第六章:声が街を変えていく
夏の終わり、重たく湿った風が吹き抜ける午後。
その風に押されるように、未来は折れかけたチラシスタンドを立て直していた。
「ねえ、これ本当に人来るかな」
貼り終えたポスターの角を指で押さえながら、未来がぽつりと漏らす。
「来るっすよ。前よりバズってたし、年配層にも届いてる感じだったし」
鳥居はスマホをいじりながらも、どこか自信ありげだった。
未来はふっと笑う。「“感じ”ね。……その“感じ”が、今いちばん怖い」
そのときだった。
「おい、ちょっと」
乱暴に張り紙をはがす手が目に入る。振り向けば、腕章を付けた男が数人。
その後ろには、公民館の管理人が小さくうつむいて立っていた。
「この集会、許可おりてないから。撤収してくれる?」
淡々と、しかし強引な言い方だった。
未来は驚きに目を見開きながら、胸ポケットからコピーを取り出す。
「いえ、ちゃんと許可は——」
「形式と実際は違うんだよ。最近“トラブルが起きる可能性がある”ってことで、町内会から注意されてるんでね。こういうの、困るんだ」
「……誰が、そんな注意を?」
鳥居の問いに、男たちは曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
空気は一気に重くなる。通りすがりの住民たちも、気まずそうに目をそらしていった。
沈黙があたりを覆った、そのとき——
「よう、随分強引なやり方じゃねえか」
割り込んできたのは剛だった。作業着のまま、鋭い目つきと分厚い腕で間に立つ。
「許可証はここにある。写しも本物も。しかも、今日は地元紙の記者が入るって伝えてある。……中止にするってんなら、それ相応の理由を、そっちが持ってこいよ」
剛の隣には、たしかに記者らしき若者の姿があった。
男たちは明らかに焦った顔になり、舌打ちするように踵を返して去っていく。
張り詰めた空気が、ようやくほどけた。
「……剛さん、やば、かっこいい……」
鳥居が感嘆すると、剛は無言のまま、ちらりと肩越しに振り返った。
「準備が遅れてんだ。会場、急げ」
夕刻。
会場には、思いのほか多くの人が集まっていた。
顔ぶれはさまざまだ。仕事帰りの作業服のままの人もいれば、ベビーカーを押す若い母親、腕を組んでじっと見つめる年配の男性もいる。
――だが、全員が「何か」を聞こうとしていた。
その空気を感じながら、冬馬は、マイクの前に立った。
「……こんばんは。東雲冬馬です」
マイクに少しノイズが乗る。だが、誰もそれに文句を言わなかった。
「まず……ありがとう。今日、ここに来てくれたみんなに、感謝したい。
俺たちは、正直、何の後ろ盾もない。ただの町工場の集まりみたいなものです」
静かに、けれど言葉に芯を持たせて、続ける。
「でも、俺には現場があります。泥まみれで働いて、汗かいて、日々を生きてる仲間たちがいる。
そこで感じた“違和感”を、黙って見過ごすことはできなかった。
“なぜ、こんなに制度が回ってないのか”“なぜ、誰も声を上げないのか”……その疑問の先に、今日の俺がいます」
客席が静まり返る。
「政治なんて、無理だと思ってた。けど、無関心でいたら、誰かが代わりに決めちまう。
だったら、自分が立つしかねぇだろって……ただ、それだけの話です」
力強い拍手が起こったわけじゃない。
でも、いくつもの頷きが、ゆっくりと会場に広がっていった。
舞台の横で小さく息を吐いた未来は、マイクを受け取ると深呼吸した。
「……私、高校三年生です。今、進路に悩んでる時期です。
でも、将来を決めようとするとき、“この国で”って思ったときに、不安になったんです」
言葉に詰まる。
誰かが咳払いをした。空調がうなる音が耳に残る。
「何か言っても、“子どもは黙ってろ”って空気がある。
でも、今の世の中って、“何もしない大人”の方が多くないですか?」
その一言に、会場がざわめいた。
だが未来は、顔を上げて言った。
「だったら私が、“声を出す子ども”になります。私だって、この街に“希望”が欲しい。
誰かが“ここで暮らしてもいい”って思える場所にしたい。それだけです」
拍手が、今度ははっきりと鳴り響いた。
それは、遠慮がちなものではなかった。確かに、何かが伝わったという証のような音だった。
夜。片づけが終わった後、事務所の前で冬馬たちは麦茶の缶を囲んでいた。
「……未来、すごかったな」
冬馬が言うと、未来は「もうだめ、手汗で原稿ベタベタ」と真っ赤になっていた。
「言葉って、すごいな」
剛がぼそっと呟く。
サクラノは、薄い月を仰ぎながら囁いた。
「今日の声は、風になる。
でも、それに火がつくかどうかは――これから、ね」