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"九畝 明のノート"


食欲。私はそれを重点に置いて、捜査を進めることにした。

と言ってもまだわからないことだらけなのは何も変わりはない。

まだ動機(仮定だが)が、わかっただけに過ぎない。


鎌田 世津子のアパートに向かったところ、多少だが直接的に彼氏の話を聞くことができた。(午後から警察署にて事情聴取とのこと。証言としては、前ページのそれと相違ない。)


第一印象は麻駒曰く、不良大学生。(外見が金髪に鼻ピアスだったため。私も同感だ。)

当然だが、酷く衰弱しており、歩くのもやっと、という状態だった。外見よりは内面は繊細みたいだ。

彼が犯人という可能性は無きにしも非ず、と言ったところか。演技と言ってしまえば、それまでのことだ。


最近のカップルにありがちなことだが、飲酒、喫煙は当たり前だったらしい。鎌田 世津子は未成年だが、今更それを咎めるつもりはない。

住まいと風体から察するに不衛生、不摂生。

その点においては、やはり彼女は犯人の口には合わなかったのではないか。


現場近辺に潜んでいる可能性もあるとみて、コンビニからアパートまで実際に歩いてみたが、特に目新しい発見はなく、至って変わりない無関心な人々が住んでいるだけだった。(コンビニでは防犯カメラを調べさせてもらった。確かに鎌田 世津子は4時14分に入店していた。そして10分後には店を出ている。)

そもそも、そんな人間が大人しく一般人の生活をしているのだろうか。

計画的な犯行とは思えない。

突発的、はたまた衝動的と言ったほうが正しいか。


問題なのは犯人の行動パターンが全く読めないことだ。

人間像が浮かばない……と言えば今までもそうだったかもしれないが、とにかく情報が少なすぎる。

意外な人物が犯人、という意外性も感じられない。


そして、極めつけは一人が犠牲になったくらいで収まったとは思えない事件だということだ。

だとしたら次に狙われるのは


◆◇◆◇◆


……柄にもなく、そこで煙草に火をつけてしまった。

暑さのせいか、事件のせいか身体が重い。

空はもう青から赤に変わってしまった。


このまま進展もなさそうだし、気分転換がてら、市街から少し離れたコーヒーショップに私たちはいた。いつ潰れてもおかしくないような雰囲気が、私はとても気に入った。マコマは私の、人目を気にせずに落ち着きたい、という願望をやっとわかってくれたようだ。


煙を吐き出しながら周囲を見回す。


今時流行るのかわからないロッジを模したような店造り。そして店内には昔馴染みの馬鹿でかいエアコンが完備しているが、不本意なことに禁煙だった。おかげで店の奥の外のテラスで一服することになってしまったが、目の前には小さな湖畔があり、静けさといい景色といい雰囲気は最高だ。


「九畝さん、終わったんですか?」


振り返ると、マコマが洒落たプラスチック製のコップと専用のタンブラーを持って立っていた。

こんなマイナーな店のタンブラーを常備してるなんて、さすが、というか抜け目ない女だ。


「いや。途中まで書いたけど、さすがに疲れた。」


「あら珍しい。終わるまで煙草は吸わない主義なのに。」


ご名答。よくわかってらっしゃる。途中で煙草を吸うのはどうも釈然としないが仕方ない。

煙を吐いている私の隣で、マコマが途中のノートを覗いた。


「お、さっきの彼氏のことも書かれてますね。」


「ドアを開けたときの彼が忘れられなくて。」


「あぁ、た、確かに。」


マコマは思い出して苦笑した。


「下着姿ですもんね……びっくりしましたよ。」


私もさっきの情景を思い出していた。

ドアを開けた瞬間、マコマという女性が目に入ったのか、恥ずかしがっていたのが、不謹慎だが可笑しかったのだ。そしてそのときマコマも顔を赤らめており、私を挟んで、2人の人物が互いに赤面しているという、よくわからない構図ができていた。


マコマから、コップを受け取る。

透明なコップには、一見してカフェオレのような液体が入っているが、上には白いクリームがたっぷりと浮かんでいる。


「ん?何を注文したの、これ?カフェオレ?」


「もっちろん!この店に来たら決まってるじゃないですか!それは私のイチオシの"アイスキャラメルソイラテ"ですよ!」


「………なにそれ。」


「だ、だって九畝さんが"冷たくてクセになりそうなもの"なんて難しいの私に頼むからですよ!美味しいんですからねそれ!」


「わかったよ、確かにそう頼んだのは私だしな……ちなみに、マコマは何を持ってきたの?」


「よくぞ聞いてくれました!私のは、"プレミアム水出しコーヒー"です!これがもう本格的で…紙コップやプラスチックなコップで味わうなんてのは恐れ多くてもう……え、なんですか?え?え?―――――」




――タンブラーでコーヒーを飲むというのも悪くはない。こういう普段と違ったちょっとした高級感は、それだけで日常を豊かにしてくれるものだ。


「気に入ったよマコマ。これ美味しいね。」


向かいに座っているマコマに満面の笑みで感想を述べる。


「あははーそうでしょう!私のとっておきですからね!こっちのイチオシも美味しいんですけどね!なんか納得できないんですけどね!!」


良かった、マコマも涙を流して喜んでいる。交換して大正解だ。

……けれど、後でシュークリームでも買ってやろう―――――。




静かな時間を揺らすように、涼やかな風が私たちの間を通り抜けた。

心地よい風は、ほんの一瞬だが時間と仕事を忘れさせてくれる力を持っている。特に、こんな日にはうれしいものだ。

店内では若い女性店員が欠伸をしながら編み物の雑誌をつまらなそうにペラペラとめくっている。

気付いたら短くなっていた煙草を銀色の灰皿に揉み消し、また新たな煙草を取り出した。


「本当に、」


マコマが湖畔から目を離さずに口を開いた。


「こんな静かな街で…都心からはちょっと外れてますけど……本当に、いるんでしょうか。」


いる、とは犯人のことか。

さっきまで明るく振る舞っていたつもりのマコマも、さすがに今日は疲れてしまったのか、口調がたどたどしい。

口から吐き出した煙は、空の雲を象ることなく消えていく。


「静かでもやかましくても、罪人の環境にとっては意味がないよ。特に今回の犯人は、やりたいようにやってるだけのように思える。」


「……急に、おかしくなってしまったんでしょうか。」


「そうだな。これだけ印象が強いものなら、過去に類似した事件があったか確かめてみる必要もあるだろう。幸い、ここ数年の殺人事件に関してはノートに記録してある。」


「おお、"九畝ノート"の出番ですね。」


こちらを向いたマコマの表情が少しだけ、緩んだ。

人懐っこい柔らかな笑顔だった。


「そういうこと。」


私にもそんな顔ができていたらいいが、と思いながら微笑みを返す。


「とりあえず今日はホテルに戻ろう。聞き込みよりも成果が出そうだ。エアコンもきいていることだし。」


少なくなったコーヒーを飲み干す。

水出しコーヒー、覚えておこう。


「わ、わ、もう行っちゃいます?」


私が席を立つと、急にマコマが慌てだした。


「そのつもりだけど、どうかした?」


「や~、実は、他にもオススメがあるんですけど……。」


首を少し傾けるようにして店内を見たマコマの目線には、ショーケースにきれいに飾られたデザートたちがあった。


「なるほどね。」


「ここへ来たら、まず1杯目は景色を味わいながら。2杯目はケーキを味わいながらって決めてるんですよ。」


恥ずかしがりながら、マコマが語った。

全く理解できないが、この店にはこいつなりの楽しみ方のルールがあるらしい。コーヒーも交換してもらったし、ここは好きにさせてあげよう。


「いいよ、買ってきても。ついでに私のもお願いしようかな。」


「おお!わかってくれましたか!何にしましょう!?ちなみに私のオススメとしては右から2番目の……」


「いや、」


もう一度、席に座りなおして煙草に火をつけた。


「そうだな……。"煙草に合うデザート"を頼むよ。」


「う……また難題を…。」


マコマは渋い顔をして店内に入って行った。


それを見送った後、手元のノートを開く。

最後の文章は[だとしたら次に狙われるのは]で止まっていた。

さて、次に書こうとしたのは何だったか………。

灰皿に灰を落としながら思い出す。

次の……犠牲者……。


「九畝さん!!」


大きな物音と共にいきなり戻ってきたマコマに驚く。


「今、で、電話が……」


電話?誰からだ?用件は?

私が聞き返す前にマコマは口を開いた。


「その事件から、手を引けって……。」


「なんだって……。」


「邪魔をするな、とも言ってました……。」


どういうことだ?

(邪魔をするな?)

いや、それよりマコマの情報が少なすぎて、状況が把握できない。


「誰からかかってきた?電話番号は?」


「わかりません。」


マコマは怯えた様子で2つの質問に同時に答えて、自分の携帯電話の画面を見せた。


「公衆電話からでした。なんだろうと思っていたのですが、一応出てみたら……。」


マコマには仕事用の携帯電話を渡してある。依頼や情報提供等はそちらにかかってくるのだが、今の電話はマコマ自身の携帯電話にかかってきていた。


「ごめんなさい、私、なんだかすごく怖くて……。」


気が動転しているのか、マコマは私に謝っている。


「いや、お前は悪くない。そいつ、どんな声だった?聞き覚えはある?」


「それが、すごく変な声で、男、だったと思いますが。聞きなれない感じの……。」


…だろうな。


「わかった。とりあえず、ホテルに戻って落ち着いてから考えよう。それまでこの件は保留にする。いいな?」


「……。」


返事はなかった。

席を立って、俯いて立ち尽くしているマコマの肩に手を置いた。


「マコマ、大丈夫だよ。」


できるだけ、優しく言った。


「運転できるな?」


「……はい。任しといてください。」


そう言って、力無く笑ってくれた。


◆◇◆◇◆


久しぶりに腕時計を見ると、もう1日が終わろうとしていた。

こちらがゆっくりしていても、時間は永遠にゆっくりとはしないのだ。


線路近くの8階建ての雑居ビル。

その7階に私の探偵事務所がある。

あまり大きくはないが、それなりの仕事はある。主に警察からだが。

別に殺人事件だけを取り扱ってるわけではないが、好奇心から手伝いを続けていたらいつの間にか、そんな依頼しか受け付けていなかった。


マコマはビルの隣の専用駐車場に車を入れた。

運転に集中したせいか、先ほどよりも顔色は良くなっている。


「とりあえず、私はホテルに戻るよ。ノートを先に整理したい。」


「オッケーです。それじゃあ私は事務所で資料取ってから行きますから。」


私はマコマに事務所の鍵を渡して車を降りた。

ホテルは線路を挟んだビルの向かいにある。

事務所で仕事が進まないときには気分転換として、よく利用しているビジネスホテルである。

この辺りは大通りから外れていることもあり、人通りが少ない。夜ともなれば、無意味に広い高架下の駐車場で髪を染めた少年たちが集団で騒いでいるだけだ。

高架下を過ぎると、あまり綺麗とは言えないホテルに着いた。看板のネオンからはセンスというものが一切感じられない。手動のガラス扉を開けて、愛想のないフロントから鍵を受け取った。

灰色のエレベーターに乗って、7のボタンを押す。部屋は事務所と同じ7階に取ってある。

エレベーターはガラス張りで、街を一望できる造りになっている。いつも思うのが、このホテルには本当に必要なのだろうか。絶対に金を使うところを間違えている。

7階に着くと、安っぽい赤茶色の絨毯が続く通路が見えた。静かだった。多分、雰囲気から言って利用者も少ないだろう。そこが気に入ってるのだが。宿泊先と仕事場は人気が少ないに限る。

それにしても、マコマは大丈夫だろうか、と考えながら歩く。

彼女はそこらの一般人よりは、肝が据わっていると言えるだろう。事実、だからこそ、私の助手として今までつけてきた。

その彼女が、どうしてあんなに怯えていたのか。この事件が普通じゃないことは確かだ。その影響だろうか……。まあ、あんな電話がかかってくれば、私でもまともじゃいられないかもしれない。


答えが出ないまま、704号室の前まで来てしまった。仕方ないので、鍵を開けて電気を点けた。こんなホテルでも部屋はしっかりとしている。特に横に広がった大きな窓の景色は最高だ。ツインルームということもあって、ビジネスホテルに有りがちな窮屈さは感じられない。


部屋に入るなり、少しだけネクタイを緩めて煙草に火をつけた。

汗をかいたので着替えたかったが、後にすることにした。

窓辺近くのテーブルに腰をかけて、昨日(一応)整理したノートの山から、灰皿を見つけて引き寄せる。この部屋は面白いことに、見下ろすと私の事務所が少しだけ見える形になっている。同じ7階でも景色は意外と変わるものだ。

「私たちの仕事風景を見られたくないじゃないですか!」というマコマの意味不明の発言によってこの部屋を使うようになったのが、そもそもの始まりだ。本当にほんの気分転換のつもりだったのだが、今では私のほうがすっかり気に入ってしまっていた。


当然だが、事務所の明かりは点いていた。マコマが資料を集めているのだろう。

などと考えていたら、マコマがひょっこりと小動物のように姿を現した。脇にたくさんのファイルを抱えてこちらに手を振っている。

よくわからないが、手を振り返す気にはなれなかった。とりあえずその光景を見ながら煙を吐き出す。私なりのサインのつもりだった。

すると、突然、携帯電話が振動した。画面を見るとマコマからだった。


「あれ?見えませんでした?おかしいな。」


「いや、見えたよ。」


「もう!だったら何か合図くださいよー。」


そんなことでいちいち電話してこないでほしい。


「それで?用件はそれだけじゃないよな?」


多少突き詰めるような声で聞き返す。


「あ、すいません、つい……。あのですね、そちらに2年前のファイルあります?」


「ああ……ノートだけなら確か、私が持ってきたはずだけど。」


電話をしながら煙草を置いて、テーブルのノートの山を漁る。

私は自筆のノートを使っているが、マコマは丁寧にまとめられた書類を使う。そのため、私たちは2つの資料を用いていた。

そして、今ここにあるのは私のノートだけだ。

その中から紫色のノートを見つけた。表紙には[20××~]とだけ書かれている。


「あった。あったよ。」


「ノートだけですか?」


「そうだな……こっちにはそれだけしか……」


と、言いかけて、ノートの間から紙が落ちた。

メモ帳くらいの大きさの紙はひらひらと舞って、やがて足元で止まった。

なんだろう、と思って紙を拾い上げる。

その紙には、赤い文字で、




     九畝 明 様へ



     call to love



     電話してる場合か?





と、だけ書かれていた。


―――背筋が凍りついた。


どういうことだ……これは何だ……。


当然、私が書いたものではない。

誰かが、この部屋で……。


咄嗟にドアのほうへ振り向く。

部屋は耳が痛いほどの静寂に包まれていた。

何もないところから、何かがでてきそうな雰囲気だった。

抑えきれない不安から、急いで席を立って、クローゼット、トイレ、バスルームを確認する。

だが、何も異常はない。


鍵は閉まっていた。

どうやって侵入した?

このホテルのセキュリティには期待してないが、入ることは容易ではないはずだ。

そもそも、何故私がここにいることを知っている……!?


「九畝さん?どうしました?」


マコマの声に驚く。

そこでまだ携帯電話を持っていることに気付いた。


「マコマ!気をつけろ!」


急いで部屋の窓際に向かいながら、叫んだ。


「え?え?え?」


「こっちに誰かが入った形跡があるんだ!そっちは!?」


窓から見えるマコマは慌てて周囲を確認している。


「ちょ、本当ですか!?一体誰が…いや、そ、そんなことより大丈夫ですか!?怪我とか……」


「私のことはいい!!だから……」


私の心配をしているマコマにいらついているのが、わかった。

(私が取り乱してどうする。)

ため息をひとつついて、まずは自分を落ち着かせる。

鼓動が耳元まで迫ってきている。私自身のものだが、嫌な音だ。止めてしまいたいくらいだ。

いや、そうだ、まずは落ち着け。

震える手で、灰皿の煙草を口元に持っていく。

音は鳴りやまなかったが、平常心は取り戻しつつあった。


「……とりあえず、そっちには何も異常ないな?」


「あ、はい。今、周りを見てきましたが、だ、大丈夫みたいです。誰もいませんでした……。」


マコマは姿勢を正して電話をしている。


「そうか。それじゃあ次は、すぐにこっちに来るんだ。」


「……。」


マコマに視線を送ると、目が合った。


「資料は後回しだ。私もそっちに向かうから、電話はそのままにしといて。いいね?」


「は、はい……わわ、わぁっ。」


何かが床に打ちつけられる音が聞こえ、続いてマコマの短い叫び、その後に愚痴る声が聞こえてきた。

どうやら手元のファイルを落としてしまったらしい。

声だけ聞いてたらびっくりしているところだが、今はこの目で姿が見えていることが何よりも安心できる。


「わかってると思うが、落ち着いてくれ。」


そう言いつつ、煙草を強く灰皿に押しつけて、また新しい煙草を取り出した。

私も言えた立場じゃない。

上手く、火がつけられない。

舌打ちをして、ホテルのマッチを探す。確か、ベッドの横の机の引き出しにしまったはず……。

マッチを見つけると、電話をテーブルに置いて火をつける。

既に何も美味くない煙を吐き出すと、マコマの様子を見下ろす。

未だに散らばったファイルを膝をついて集めているマコマの頭と……その後ろに、人影が見えた。


「マコマっ!!」


窓に向かって叫ぶ。マコマは……電話を持っているが気づいていない。

(馬鹿っ!私の電話はテーブルに置いたままだ!)

自分の間抜けさにイライラしながら電話を拾う。

ガラスが割れてしまうのでは、と思うほど窓に張りつく。

その人影はもう既に彼女のすぐ後方にいた。

舞台役者のように大手を広げながら、右手にはぎらつくナイフを持って、更に距離を詰めていく。

そいつは、全身黒のスーツにネクタイ、手袋、シルクハット、そして白い仮面をしていた。


「マコマっ!後ろだっ!!」


先ほどよりも大きく声を挙げた。

彼女は、飛び上がるように立って、そして、振り向いた。

その瞬間、男は広げていた右腕を、マコマへと、突き出した。


◆◇◆◇◆


信じられなかった。

その光景に、私は立ち尽くしているだけだった。

口の中が渇ききっていて、声帯は千切れてしまったのか、声を出すことさえできない。

それは、彼女も同じなのか。

電話の向こうからは何も、何も聞こえない。


どのくらいの時間が経ったのか。

仮面が2歩ほど距離を置くと、マコマは吊っていた糸が切れたように、前のめりに倒れていった。

電話から、固いものにぶつかった音が聞こえてきた。

その音で、死人が意識を取り戻すように、我に返った。


「マコマ…っ!!」


電話にすがりつくように声を出す。


「おい!!聞こえるか!!」


続けて、壊れたステレオのように何度も彼女の名前を叫んだ。

すぐに飛び出すべきか迷ったが、どうしても身体が動いてくれない。

何よりも、仮面はまだそこにいる。その圧倒的な存在感に目が離すことができなかった。


「…さん…。」


私の声を通り抜けて、微かな声が聞こえてきた。


「九畝…さん…。」


聞き間違いじゃない。彼女はまだ生きている。


「じっとしてろ!今行く!」


「逃げて、逃げて…逃げて……。」


辛そうに咳き込む、涙混じりの声が聞こえてきた。

その声が引き金になって、固まった足が動いた。

頭の中で警鐘が鳴り響く。

早く―――早く―――。

すぐさま部屋を飛び出そうとして、


「九畝さん?手紙、読んでくれました?」


聞いたことのない、声が聞こえた。

そこで自然と、ドアノブを掴んだ手が止まってしまった。

私はもうひとつの手が未だに電話を耳に押し付けていたことに気付いた。


「聞こえてますね?」


瞬時に、仮面の人物だと悟る。

声からして……まだ若い。

20代後半くらいか?


「夕方、電話をしたのはお前だな。」


自分でも驚くくらいの、低くて冷静な声だった。


「答えろ。」


「ええっとですね……。」


「とぼけるな。マコマに電話をかけただろう。」


「……何か勘違いしてませんか?あなたはそんな質問ができる状況と、立場ではないはずですが?」


電話を叩きつけて黙らせてやりたかった。


「まあ、窓まで来てくださいよ。あなたの姿が見えないままなら、彼女を殺します。」


震えていく身体を抑えて、窓辺へと戻る。

窓から見下ろすと先ほどの光景がそのままにあった。

ひとつ違うのは、奇妙な仮面をした奴が奇妙な笑みを浮かべて、こちらを見上げながら電話をしていることだ。


「やあ、見えた見えた。」


嬉しそうな声が響いた。

いちいち頭にくる奴だ。


「マコマは無事だな?」


「ん?あぁ、そうでした。大丈夫、だと思いますよ。お腹刺しただけですから。何分、どうも下手なもので……勘弁してくださいね。」


本気で言っているのかと、耳を疑った。

狂っている。


「で、話ってのは?こっちだって暇じゃないんだ。わかるだろ?」


「そんな時間は取らせるつもりはないです。簡単なことですよ。今の事件の調査を中止してほしいんですよね。」


やはりそのことか。


「……どうして?お前が犯人だからか?」


「まさか!僕があんなすごいことできるわけないですよ。僕のなんかそりゃあもう地味で地味で……。」


埒が明かない。

私を怒らせたいだけなのか。


「断ったら?」


「あ、あぁ、いけない、どうも話が脱線してしまって……申し訳ない。いやあ、でも他の人ももっとすごいんですよ。」


「聞こえてる?お前の趣味には興味ないんだ。断ったら?」


「あ、それも簡単です。殺します。」


淡々と、とんでもないことを告げてきた。

こんなやつに、冷静でいられるものか。

怒りで頭がどうにかなりそうだ。


「いい加減にしろ!!マコマにそれ以上手を出したら……!!」


自然と左手で窓ガラスを強く叩いた。

例え割れたとしても、今の私には一向に構わなかった。

今すぐこのガラスを叩き割って、あいつの目の前に登場してやりたいぐらいだ。


「ん?また勘違いしてますね。彼女を殺すなんて言ってませんよ。大体ですね、彼女はもうほぼ無関係ですから。それに……。」


仮面がマコマを一瞥した。


「もうこの状態じゃ調査する気力もないんじゃないですか?身を以って痛みを知ったのですから。」


「……。」


「うーん。と、なるとやっぱり引いてくれませんか?」


残念そうに言った。

私は……どうするべきか、迷っていた。

嘘でもついてやろうか。

いや、それより、私にはそこまでして仕事を優先する意味はあるのだろうか。

そうだ、マコマが刺されたんだぞ。

あんな……あんな、苦しそうな声で……。

私が目を離さなければ、もう少し早く気づいていれば……。


考えれば考えるほど、私の決心は固まっていった。


「九畝さーん?」


「……わかった。」


「え?」


「大事な従業員が刺されたんだからな。」


「では……。」


期待をしているような声が聞こえた。

私は深呼吸をして、間を挟んだ。


「……ああ、絶対に嫌だ。」


「と、言いますと?」


「お前と交渉するつもりはない。」


「……。」


「脳を食べる馬鹿な獣とお前を必ず捕まえる。そして一緒の檻に住まわせてやる。当然、マコマを助けてからな。」


知らずに声が大きくなっていた。だけど、純粋な本心だった。

そして、仮面を睨んだ。

相変わらず、身動き一つせずにこちらをじっと見ている。

どんな返答をしてくるのか。

沈黙の時間が苦痛だった。


「……ふ。」


電話から空気が吹き出す音が聞こえた。


「ははっ!そうですよ!そうするべきです!それを待ってました!いやあ痺れましたよ!」


異様な声で笑うせいで、雑音にしか聞こえない。

激昂するかと思っていたのだが予想外の行動に、思わず驚いてしまった。


「ああ、ああ、すいません。相変わらずなんで安心しましたよ。やっぱり、ホラーはそうでなくてはね。盛り上げるところは盛り上げないと。いや、この場合はサスペンスに近いかな。」


「……?」


何が楽しくてこいつは騒いでいるのか、私にはわかるはずもない。

ただ、笑い声を聞くことしかできなかった。


「それでは、我々としてもそれなりの対応をしますので、楽しみにしててください。それで……。」


仮面が人形のように突然、首を傾けた。


「手紙は読みましたよね? [Call to love]。」


そして、左手でホテルを指さすと、一定のリズムを刻み始めた。

なんだ……?

左手が止まることなく上がっていく……。

段々と、私はその行動の意味に気付いていく。


「もう一度言ってやろうか。」


口調がさっきまでと変わる。

どすのきいた、相手を脅すような言い方になった。

やがて左手は私がいる部屋で止まった。


「お前、電話してる場合か?」


ブツリ、という音が聞こえて通話が終了した。

それと同時に、ノートを何冊か掴んで、私は部屋を飛び出した。


◆◇◆◇◆


エレベーターの下方向のボタンを押すとすぐに扉は開いてくれた。

すぐさま1階へのボタンを押して扉を閉める。


こちらの状況を何も気にせずに、エレベーターはいつもの速度で下降していく。

待つことは焦りを引き寄せる。じっとしていることが我慢できなくて、四角い部屋をうろうろと歩きまわってしまう。


数字が焦らすように変わっていく。


―――5

今更だが非常階段を使うべきだったろうか。

いや、後悔しても仕方がない。もう乗ってしまったのだ。


―――4

それに、あんな奴が真正面から堂々と来るとは思えない。

それこそ非常階段を使ってくるのかもしれない。

降りたらまず救急車を呼ばなくては……


―――3

マコマは無事なはずだ。

あの仮面は「もうほぼ無関係」と言っていた。

ということは初めからマコマは狙いではなかったのだろう。

だとすると……


―――2

何故、あいつはそんなに事件にこだわる必要がある?

犯人ではない、と言っていたが、それは嘘なのだろうか。

ああ……思考がままならない。

考えるべきことは何なのだ。


―――1

……決まってる。

マコマを助ける。それだけだ。


扉が開いた途端にすぐさま飛び出す。

ロビーは省電力のためか、オレンジ色の証明が薄く灯っていた。

無人の空間を全速力で外へと駆け抜ける。


辺りは暗く、車も通っていない。

一瞬だけ、奴がどこかに潜んでいないか確認した後、また走り出す。

ここから事務所までは走って15分ほどくらいか。

高架下の駐車場には先ほどの少年達はもういなかった。

いてくれたほうが少しは安心できたかもしれない……どうでもいい。

それよりも、建物の陰からさっきの仮面が見え隠れしそうで、正直怖かった。

考えたら、今まで奴はずっとこの事務所にいて、私が来るのを待っているのかもしれない。奴にとってはそのほうが手間が省ける。

……だけど、止まる気はない。

いたらいたで、返り討ちにしてやる。

事実、私は本当にそう思っていた。

そのくらい、私は感情を露わにしていた。


―――そして、誰に遭遇することもなくビルに到着した。

肩で息をして周囲を確認する。人の気配は感じられない。

ビルの真正面のエレベーターは7階で停止していた。

やはり奴はまだ降りてきてはいないのだろうか。

躊躇してる場合ではない。ボタンを押す。

1階に到着して、扉が開く。奴の姿は見えない。

7の数字を押しながらエレベーターに飛び込んだ。


―――7階に着いた。扉が開くと、エレベーターの光が暗闇に差し込む。

前方には「エニアグラム探偵事務所」と書かれた小さな表札と、見慣れたガラス戸がある。向こうは静寂と黒の世界だ。

事務所の電気は消されていた。不思議と、まるで初めて入る部屋のような感じがした。

あいつは……どこかに隠れているのだろうか。

知らないうちに呼吸が荒くなっている。


慎重にドアを開けていく。

ドアの陰に奴が潜んでいないか、一応確認する。

……大丈夫。


自分の仕事場とは言え、こう暗くては下手に動けない。

誰かがいるかもしれない、というとで一歩が踏み出せない。

とりあえず、電気を……

点けようとして、目に入ってしまった。

窓の外の微かな明かりに照らされて、部屋の奥で誰かが横たわっている。

誰……あれは……。


「マコマっ……!」


咄嗟に身体が動いて、そのまま走り出した。

倒れているマコマを抱きかかえる。

生ぬるい液体の感触が手に広がる。

腹部からは未だに血が溢れている。


そんな、まさか、死んで……

血の気が引いていく。

それは、何よりも考えたくなかったことなのに。


「大丈夫ですよ。」


声が聞こえて、振り向こうとした瞬間、振り向けなくなった。

後頭部に何かが押しつけられたからだ。

それが銃だとすぐに理解できた。


「先ほども言ったとおり、どうもナイフの扱いは下手でしてね。」


感情を逆なでするような落ち着きはらった声。

間違いなく、先ほど電話で話した声の主だった。

やっぱり隠れていたのか……。

わかっていたとは言え、迂闊だった。

それにしても、この状況。こいつの狙いは私か。

私を殺すつもりなのか。


「嘘だと思うなら、心臓の音、聞いてもいいですよ。」


やけに優しい口調で、そう言ってきた。

だが、後頭部には未だに銃が突きつけられたままだ。


「……そう言って、撃つつもりじゃないだろうな。」


「あ、それも面白いですけど……あまりにも無粋ですからね。安心してください。」


警戒しつつ言われるがまま、マコマの胸へ耳を近付ける。

不規則だが胸を波打つ音が聞こえた。

一先ず、安心できた。

けれど、危険な状態なのには間違いない。

早く手当てをしないと……。


「ね?言ったでしょう?」


問題は、これからどうするか、だ。

頭には依然、銃が突きつけられている。


「……彼女は関係ないと言ったな?救急車を呼ばせろ。」


背中にいる男へ話しかける。


「…………。」


「お願いだ。彼女を死なせたくないんだ。」


先ほどまで饒舌だったくせに、急に返答がなくなった。


「どうした?聞こえないのか?」


「……不思議ですね。」


声を荒げた私と正反対に、男はゆっくりと静かに喋る。

不思議?何がだ?


「不思議……?」


「なぜ、ここに来るまでに救急車を呼ばなかったのですか?」


「……え?」


「だって、そうでしょう?あなたは彼女が刺されたところを見ていた。それなら、すぐに警察にでも電話をすればいい。私は、サイレンに驚いて逃げたかもしれないのに。」


ドクン―――と心臓が跳ねた。


「僕は"警察に電話したら彼女の命はない"なんて言ってませんからね。」


言われてみれば、どうして、私は―――。

何をしていた?

何を考えていた?

私は―――。

「簡単だ。お前がどんな行動をとるかわからなかったからだ。」


「あぁ……ふむ、なるほど。」


「……何が言いたい?」


「いえ、少し気になっただけですよ。」


そう言って、含み笑いをする。

これ以上この話しを続けても埒が明きそうにない。

話を変えよう。


「お前の目的は何だ?私のノートか?」


「そうですね。ちょっと確かめたいことがあったので。」


「だったら好きなだけ持っていけばいい。それとも、もう仲間が取りに行ってるか?」


「……何故、そう思うのですが?」


「簡単だ。さっきホテルの私の部屋の階数を数えていたな。だとしたら、あそこの侵入者はお前じゃない。それに探し物をしていた割には部屋はあまり荒らされていなかった。私たちが帰ってきたのが突然すぎたか?」


階数を数えていたのは私がここに来るまでの時間を計るためだろう。


「姿を現したとなると、ノートも見つからなかったみたいだな。だとしたら私をここに誘いだしてあとはゆっくりと探せばいい。」


私は頭の中でまとまりつつあった考えを話した。


「…………。」


「その黙秘は何だ?図星か?」


「……正直、驚きました。この短時間でよくもそこまで冷静に……。」


今まで聞いたことのないトーンで、感嘆の声を挙げた。

どうやら、本当に驚いているようだった。


「しかし、悪いが、ノートは渡さない。ノートがあるのは私の近くとは限らないんでな。探すならもっと別を当たるんだな。」


「……そうみたいですね。たった今、連絡がありました。一応、残っているノートは全て回収してもらってます。すいませんね。」


ということは、必要なのは、1冊か2冊。

個別の事件の資料が狙い、ということか。


「好きにしろ。それで次は?ノートの在り処はどうする?私を拷問でもしてみるか?」


拷問なんて絶対に嫌だが強気の発言をしてみる。

こいつに下手に出るなんて、それこそ、死んでも嫌だった。


「そうですね……どうすると思います?」


すると、後頭部にあった違和感がなくなった。

視線だけを周りに動かすと、いつの間にか銃口はマコマへ向いていて……


「よせっ!!」


無我夢中で銃に飛びつこうとした途端、急に目先から銃の存在が無くなった。

そして、振り向いた私の眉間には再び銃が突きつけられていた。

いつの間にか、呼吸は乱れていて、心臓は胸を破りそうに激しく動いていた。

冷や汗が滲む私の顔を見て、男は満足そうに声を押し殺して笑った。


「―――冗談ですよ、九畝さん。びっくりしました?」


近くで見ると、男の風貌の異様さに今更ながら気付いた。

白い仮面の目元には金色のラメが散りばめられているが、瞳の部分は暗く、どこを見ているかわからない。大きな赤い口は耳まで裂けて笑っている。身体は黒一色で揃えてあり、暗闇ではきっとその白い仮面だけが浮かび上がるのだろう。

そして、私が今その男に銃を突きつけられてるなんて、どうも現実離れしていた。

それはまるで、


「ホラー映画みたいでしょ?」


私の顔を覗き込んで、満足そうに言った。


「大丈夫ですよ。何度も言いますが、彼女は殺しません。もちろん、あなたもね。もう忘れてしまったんですか?」


それでも、銃が私から離れることはなく、私も彼から目を離すことはできなくなっていた。

わざとらしく男は一息ついてから、口を開いた。


「……それで、先ほどのあなたの推理ですが、ちょっと間違えてます。」


「間違い……?」


「[あなたをここに誘ってノートを探す]まで合ってますが、その先があるんですよ。」


男は「わかります?」とでも言うように首を傾げた。

わかるわけがない。


「ここに誘き出したのは、あなた自身を確認するためなんですよ。」


私を、確認するため?

可笑しな日本語を使う。

どういうことだ?


「九畝さん。先ほどの件といい、あなたは類稀なる推理力の持ち主だ、本当に素晴らしい。並外れた発想とひらめきでいくつもの難事件を解決してきた。今まで、警察が捕まえた犯人の多くはあなたの手助けがあって、とも聞いています。きっとその頭には脳科学者達が挙って調べたいほどの脳が詰まっているのでしょう。あなたは、間違いなく、天才だ。」


いきなりそんなことを言われても、何も嬉しくはなかった。

そんなこと、考えたこともない。

私は男がこの先に何を話すのか聞いていることしかできなかった。


「しかし、その裏では緻密な努力と計算が成されている。所謂、あなたの"ノート"によってね。」


言いながら、何かを書く仕草、本をめくるようなジェスチャーをする。


「さて……ここで疑問なのですが、どうしてあなたは記録という作業をしているのですか?」


一瞬、ほんの一瞬だけ思考に亀裂が入った。

頭の中で紙を引き裂くような音が響く。


……記録?

……作業?


それは―――。

そう―――。

簡単だ。



「それは、資料として、残すためだ。」


「資料として残す?誰の為に?」


「警察へ、提出するために、」


「警察へ?あなたは今までに大切なノートを譲渡することなんてありました?」


当たり前だ。

私はそうして、警察へ協力を求めて―――

いや、違う。

ノートは私が全て保管していた。

私が書いた乱雑なノートを警察に見せるわけがない。

提出するにしても、その時にはマコマに適当な文章と簡略化して書かせていたはずだ。


だとしたら私は―――。


「九畝さん、どうしました?私の質問に答えていただけますか?あなたのノートは警察の為ですか?」


「―――違う。過去の事例と現在を照らし合わせて、参考に、しているだけだ。」


そうだ。

これなら納得できる。


―――本当に?


やけに、頭が痛い。

話すごとに吐き気が増してくる。


「なるほど、ノートはあなた自身の為、ということですね。」


そうだ。

誰の為でもない。

私の為に、私は記録をする。


「でも、あなたは間違いなく天才です。覚えているべきことは全て頭の中に入っているはずでは?」


―――それは、人の記憶は、とても、曖昧だから。


「普通の人なら、ですね。あなたほどなら、過去の関わってきた事柄を覚えているのは容易いはずですよ。」


急に、頭が、痛い。

こいつと話すと、ノイズばかりだ。

ノイズに浸食される。


「思い出せますか?それとも、やはりノートが必要ですか?」


耐えきれなくなって、床に膝をついた。

そのまま頭を抱える。

ノイズが走ると、思考がカットされる。

カットされた思考は二度と見えない。


それでも、遠くから、上のほうからはまだ男の声が響いている。


「ここに来るまでに救急車、または警察に電話をしなかったのは何故ですか?」


それはさっき答えた。無視。


「……はっきり言ってあげましょうか?あなたは忘れていたのですよ。ここに来るまでにね。たった数十分の間です。」


ふざけるな。違う。


「現に、今までにあなたには何度も同じ説明を繰り返す場面もありましたね。覚えていますか?」


それは、忘れたとは言わない―――――


「私の手紙、読みましたよね?文章を覚えていますか?」


手紙―――――

覚えているに決まって―――――


それは、今は関係ないはずだ。


「あなたがノートに記録しだしたのはいつからですか?また、何故ですか?」


一層ノイズが大きくなる。

ザーザーという音まで聞こえてくる。


それは、確か―――――

―――――。

―――――。


それも関係ない。無意味な質問は無視。


「―――なるほど。天才的な頭脳の裏には、重度の短期記憶障害……ですか。皮肉なものですね。」


言葉は理解できなかったが、憐れんだ声だった。

続いて、聞き覚えのあるサイレンの音が近づきつつあった。

……警察?


「どうやら、時間切れのようですね。あ、私が呼んだのですよ。警察と救急車と消防車。初めて110番に電話をしたもんだからよくわからなくて。」


そして、私の傍から靴音が遠ざかっていく。


「九畝さん、貴重な会見、ありがとうございました。とても有意義な時間でしたよ。」


思考は落ち着いてきたものの、身体が思うように動いてくれない。

やっと頭だけを動かして男の背中を視界に入れた。


「ま…て………。」


絞り出した声は、文章にすらならなかった。


「あ、そうそう。大事なことを忘れていた。私も人のことは言えないな。」


靴音が止まり、男がこちらに振り向いた。


「これから、それはそれは素敵なイベントが始まります。きっとあなたの力を存分に発揮できる機会が訪れることでしょう。当然、邪魔をする側としてね。」


そして、両腕を広げてポーズをとった。


「しかし、参加するかどうかは好きにしてください。強制はしません。ただ、邪魔をするならこちら側も精一杯にその邪魔をいたします。」


今度はその両手を胸に当てる。


「そのときは、あなたには想像もできないほどの絶望を味わわせてみせることを約束します。」


そう言って、深く頭を下げた。


「どうか、足掻いて魅せてください。応援しています。それでは……。」


回れ右をすると、今度は止まることなくドアへ向かって歩いていく。

ドアが開いて、閉まると同時に、私の意識もテレビを消すように途絶えた。


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