【20話】その言葉を、意識したとき
――結婚。
兄上が、あまりにも軽やかに口にしたその言葉が、頭から離れない。
夜の執務室。
書類に目を落としてはいるが、文字はほとんど頭に入ってこなかった。
「……集中できないな」
小さく息を吐く。
契約を宣言してから、周囲の視線は確実に変わった。
だがそれ以上に変わったのは、私自身だ。
リリアが近くにいることが、自然になっている。
声を聞くこと、表情を見ること、隣を歩くこと――
それらすべてが、いつの間にか“特別”から“普通”になっていた。
そして兄上は、そこに「結婚」という言葉を投げ込んだ。
軽い調子で。
冗談めかして。
だが、私には軽くなどなかった。
「……私は」
呟きが、静かな部屋に落ちる。
呪いを抱えたまま生まれ、
触れれば人を死に至らしめる存在として距離を置かれ、
王子でありながら、誰かの未来を背負う資格などないと、どこかで思っていた。
――そんな私が。
誰かと人生を共にする、など。
机に置いた手を見つめる。
あの手は、確かに彼女に触れても何も起こらなかった。
だがそれは、奇跡だ。
例外だ。
「例外を、当然のように扱ってはいけない」
そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
リリアは、契約者だ。
協力者だ。
呪いに立ち向かうための、対等な存在だ。
――だから。
それ以上の意味を、持たせてはいけない。
……はずなのに。
兄上の言葉を聞いた瞬間、
胸の奥が、妙にざわついた。
否定すべきだった。
即座に「そのような話ではない」と言うべきだった。
だが私は、何も言えなかった。
「……卑怯だな」
自分に向けて、そう思う。
彼女が、どれほど真剣にこの契約と向き合っているかを知っている。
不安を抱えながらも、逃げずに隣に立っていることも。
それなのに私は――
結婚という言葉を、否定しなかった。
期待させるような沈黙を、選んでしまった。
「私は、王子だ」
そして、呪われた存在だ。
守るべき立場で、
誰かを縛る資格などない。
それでも。
もし、この呪いと向き合い、
制御し、
恐れられない存在になれたなら。
そのとき、私は――
「……いや」
思考を、無理やり切り上げる。
まだだ。
考えるには、早すぎる。
だが。
彼女の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
私の言葉を信じてくれる、その瞳が。
「結婚」という言葉が、
これほど重く、そして――
これほど現実味を帯びて響いたのは、初めてだった。
私はまだ、その答えを出せない。
けれど。
あの言葉を、二度と“冗談”として聞けなくなってしまったことだけは、
確かだった。




