【32話】変わった空気
城の廊下を歩くだけで、視線を感じるようになった。
以前は――
避けるか、遠巻きに見るか、怯えを含んだ沈黙か。
それが今は、違う。
「……アルトリア殿下」
声をかけてきたのは、若い侍女だった。
緊張しているのが、手元で絡む指先から分かる。
「先日の件……ありがとうございました。無事、家族のもとへ連絡が届いたそうです」
アルトリアは足を止め、穏やかに微笑んだ。
「それは良かった。困ったことがあれば、遠慮なく言ってほしい」
声音は柔らかく、視線はきちんと相手の目線に合わせている。
――あの“呪われた王子”と呼ばれていた頃には、考えられないほど自然な対応だった。
「は、はい……!」
侍女は顔を赤くして一礼し、足早に去っていく。
……その背中を見送りながら、私は胸の奥がもやっとした。
(近い。距離が近い……)
しかも、微笑みがやさしい。
必要以上に。
「ふーん」
隣から、わざとらしい声。
「ずいぶん人気者じゃないか、うちの弟」
振り向くと、セリウスがニヤニヤしている。
「城内の女性陣、見る目が完全に変わったなぁ?」
「……そうでしょうか」
私は平静を装ったつもりだったが、たぶん声は硬い。
「アルトリア様は、元から優しいですし」
「元から、ねぇ?」
セリウスはにやにやしながら呟く。
「でも“婚約者付き”になった途端、安心して声かけてきてる気がするけど?」
「……」
図星すぎて言葉が詰まる。
アルトリアはそんな会話に気づいたのか、こちらを振り返った。
「どうかしたのか、リリア?」
その一言が、追い打ちだった。
さっきと同じ優しい声。
同じ表情。
(……同じ、なんだ)
そう思った瞬間、勝手に胸がきゅっとする。
「い、いえ。何でもありません」
「そうか?」
少し不安そうに眉を寄せるアルトリア。
その様子を見て、セリウスが堪えきれずに吹き出した。
「ははっ、だめだな」
「気づいてない顔だ」
「何がだ」
「嫉妬」
即答。
「リリア、めちゃくちゃ分かりやすいのに」
「……っ」
私は思わず顔を逸らした。
「からかわないでください!」
「いやいや、これはからかうだろ」
楽しそうに笑ってから、わざとらしく真面目な声。
「安心しなって。今のアルトリアが一番向けたい笑顔は――」
ちらっと私を見る。
「もう決まってる」
アルトリアは一瞬きょとんとしてから、ゆっくり理解したように視線を私に向けた。
そして。
ほんの少し照れた、不器用な微笑み。
「……そうだ」
胸の奥のもやもやが、音もなく溶けていく。
(ずるい)
そう思いながらも、口元はどうしても緩んでしまった。
その後も、城内を進むたびに――
「殿下、先日は――」
「アルトリア殿下、お時間よろしければ――」
声をかけられる。
アルトリアには女性から。
私には、若い騎士や文官から。
「リリア様、その……殿下の婚約者様ですよね。お噂はかねがね」
「い、いえ……」
困って返事をする私の様子を、アルトリアがじっと見ている。
無意識に、距離が近い。
……近い。
「おやおや」
即座に、背後から愉快そうな声。
「今度はこっちが妬いてるか?」
セリウスだ。
「騎士団の視線、さっきから全部リリアに吸われてるぞ、アルトリア」
「……そうか?」
「そうそう。ほら、あの若いの。完全に目が――」
「兄上」
アルトリアの声が、低くなる。
「やめてください」
「えー? 事実を述べているだけだろ?」
にやにや、止まらない。
「いやぁ、婚約者同士で嫉妬の応酬。実に健全だ」
「健全ではありません!」
私が思わず声を上げると、セリウスはさらに楽しそうに肩を揺らした。
「ほら、これだ。二人とも余裕なさすぎ」
「兄上!」
アルトリアが一歩前に出た、そのとき。
「……セリウス」
低く、よく通る声が廊下に落ちた。
空気が一瞬で張り詰める。
振り向くと、そこには女王陛下が立っていた。
側近を従え、表情は穏やか――だが、目が笑っていない。
「ずいぶん楽しそうね」
「……っ」
セリウスが、ぴたりと動きを止める。
「母上、これは――」
「聞いているわ」
一歩、近づく。
「城内で、婚約者同士を煽って遊ぶのが、第1王子代理の務めかしら?」
「……」
「しかも、他人の視線を数えては焚きつけるなんて」
女王はため息をついた。
「相変わらず、性格が悪いわね」
即死級。
周囲の空気が凍る。
「うわ、言い切った……」
セリウスが小声で呟くが、
「反省しなさい」
間髪入れず。
「しばらく二人から距離を置きなさい。余計なことを言わない。視界にも入らない」
「えっ」
「“えっ”じゃありません」
女王の視線が鋭くなる。
「あなたがいると、話がややこしくなるの」
完全論破。
「……承知しました」
しゅん、と肩を落とすセリウス。
去り際、こちらを振り返って小声で、
「後で絶対続きを――」
「セリウス?」
「失礼しました」
即退場。
廊下に、静寂が戻った。
「……申し訳ありません」
私がそう言うと、女王は首を振った。
「いいのよ。あれは自業自得」
そして、アルトリアを見て、ほんの少しだけ柔らかく微笑む。
「あなたは……」
「?」
「ちゃんと守っているわね。リリアを」
アルトリアは一瞬言葉を失い、それから静かに頷いた。
「当然です」
その言葉に、胸が温かくなる。
女王は満足そうに視線を二人の間に落とし、
「……本当に、城の空気が変わったわ」
そう、静かに告げた。




