N県W市
ここ数年、N県W市にてとある都市伝説が流行しているようだ。内容としては、ある女性に話しかけられるということだ。時間帯は問わないらしい。だが、話しかけられる内容は人によって違うようだ。とはいえ共通している内容もあり、犬を連れている時に声をかけられる点、女性の特徴、最後に聞かれる言葉の三つがあるらしい。
女の特徴としては、百八十ほどの長身、赤というより紅のワンピース、肩まで伸びる真っ黒の髪。
また、顔がぼやけているというところだ。他の特徴が鮮明なのに顔のみぼやけてわからないという謎があるところは、オカルトライターとしてとても面白いものだった。
そして、最後に女性に聞かれる言葉は
「首輪、いりますか?」だそうだ。言葉通りの意味で、「はい」と答えると実際に首輪を渡されるらしい。これも紅色の首輪で、鈴の飾りが付いているとのこと。この話を持ちかけてきたKさんは二週間前、実際にそう答えて女性から首輪を貰ったそうだ。
しかし、「いいえ」と答えた時はどうなるのかという情報は一切ない。女性が何をするのか、そのまま消えてしまうのか、何も分からないのだ。
今回はこの質問に「いいえ」と答えてどうなるかを検証し、報告書にまとめることとした。
早速、愛犬を連れて向かうことにした。向かう先は二週間前に最後の報告をくれたKさんの家。
Kさんが報告してきた情報は、深夜に話しかけられたこと、首輪はいるかと聞かれ、はいと答えると紅い首輪をもらったこと、顔は思い出せないこと。細かい情報も多数もらったが、あまり有用な情報ではなく、使えそうな情報はそのくらいだった。そして、最後の報告では犬がうるさいという事だけ、情報を送ってきていた。
Kさんに関しては住所も電話番号も貰っているのですぐに向かうことは出来たのだが思いのほか日程が合わず、初めて報告を貰った一か月前の日から最後の報告を貰った日まで一度もKさんと会うことは無かった。
心配と期待が入り交じる足取りで車を運転し、Kさんの家の最寄り駅から十五分ほど歩いた。
Kさんの家はとあるマンションの五〇五号室。端の部屋だった。丁度浮かんでいた夕焼けをキレイに望める場所で、端にやけにひっそりと佇んでいた。ここで合っているのかと立ち往生していると大家と思しき人物が声をかけてきた。大家曰く、Kさんは元々引きこもり気質であまり外に出ているところを見たことがないらしい。静かなのも
そのせいかと思っていると、大家が
「でもあの人、犬の声がうるさいって苦情を入れてきたことがあったわ。このマンション、動物禁制だしこんな高さだから、外から声が聞こえるわけもないのにね。不思議なものだわ。」
と言った。このマンションは部屋のポストから大家宛に手紙を出せるらしい。変わった仕組みだがそのせいもあってか、大家も一ヶ月ほど顔を見た覚えがないらしい。
「あの人も変わったところあるから、あなたも少し気をつけた方がいいわよ。」
それだけ言い残して、大家はこの部屋を嫌うかのように離れていった。見送って、ドアノブに手をかける。不思議なことに鍵はかかっていなかった。恐る恐るドアを開け声をかける、返事は返ってこない。まぁメール自体は全て既読になっている、今回家に向かう旨も伝えてある。大丈夫かと思い玄関に入った。
玄関は、一点を除いて綺麗に整理されていた。
並べられ、きちんと手入れされた靴。靴箱の上にディフューザーが置かれ、絵画が客人を招いている。横に置かれ、出ていく前の身だしなみを整える全身鏡はキレイに私を写している。
だが、リビングへと続く赤黒い泥の塊のようなものだけがそれら全てを台無しにしている。何故か、近くで見ても匂いどころか存在感すら、それは放っていない。ただそこにあるだけのように点々と続いている。それに導かれるようにリビングの引き戸を開けて、中に入ってしまった。
─最初から、導かれていたのかもしれない─
そんな考えが頭を走り抜けたのは、リビングに入ってから間もなくだった。
「••••••Kさん?」
思わず声が漏れる。
そこにあった、いや、浮いていたのはかつて
Kさんだったものだった。
顔は赤紫で白目を剥き、舌を空に投げ出している。また、頬に小さな引っかき傷のようなものがある。そして─ 紅い首輪で首を吊っていた。
あまりのおぞましさに頭は呆然とし、足が勝手に後ずさりを始める。すると
ごとっ
と鈍い音がした。
見てはいけないと思いつつ、眼が足元を覗く。
そこにあったのは黒い犬の死体だった。Kさんと同じ形相をして、同様に紅い首輪で絞め殺されていた。
脳が焼き切れるほどに思考を始める。ここで初めて、家が腐臭で満ちていることに気がついた。そして、思考が全て無駄だったというように、声にならない叫び声が己の口から溢れる。同時に体が急いで外へ出ようとする。床に散乱したものを踏み付け、靴を履くことすら忘れて家を飛び出した。
マンションが見えなくなるほどの距離を夢中で走った後、駅の近くに停めてある車に戻ってきた。
車の中で体の震えと思考を整理し、現状を確認する。なぜKさんは死んでいるのか?なぜ犬は全く同じ顔をしていたのか?そして、なぜ死んでいるのにメールが既読になっていたのか?何も分からない状況が一向に改善されず、震えていると
わんっ
愛犬─ シロが心配そうに吠える。そのおかげか、段々と体の震えは収まり思考も落ち着いてきた。自分自身を宥めるように、シロを撫でる。普段から人の感情に敏感な子だ。私を心配して普段よりも甘えてくる。
心が落ち着いてくると同時に、この件からは手を引くと決めて帰る支度をする。そうしなければ私もあのようになってしまう。これ以上は探りを入れず、離れる以外に選択肢はなかった。
ここで異変に気がついた。時計は二時を指している。この場所についたのは夕方頃だったはずが、深夜になっていた。一体どれ程の時間が自分の知らぬ間にあの部屋で経過していたのかという事実に、また鳥肌が全身を覆う。早くここを出発しようとエンジンをかけた所で、声が聞こえてきた。
「首輪、いりますか?」
車の中から聞こえる、聞こえるはずのない、聞こえてはいけない声が。運転席の真後ろ、一メートルも離れていないところから囁いている。音が消え、視界が狭窄し、心臓が強く速く脈打つ。ゆっくりと視線だけをずらし、ミラーを見ると、あの女性が映り込む。冷や汗が滝のように吹きでて膝に滴り落ちる。脳裏に過ぎるのはあの結末だ。あんなことにだけは絶対になりたくないと本能が訴えかけてくる。どれほど時間が経ったか分からない頃、口から一つの答えだけが零れ落ちた。
「い……いらない……です。」
十秒ほど、沈黙が流れる。突然、真後ろから脳内に直接響くような声が聞こえる。
「……いひあひゃひゃあひひゃひはははは!!!」
頭が割れるかと思うような大きな声、女性と子どもが入り混じったような、機械音声のような笑い声が頭の中で響き渡り、咄嗟に耳を塞ぎ顔を上げる。一瞬見えた女の顔と、その後のよく聞き取れない声を最後に、記憶は途絶えていた。
気が付くと、翌日の朝日が差し込んでいる自宅に戻っていた。シロも眠っているようだったが、私が起きると次第に起きてきて、頬を舐めてくる。まるで、あの出来事全てが夢だったかと言わんばかりに何事もなく、全てが終わっていた。
あれから一週間が過ぎた。女の顔は何故かあの日以降一度も思い出せなかった。最後に聞いた声もよく思い出せなかった。いや、思い出さないようにしているのだろう。今日を以て、N県W市の調査を終了、報告書を完成とする。
報告書作成日:二〇AX年、七月三十日
報告者:中山真一
そういえば、ここ数日、近所で犬の声がうるさい




