始まりの前
神殿の回廊をしとやかに歩く白い影。
中庭には春の花が咲き乱れているが彼女が歩くたび、ふわり、ふわりと動く純白のドレスはその中に咲く大輪の花を思わせる。
すでに刻限は夕刻に近く、沈みかけの太陽によって回廊のどこかしこも橙色に染め上げられているが
その中でも彼女の美しく広がる白金の髪は色あせることなく輝いていた。
ラクーシュ国第一王女、そしてこのラストール神殿の巫女姫セリス、それが彼女。
差し込む西日に目を細めながら回廊を進んでいると、その後ろから何やらあわてふためきながら近づいてくるものがいた。
「巫女姫様っ!」
セリスに仕える巫女の一人だ。余程慌てていたのか呼吸は乱れきっている。
「どうかしたのですか?」
「はいっ、あ…あの実は…」
巫女は言いにくそうに言葉を濁す。
その様子から事を察したセリスは、困ったように肩をすくめた。
「トリスですね?」
「はい…」
「まったく困った子だこと。何処に?」
「海峡の間にて、その…お待ちです」
「そう、ありがとう」
そのまま体を反転させると、神殿の中では反対の位置にある海峡の間へと足を運ぶ。
トリスの場合"お待ち"ではないだろう。
それを裏付けるかのように海峡の間へと近づくにつれ、いつも静かなこのラストール神殿に不釣合いな怒鳴り声が響いてきた。
(やっぱり)
扉を開ければ案の定、妹の姿があり複数の年配の巫女たちに囲まれるように諌められていた。
「あぁ巫女姫様!申し訳ございませんトリス将軍がどうしてもと」
「姉上!!」
巫女たちの間をすり抜けたトリスが、物凄い形相で詰め寄ってくる。
だがセリスはそれを気にも留めずに、にっこりと笑顔で出迎えた。
「どうかしましたか、トリス?」
「どうかしましたか、ではありません姉上!本当なのですかっ!?輿入れなさるというのは!?」
「えぇ、本当ですとも」
セリスのあっけらかんとしたものいいに、トリスはぐっ…と言葉に詰まる。
彼女の経験上、こういった態度をとった姉に口答えをして勝てたためしがない。
「しっしかし!何故教えてくれなかったのですか!?」
「あら、ちゃんと伝えなかったかしら?…昨日」
「昨日じゃ遅いんです!!だって式は」
「明後日」
「何でそう極端に早いんですか!?あああああっ!もうっ!」
そこまで言いきると、収まらぬ感情をもてあましたのかトリスは頭を抱え崩れるようにソファに力尽きたように深く座りこんだ。
セリスはその横にそっと腰掛ける。
「誰か、トリス将軍にお茶をお出しして頂戴」
「はい」
セリスの言葉に巫女たちは下がっていく。
となりで頭を抱えたままのトリスの背を、ゆっくりとなでながら優しく問う。
「大丈夫?トリス」
「…大丈夫なわけ無いでしょう。まったく、半年の行軍から帰ってこれば国はお祭り騒ぎだし諸国のお偉方が来国してるわ父上に何事かと聞いてもにやにや笑ってるだけで…あげく姉上からの使いからは妙な
伝言を伝えられるわで、頭が混乱しています」
「あら変な伝言だなんて。本当は直接迎えたかったのだけれども準備が忙しくてね、だから伝言を頼んだの。婚姻の事だってすぐに連絡しようとしたのよ?
なのにあなたったらバジルの御山に部隊を引き連れて音信不通でこもってしまうのだもの。便りだってそっちから一方的なものばかり…結局ギリギリになって帰ってきたのだからしょうがないでしょう?"トリス将軍”?」
「うっ…それはそうですけど」
いつの間にか戻ってきていた巫女たちの手によってテーブルの上にお茶が用意されていく。
「しかしそれとこれとでは話が別ですよ、"巫女姫様"!!」
「あっ!そうだわトリス、私、明後日の夜を過ぎたら巫女姫ではなくなりますのであしからず」
艶やかに笑う姉に、トリスはいぶかしみながらお茶を口に含む。
「何で…?」
「処女じゃなくなるから」
盛大にお茶を吹き出した。
「まぁ、はしたない」
「”まぁ”じゃありません!!……はぁ」
差し出された布巾で口元をぬぐうとトリスはうつむいた。
「…相手は新生国のルクライツア、という話ではありませんか」
「えぇ、第一王子のシシール殿下です」
セリスも茶を口元に運ぶ。
「何故、そのような小国などに姉上が」
「トリス」
セリスは静かな声でトリスの言葉をたしなめた。
「確かにルクライツアは小国です、建国されてまだ100年もたっていない新しい国。
センチュア大陸一を誇る大国ラクーシュの第一王女である私が嫁ぐにはあまりふさわしくないという声は多く聞きます。
しかしルクライツアは海国,貿易が栄え、新国ならではの若々しい活気に溢れている将来が有望されている素晴らしい国。機獣石も多く出回っていて」
「しかし姉上!」
巫女姫として、王女として語る姉の言葉を止めようと声を荒げるが手でそっと制されてしまった。
「これも我が国のため、しいては世界のためなのですよ。
今、この世界はわが国を含む聖王国・帝国の三大国が支配しているわ、しかしその均衡もいつ崩れるか判らない。そのためにはこの大地や国民を守るためにはこれが一番良い"力"の作り方なの。それはわかるわね?」
「ですがっ、では姉上はそのためだけにその御身、再び犠牲になさるおつもりですか!?」
感極まったトリスは立ち上がって叫ぶ。
「生まれてから今まで、この国のために聖なる巫女姫として祈りを続け予言をしてこられた!!
それを二十歳の誕生日を迎え巫女としての任が解かれると同時に次の枷をおはめになるとは…!王はっ…父上はっ…!!」
その顔が泣きそうに歪む、やがて力がぬけたのか再びソファへとその身を沈めた。
セリスはそんな妹の様子に慈愛の笑みを浮かべると、そっとその身を抱きしめる。
「大丈夫よトリス、心配しないで。それに父上を責めては駄目、父上は私達の父である目にこの国の王なのですから。それにね、父上はこの話が決まる前にちゃんと私の意思も聞いてくれたわ。
だからこれは私が決めたことなのよ」
「しかし…」
「私はこの運命を不自由だとは思わない、この世に生を受けただけでも幸せなのよ。
その上、沢山私のことを愛してくれる優しいお父様とお母様、そしてこんなにも私のことを心配してくれるあなたがいるのだもの…逆にこんなに幸せすぎていいのかしら、と思ってしまうほどだわ」
「姉上…」
普段は滅多な事では泣かぬこの妹がここまで目を腫らして泣いているのだ、余程怒っているのか、悲しんでいるのか。
彼女も国の上に立つ王族の一人としての使命はわかっているはずだ…だからこそやりきれない。
普段は将軍の一人として、並み居る猛者を引き連れて勇猛果敢に動いている妹が今、心の中の葛藤を曝け出す様に”まだまだ子供ね”とおもわず苦笑してしまう、だからこそ愛しい。
そんなことを面とむかって告げれば、この妹は顔を真っ赤にしてそっぽをむいてしまうのだろうけれも。
後で母に改めてこの子のことを頼もう、母ならもっと上手にこの子の荒らぶる心を宥めてくれるだろうから…セリスは陽気な笑みを作ると、トリスに向き合う。
「それにね、シシール殿下はとても素敵な方なのよ?
これで相手が不細工な男でしたら私も父上相手に喧嘩をうっていたかもしれないわ、ふふっ」
姉らしくない言葉にトリスの目が点になるが、すぐにその顔は呆れたように笑った。
「落ち着いたらシシール殿下と一緒に、年に一度はこちらに遊びに来るつもりよ」
「はい…お幸せに、姉上」
「ありがとう、トリス」
すると二人の会話が終わるのを見計らったように海峡の間の扉が開かれる、するりとその扉から黒い神官服に身を包んだ男が入ってきた。
「巫女姫様、”禊の儀式”準備が出来ました、おいでくださいませ」
「ご苦労様、カルジ神官長」
セリスはトリスの頬にそっと口付ける。
「"禊の儀式”の支度にいかなくては…トリス将軍、明日の宵の儀式での警護頼みましたよ」
「心得てございます、巫女姫様」
セリスが立ち上がるとその純白のドレスがふわりと揺れ、彼女はそのまま振り返ることもなく静かに扉が閉まる。
後に残されたのは、トリスとカルジの二人。
「行かぬのか?」
と、トリスが問えば
「後から参ります故」
と、カルジは応えた。
暫くの間、沈黙が流れたが先に静寂を破ったのはカルジだった。
「将軍は今回の婚礼、反対でございますか?」
「無論…だが既に決定されたこと。姉…巫女姫様もご承諾なされたご様子、いくら十将軍の私が、
反対だと騒いだところでどうにもなるまい」
「左様で」
仏頂面で応えればくすくす、とカルジが笑うのでむっと眉根を寄せて尋ねた。
「何がおかしい?」
「…失礼。いえ、いかに将軍が巫女姫様のことを大事に思っていらっしゃるかが伝わってまいりましたもので、つい」
「!!」
トリスは顔を真っ赤にすると、ふんっとそっぽをむいた。
カルジがまたクスクスと笑った。
*
白い布が水の上にたなびいて落ちてゆっくりと沈む。
それに混じって白金色の糸が細く広がっていく。
白い花がちりばめられた水の中心に、白い布を一枚纏っただけの姿でセリスは立つ。
桜色の爪が動き細く白い指が花びらを捕らえた。
―・・クスクスクスクスクス
波紋が広がり意思をもった水柱たちが、セレスと戯れていく。
「どうしたのですか、精霊達…何がそんなに楽しいの?」
―・・クスクスクスクスクス
「あなた達とこうして触れ合えるのも今日で最後となるでしょう」
―・・ドウシテ?
―・・何デ?
―・・何故?
「ルクライツアに輿入れするのですよ」
―・・アノ砂漠ノ国ニ?
ー・・カラカラニカワイタ精霊バカリヨ
―・・イジワルリーネガアソコニハイルワ
―・・駄目ヨ
―・・ダメダメ
行かないで、というように水がセリスにまとわり付いてくる。
セリスは憂いた瞳で水柱を愛しく見つめた。
「ラクーシュの精霊たち、これも運命」
―・・シュリクハ連レテイクノカイ?
「いいえ。あの子は私の機獣、しかしこのラクーシュの機獣でもあるのです。
どうして他国へ連れて行けましょうか」
―・・ソレデハオマエヲ
―・・アナタヲ
―・・守ルモノガ
―・・イナイワ
「いいのです、この国のことは一つももらしはしない。
それがたとえ夫であろうと誰にも、機獣の秘密も”予言”もすべて…」
と、纏わりついていた水柱が突如、バシャバシャと崩れ落ちていった。
シー・・ンと辺りが静まりかえる。
「精霊…?」
すると水の一つが微かに盛り上がり細い細い声がした。
―・・クルヨ
その言葉を最後に、精霊の声がぴたりと聞こえなくなってしまった。
まるで何かに怯えているかのように…静まり返っているはずなのにピリピリと張り詰めた空気が痛い。
ガチャ―・・
朝まで開くことの無い禊の間への大扉が開き、風が吹き込んでくる。扉の向こうには一つの影。
振り返りその影を捉えたセリスの瞳は大きく見開かれた。
「どうして、あなたが…」
影は静かに笑う。
「お迎えに上がりました」
風が、強かった。
*
「…姉上?」
見上げた夜空には無数の輝きが張り付いている。
急にあたりを落ち着きなく見回すトリスに副官の一人が首をかしげた。
「いかがなさいましたか?」
「いや、なんでもない…少し神殿のほうへいってくる。後は任せた」
「はっ」
トリスは天幕を抜け、禊のために使われている神殿へと足早に入っていく。
禊の間へと続く通路の扉の前へと迷うことなくたどり着けば、その門扉の前には守りの巫女が四人鎮座していた。
「いかがなさいましたか?トリス将軍」
「いや…禊の間への出入り口はここだけ…だったな?」
「えぇ左様でございます。この”帰路への大扉”をとおり”胎内の通路”を進み行き”白刃の扉"をくぐり”禊の間”へと…」
「姉上以外、誰も中には入っていないな?」
「それは無理でございますよ、トリス将軍」
近くに控えていたのであろう、後ろからカルジ神官長がやってくる。
「この中には許されたものしか入ることは出来ないよう、結界が張られております故。
まして今は巫女姫様の禊中、いつにもまして厳重に封印が施されております…機獣をもってすれば敗れないことも無いかもしれませんが、よもやこの警備の中、そのように目立つ行為に及ぶものはおりませんでしょう。自殺行為も甚だしい」
「そう、だな」
「何かございましたか?」
「いや、何でもない。失礼した、後を頼むぞ」
紅い衣をひるがえし立ち去っていくトリスに、カルジは深々と頭を下げる。
…だから誰もその口元に浮かんだ笑みを見ることはなかった。
「お任せくださいませ」
誰も、気付いていなかったのだ。