【39話】婚約の儀
あの訓練場の騒動から、数日が過ぎた。
王都は不思議なほど静かで、まるで何事もなかったかのように日常が流れている。
けれど私だけは、その静けさに落ち着かなかった。
「……婚約の、儀」
鏡の前で、私は小さくその言葉を繰り返す。
夜会で出会い、手を取り、すれ違い、戦場を越えて──
気づけばここまで来ていた。
けれど、正式な儀式となると話は別だ。
王家の婚約を示す儀。
公に、取り消せない形で結ばれるもの。
「遅いですね……実感が来るの」
独り言のつもりだったが、侍女がくすりと笑った。
「来ない方が珍しいですよ。大抵はもっと前から緊張なさいます」
「そう、なんですね……」
緊張はある。
でもそれ以上に、どこか現実感がない。
まるで、自分の話ではないような──。
儀式は王宮の奥、普段は使われない小礼拝堂で執り行われることになった。
大仰な式ではない。
立ち会うのは国王夫妻、レオンハルト様、そしてセリウスのみ。
「少人数の方がいいだろう?」
国王陛下のその一言で決まったらしい。
礼拝堂の扉の前で、私は深呼吸をした。
扉が開く。
差し込む光の中で、アルトリアが立っていた。
儀礼用の衣装に身を包み、背筋を伸ばしたその姿は、いつもより少しだけ遠く見える。
けれど、視線が合った瞬間。
ほんのわずかに、彼の肩から力が抜けたのが分かった。
──あ。
私だけに見せる表情だ。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
誓約は、静かに進んだ。
呪いについて、過去について、王家として背負うものについて。
すべてを理解した上で、互いに契約を結ぶという確認。
言葉は難しく、形式張っているのに、不思議と恐れはなかった。
「リリア・エルヴァイン」
彼が、私の名を呼ぶ。
「私は王家第3王子として、あなたを正式な婚約者と認め、生涯にわたり守ることを誓います」
私も、用意された言葉を口にする。
震えないよう、意識して、ゆっくりと。
指輪が交換され、誓約書に署名がなされる。
そして最後に──
アルトリアが、私の手を取った。
一瞬、礼拝堂の空気が張り詰める。
呪い。
噂。
過去。
それらを知る者たちが、息を詰めて見守る中で。
彼の手は、少しだけ温かかった。
指輪の交換が終わり、誓約書への署名も済んだ。
形式としての婚約の儀は、そこで終わるはずだった。
「──以上をもって、王家第3王子アルトリア・ヴァレンシュタインと、リリア・エルヴァインの婚約を認める」
国王陛下の宣言が、礼拝堂に静かに響く。
その瞬間。
――ふわり、と。
私の視界が、白く滲んだ。
「……?」
眩しい、というより、柔らかい。
陽光に似ているのに、礼拝堂のどこから差したものでもない。
「リリア?」
アルトリアの声が、少し近い。
気づけば、私たちは光の中に立っていた。
淡く、金色を帯びた光が、足元からゆっくりと立ち上り、私と彼を包み込んでいく。
「これは……」
誰かが息を呑む音。
女王陛下が、はっとしたように立ち上がった。
「……まさか」
光は、熱くない。
不思議と怖くもない。
ただ、胸の奥がじんわりと温かくなり、何かが“ほどけていく”感覚があった。
アルトリアが、反射的に私の手を握る。
「大丈夫ですか?」
「はい……不思議と、何も……」
そのとき。
彼の首元に、淡い光の線が浮かび上がった。
まるで、見えない刻印が光を得たかのように。
「……紋章だ」
レオンハルト様の低い声。
王家、ヴァレンシュタイン家の紋章。
そして、息をする間もなく──
私の首元にも、同じ光が宿った。
「……え?」
思わず、喉が鳴る。
二人分の紋章が、互いに呼応するように淡く輝き、やがて一つの円環を描く。
光が、収束する。
静寂。
誰一人、すぐに声を出せなかった。
最初に動いたのは、女王陛下だった。
震える指で口元を押さえ、ゆっくりと私たちに近づく。
「……呪いが」
アルトリアが、息を詰める。
「母上……?」
「変質しています」
断言だった。
「消えてはいない。けれど……“閉じられた”」
女王陛下の目が、わずかに潤む。
「一人で背負う呪いでは、なくなったのですね」
国王陛下が、深く息を吐いた。
「王家の誓約と、正式な婚約……条件が揃ったか」
「条件?」
セリウスが、珍しく真剣な声を出す。
「古文書に、書いてあったのは本当だったか……」
レオンハルト様が続けた。
「“王家の血と、選ばれし者の意思が結ばれし時、呪いは契約へと姿を変える”」
私は、彼の方を見る。
彼も、私を見ていた。
「……痛みは?」
「ありません」
「触れても?」
言葉より先に、彼の指が、私の手を包んだ。
何も起きない。
光も、暴走も。
ただ、確かな鼓動だけが伝わってくる。
「……大丈夫です」
アルトリアは、少しだけ笑った。
それは、これまでで一番、肩の力が抜けた笑顔だった。
「私の呪いは……あなたを拒まなかった」
「最初から、拒まれていませんでした」
そう返すと、彼は目を見開き、すぐに困ったように微笑んだ。
セリウスが、ぽつり。
「いやあ……これ、婚約の儀っていうか、即位級イベントじゃない?」
「兄上」
「ごめんごめん」
けれど、その声はどこか、安堵を含んでいた。
光は完全に消え、首元の紋章も、やがて見えなくなる。
けれど、確かに残ったものがある。
呪いは、消えなかった。
ただ、形を変えた。
独りで背負う“死”の呪いから、
二人で結ぶ“生きるための契約”へと。
私は、そっと息を吸う。
「……アルトリア様」
「はい」
「私、少しだけ……誇らしいです」
「何が、ですか」
「あなたの婚約者であることが」
彼は一瞬、言葉を失い、そして静かに、深く頷いた。
「……それは、私も同じです」
こうして。
婚約の儀は、想定外の形で終わりを迎えた。
王家の歴史に刻まれる出来事として。
そして、私たちの関係を、決定的に変える“始まり”として。




