【29話】勝手に決めたくせに
夜の王宮は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
与えられた客室の窓からは、月明かりが差し込んでいる。
私はその前に立ったまま、腕を組んでいた。
「……」
沈黙が、長い。
背後で、扉が開く音。
「……リリア」
アルトリアの声が、やけに慎重だ。
「その呼び方もです」
即座に返す。
「公の場で“婚約者”って紹介しておいて、今さら普段どおりなのは、おかしいと思います」
「……」
言葉に詰まった気配。
振り返ると、彼は苦笑していた。
「……怒っていますか」
「当たり前です」
きっぱりと言う。
「事前相談、ゼロでしたよね?」
「……はい」
「心の準備」
「……ありませんでしたね」
「逃げ道」
「……なかったです」
一つ一つ、律儀に認めるのが腹立たしい。
「私の人生が、一瞬で“王子の婚約者”に変わったんですよ」
声が、少しだけ震える。
「怖くなかったといえば……嘘になります」
俯いた、その瞬間。
「それでも」
私は、顔を上げた。
「嬉しかったです」
言ってしまった。
言ってから、悔しくなる。
「……ずるいです」
「英雄として称えられる場で、あんなふうに言われたら……」
視線を逸らす。
「否定なんて、できないじゃないですか」
沈黙。
アルトリア様が、一歩、近づく。
「……本当に、すまなかった」
低い声。
「だが、あの場で……私は、もう逃げたくなかった」
「君を、“曖昧な存在”にしたくなかった」
距離が、縮まる。
「それに」
少し困ったように、笑う。
「拒まれるなんて、考えませんでした」
「そこが一番腹立たしいです」
即答する。
でも、唇が震えている。
「……自信満々なのに、不安そうな顔するの、反則です」
アルトリア様は、驚いたように目を瞬かせ――
それから、柔らかく笑った。
「……喜んで、くれているのですね」
「……」
私は、そっぽを向く。
「怒ってます」
「ええ」
「すごく」
「はい」
「でも……」
小さく、息を吸う。
「選ばれたのが、私だったことは……誇らしいです」
次の瞬間。
彼の腕が、そっと私を包んだ。
「……ありがとうございます」
耳元で、囁く声。
「あなたを選ぶと、決めていました」
「決めていたなら……」
胸元を、軽く押す。
「ちゃんと、言葉で言ってください」
彼は、少し考えてから――
真剣な顔で言った。
「私、アルトリア・ヴァレンシュタインは」
「あなたを、正式に婚約者として迎えたい」
心臓が、跳ねる。
「……今度は、ちゃんと、聞きます」
私は、ゆっくり頷いた。
「はい」
月明かりの下。
二人の距離は、もう逃げ場のないほど近い。
けれど――
この近さが、怖くない夜だった。




