【40話】緊張、近付く距離
その夜。
王宮の私室は、昼間の光の名残をすっかり失い、静かな暗さに包まれていた。
蝋燭の炎が揺れるたび、壁の影が微かに動く。
眠れる気がしない。
儀式が終わってから、胸の奥が落ち着かないままだった。
指先で首元に触れる。紋章はもう見えない。それでも、確かに何かが変わった感覚だけが残っている。
控えめなノック音。
「……リリア?」
扉の向こうから聞こえた声に、心臓が跳ねた。
「はい」
扉を開けると、そこに立っていたのはアルトリア――ではなく、儀礼用の装いを脱いだ、少しだけラフな姿の彼だった。
「眠れなくて……来てしまいました」
「奇遇ですね。私も眠れなかったんです」
言葉が重なり、二人で小さく笑う。
部屋に招き入れると、急に距離が近く感じられた。
昼間なら必ず誰かがいた距離。今は、何も隔てるものがない。
向かい合って腰を下ろす。
沈黙が落ちる。
嫌な沈黙ではない。
けれど、落ち着かない。
「……昼のことですが」
アルトリアが先に口を開いた。
「体調に、変わりはありませんか」
「ありません。むしろ……」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「……少し、近くなった気がします」
彼は、ほんの一瞬、目を瞬いた。
「……それは、距離ですか」
「はい」
間。
それから、私は意を決して続けた。
「……名前で、呼んでいただいてもいいですか」
アルトリア様の動きが止まる。
「今まで通りでも構いません。ただ……今日は、その」
視線が合う。
「……二人きりなので」
長い沈黙のあと、彼は小さく息を吸った。
「……リリィ」
低く、慎重な呼び方。
その一言で、胸がきゅっと締め付けられた。
「……はい」
「いえ……」
言い直すように。
「リリィ。大丈夫ですか」
私は小さく頷き、今度はこちらが呼ぶ番だと気づく。
「……アルト」
一拍。
彼の肩が、目に見えて揺れた。
「……その呼び方は、心臓に悪いですね」
「……ごめんなさい?」
「いえ。嫌では、ありません」
むしろ、と言いかけて飲み込んだのが分かった。
そのまま、どちらともなく立ち上がり、自然と距離が縮まる。
触れそうで、触れない。
それなのに、緊張は高まる一方だった。
「……今日は」
アルトが、静かに言う。
「これ以上、近づくと……お互い、眠れなくなりそうです」
「……既に眠れません」
そう返すと、彼は困ったように笑った。
「では、少しだけ」
そっと、私の手を取る。
昼間とは違う、確かめるような触れ方。
何も起こらない。
呪いも、光も。
ただ、鼓動だけが伝わる。
「……怖く、ありませんか」
「いいえ」
私は首を振った。
「アルトと一緒なら大丈夫です」
言ってから、少し遅れて意味が追いついてくる。
彼は、耳まで赤くなったまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……リリィ」
名前を呼ばれるたび、距離が縮む。
それが、少し怖くて。
でも、嫌ではなかった。
数日後。
国民向けのセレモニーが控えていると、皆は言う。
けれど今はまだ、準備の話が遠くで囁かれているだけ。
私たちはただ、
急に近くなりすぎた距離に戸惑いながら、静かな夜を過ごしていた。
それが、これから始まる日々の前触れだとも知らずに。




