単身で真犯人の自宅を訪れようとしていた。

こんな犯行を考えた犯人の顔を一目見てやりたいと思ったのだ。

そして、真犯人の自宅前で警察に声をかけられた。ちょうどその時間に、目星をつけていた警察も張り込んでいたのだ。

運悪く、警察は私が持っている資料から、犯人の仲間だと勘違いしてしまった。必死に弁明するも信じてもらえるはずもなく、私は取り調べを受けることになった。

そこで仕方なく私は自分の推理を、密室殺人の謎、真犯人の本当の犯行動機を全て話した。

これには警察も驚いたらしい。

しかし、行き過ぎた調査が逆効果になり、一般には報道されていない情報も知っていることから、新たな関係者と勘違いされてしまった。

考えてみれば、当然の話だ。

そんな四面楚歌の状況の中、唯一、信用してくれたのが磯辺さんだった。

磯辺さんは、探偵事務所に何度か出入りしていたので、あまり話したことはないものの初対面ではなかった。

当初は、その関係から哀れな若者を救ってくれたのかと思っていたのだが、後から聞いた話によると、どうやら磯辺さんも私と全くと言っていいほどの同じ推理をしていたらしい。

私の情報と警察の情報を合わせて、確証を掴んだ磯辺さんは、真犯人を逮捕し、とうとう事件は解決した。

私はそれからすぐに、どういうわけか事務所をクビになり、途方に暮れていた。そんな私に独立を薦めてくれたのが磯辺さんだった。

あまり気乗りはしなかったものの、結局はこうして私は自分の事務所を持つことになった。

その後も磯辺さんの付き添いとして何度か事件を解決していくうちに、一般の依頼よりも警察関係者の依頼が増えていった。

このおかげで私も興味のある事件は特別待遇として調査をすることができ、警察も事件を早急に解決できる、という利害が一致したのだ。

この警察との妙な関係は現在も続いており、磯辺さんとも親交を深めることになった。



「連絡を聞いたときは驚いた。まさか、君が病院に運ばれたなんて……。」


腰が痛くなりそうな簡素な丸椅子をベッドの近くに寄せると、座りながら磯辺さんは言った。


「恨みを買うようなことは何度もしてきました。本当はいつ襲われてもおかしくなかったんですよ。」


そんな筋合いはないことは確かだが。

磯辺さんは両手を膝の上で組むと、何度も頷いた。

それから、これから仕事だと割り切るように声を低くして言った。


「……一体あの晩に何があった?」


私は昨晩あった出来事をかいつまんで話した。


「仮面をつけた男……?」


「恐らく、今私たちが調査している事件の関係者だと思います。」


「人肉を食べたって奴か?」


磯辺さんは目を見開いて言った。

磯辺さんは確か別の事件を担当していたはずだが、やはりこの事件のことは耳に入っているみたいだ。


「ノートも何冊か盗まれました。私たちを襲ったのと、ノートを盗んだ人物……同一人物ではありまでんでした。もしかしたらもっと複数かもしれません。詳しくは、後で話します。」


それよりも、まずは聞いておきたいことがある。

さっきから嫌な予感がする。


「……磯辺さん、マコマはどこですか?ここに運ばれているんでしょう?」


すると、磯辺さんの表情が暗くなった。

不安が身体を包みこんで吐き気がする。


「お願いです。磯辺さん。」


自然に握っていた手に力が入る。


「……マコマくんは、無事だ。君と一緒にこの病院に運ばれて、一命は取り留めた。」


―――良かった。

それだけで、良かった。

それ以上はいらないのに。


「いいかい?九畝くん、落ち着いて聞いてほしい。」


どうして、不安が消えてくれない。


「彼女の、意識が戻らないんだ……。」


意識不明。


「詳しくは先生のほうから説明を―――」


訳がわからなかった。

その言葉の意味も。

目の前の現実も。


「手術は成功しました。しかし、原因がわからないのです。手の限りは―――」


医者が何かを喋っていた。

どこからか響いてくるその声は、とても遠く、意味を認識することができない。

それは駅の地下鉄のように、何度も反響し、ゆっくりと近づいてくるものの、重く低く、とても暗い。

身体は切り裂かれ。

意識は駅へ。

思考は深淵の奥へ。

視界は灰色に照らされる。


(―――マコマ。)


呼びかけてみる。

どこにも彼女はいなかった。


◆◇◆◇◆


白く清廉な部屋には、やがて赤い夕陽が落ちてきていた。

夏だというのに、エアコンが効いているおかげで、あまり暑さは感じない。

ひぐらしだけが季節を知っているように、夏を告げていた。


「―――マコマ。」


何度目かの呼びかけを試みる。

返事はなく、静寂のままの時間が続いていた。望んでいたはずの、静かな、2人の時間。

彼女が起きているときには、そんなのは、ほぼなかった。いつでも楽しく喋っていて、私はそれを聞いているだけで……。


(すまない。私は……守れなかった。)


(あのとき、お前を一人にするんじゃなかった。)


(夕方に電話があったとき、気付いていればよかったんだ。)


(それなのに……。)


声が出ない。

私から話しかけることは、こんな時にしかないのに、吐き出すのは謝罪と後悔だらけだ。

頼むから、もう一度。もう一度、喋ってほしい。

今度はマコマの好きな喫茶店でいいから。

もう、無理な注文もしないから。

もう一度、戻ってきてくれるだけで……。


「ねえ、マコマ。」


いつもよりも、優しく。

ゆっくりと声をかけてみる。


「私は、あのとき、どうすればよかったかな……?」


返事はない。

どうすればよかった?今はどうすればいい?

……マコマ。

そのとき、ドアをノックする音が響いた。


「失礼するよ。」


ドアに視線を送ると、見たことのない若い男が入ってくるところだった。

男は、私とマコマを一瞥すると、入ってきたドアから二人の男を招き入れた。

知らない顔ばかりで、みんな小奇麗なスーツを着ている。

初めに入ってきた男、一番若く見える男が口を開いた。


「初めまして。ええっと、君が……きゅう?く……?」


若い男はいきなり口を詰まらせた。

けれど、誰とも会うつもりも話すつもりもなかった。

そう考えているうちに、後ろの男が何かを耳打ちする。

その後、咳払いを一つ入れてから仕切りなおした。


「初めまして、『九畝』くん。下の名前は『アキラ』で、いいのかな?」


よくあることなので、何も言わずに頷きだけで返す。整髪料を使っていないような髪は、清潔感に溢れていて、温和な笑顔が似合う。そのせいか、スーツ姿は少しも固い印象を感じさせない。


「今回は大変なことになってしまったようで、お察しします。」


月並みな言葉で始められても嬉しいわけがない。早く用件を言ってくれた方が幾分か楽だった。


「そちらのお嬢さんは―――」


「誰ですかあなたは?」


話が進みそうにないので、自分から始めることにする。


「あ、申し遅れました。科捜研の彫宮です。犯罪心理分析官をしています。」


科捜研……犯罪心理分析官……?どこかで聞いたような役職だ。確か、磯辺さんの後輩が……。


「あぁ、確か、マルサイ……。」


マルサイ、と言った途端、明らかに彫宮の顔が引きつるのがわかった。

どうやらマルサイというのはあまり良くない呼び方みたいだ。


「おい。」


ドスが効いた声と共に彫宮の前に一人の大男が立った。護衛みたいだが、物凄い形相で睨んでいるが、制裁でも加えるつもりなのだろうか。

睨み返してやろうかと思った矢先、彫宮が大男を手で制した。


「いやぁ、失礼。久しぶりにそう言われたものですから、びっくりしてしまいました。」


嘘つけ。

人懐こい笑顔を見せてはいるが、さっきの態度は明らかに嫌悪感からくるものだった。役職が高くなればなるほど、形式にはこだわるものなのかもしれない。


「……こちらこそ、世間知らずなもので。申し訳ない。」


「世間知らず?」


彫宮は目を大きく見開いたあと、急に笑い出した。


「いやいや、世間知らずとはね……。あなたの噂は本庁でも有名なんですよ。話を聞いて、僕も是非一度会っておきたかったのです。それが、こんなにも……若い人だったとは……。」


何か含みのある言い方が気になるが、まあいい。

それよりも早く用件を済ましてほしかった。


「用件はそれだけですか?」


「ええ、まあ、一応そうなんですが。僕も仕事上、これからあなたに色々と協力してもらわなければなりませんから、その挨拶ということで。」


「それは承知してます。後で署に向かいますから、今は……。」


マコマに視線を落とす。

今は……どうすればいいんだ?


「……それもそうですね。それでは、また。」


そう言うと、踵を返して、ドアに向かっていく。

本当に、用件はそれだけだったのだろうか、と思った矢先、


「ああ、そうだ。」


顔を上げると、彫宮がまたこちらを向いていた。


「九畝さん、犯人の目的は何だったと思います?どうしてあなたは襲われたのでしょうか?」


鼓動が一瞬だけ大きくなる。二つの質問の答えは、私には大体わかっていた。私のノートだ。


「恐らく、私の調査していた資料が目的だったのだと思います。現場から無くなっている資料を調べれば見当はつくと思いますが……。」


あえて、ノートとは言わなかった。何故だかわからないが、言えなかった。

彫宮は少しだけ黙ってから、


「……そうですか。わかりました。」


そう言うと、今度こそ、ドアが閉まった。


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