第五章:壁の向こうにあるもの
ラジオブースの空気は、まるで“音”のない世界だった。
ほんの少しの息遣いさえ、すべてマイクに拾われてしまう。
それが、冬馬の背筋をぴんと伸ばさせる。
向かい側のガラス越し、スタジオのディレクターが小さくOKサインを出した。
横に座るのは、落ち着いた笑顔の女性――藤井静香。黒髪のボブカットに、知性と優しさを感じさせる瞳。
彼女は冬馬の緊張を悟ったのか、軽く頷いてくれた。
「ご安心ください。うちのリスナーさんは“等身大”の声が好きなんです。……ね、東雲さんは、今の日本の政治に、どういう思いを持ってますか?」
その問いに、冬馬は一瞬、言葉を探した。
でも、迷わなかった。
今の自分に話せること。今の自分だから話せること。それを話せばいい。
「……俺は、政治に希望を感じてなかったです。ずっと。
でも、それって多分、俺だけじゃない。周りの人も、どこかで“諦めてた”。“変わらないもんだ”って思いながら、見て見ぬふりをしてる」
静香は微笑みながら頷いた。うながすように、口を開く。
「それでも、あなたは諦めなかったんですね」
「……はい。
でも、きっかけは、ほんの些細なことでした。
“なんかおかしくね?”って、現場で働きながら思っただけです。道路工事の現場で、使われない予算が回ってきて、でも実際に必要なところには届かなくて……そのとき、“このズレって、誰が正すんだろう”って」
言葉を重ねるたびに、喉が熱を帯びていく。
「田中角栄の言葉に、“政治は生活であり、現場である”ってあるんです。
俺、それを本当に“現場”で痛感しました。現場の声って、誰も聞かないんですよ。上に届かない。だったら、自分が声を上げるしかない。……それだけです」
沈黙。
静香が、そっと呼吸を整えて言った。
「あなたの声、きっとどこかで届いてます。……私にも、届きました」
その言葉が、じんわりと心に染み込んだ。
翌日、ラジオ局のホームページには、冬馬の出演回が「今月最高の再生数」を記録したと発表されていた。
YouTubeのアーカイブも瞬く間に再生数10万を突破。
未来は「うちの学校でもバズってましたよ」と誇らしげに言い、鳥居は「これは“勝ち筋”見えてきたっす!」とガッツポーズ。
サクラノ(朧)に至っては、「これで次はTVよ」と謎のメディア野望を口にしていた。
だが――
「東雲くん、ちょっと、いいかな?」
そんな明るさに水を差すように、低く太い声が事務所に響いた。
振り向いた冬馬の視界に映ったのは、品のあるスーツを着こなし、整えられた白髪と眼鏡をまとった男――
根津正義。
市議会議員、当選5期目。地元を“仕切ってきた”存在であり、裏では「若手潰しの根津」と呼ばれていた。
「話がある。少し時間をもらえるかね?」
事務所の打ち合わせ室。
張り詰めた空気の中、冬馬と根津が対面していた。
その背後には剛が静かに立ち、朧は腕を組んで壁際に。未来と鳥居は別室に移された。
「君のやっていることは、実に情熱的だ。若い。率直に言えば、悪くない」
根津は静かに言った。
けれどその瞳は、冬馬の顔ではなく“背後”を測るように揺れていた。
「しかしね、世の中というものは、“熱”だけで回るわけじゃない。
政治とは、時に“何もしないこと”が最善であることもある」
「……“何もしない”ことで、現場が壊れてるんですよ」
冬馬が、唇を噛みしめながら言い返した。
剛の指が、テーブルの下でゆっくりと拳を握るのが見えた。
「俺は……黙っていられなかった。ただそれだけです。
この町で生きてる人たちの声を、ちゃんと政治に乗せたい。それって、そんなにおかしいことですか?」
「――正論だね」
根津の笑顔は、どこまでも穏やかだった。
だがそのあと、彼はこう言った。
「ただ、そういう正論は、時に多くの人間を“巻き込み過ぎる”ことがある。
その覚悟、あるかな? 東雲くん」
根津が去ったあと、事務所にはしばらく言葉がなかった。
冬馬は背もたれに沈み、深く息を吐いた。
まるで胸の内に冷たい水を流し込まれたような、そんな沈黙。
「……あいつ、マジで脅してきたぞ」
剛が低く呟いた。拳を握りすぎて、関節が白くなっている。
「“巻き込みすぎる覚悟があるか”だって? あれは完全に、警告だ。
何かが起きても『お前のせいだぞ』って、そういう意味だ」
朧も険しい目をしていた。
「手口はいつも同じ。圧をかけて、萎縮させる。……でも、それで引き下がるなら、そもそもここまで来てないはずよ、あなたは」
冬馬は、小さく頷いた。
けれどそのとき――
「……私……ちょっと、外に出てきます」
そう呟いたのは、未来だった。
帰ってきたばかりの彼女が、上着も着ずに出ていこうとする。
「おい、どうした未来?」
朧が声をかけるも、彼女はそれに答えなかった。
コンビニ裏の空き地。
傾いたベンチに座り、未来は黙ってスマホを見つめていた。
その画面には、ラジオのアーカイブ動画と、炎上しかけのコメント欄。
《なんか高校生が出てきてるの草》
《ガキを政治に巻き込むなよ》《“感動”ごっこ》
言葉のナイフは、誰彼構わず刺さる。
「……なんなの、もう……」
自分がしたのは、ただ応援しただけ。
学校の誰かが“ネタ”にして笑ってた。それだけで、心がグラつく。
“政治”って、こんなにも怖いの?
そのとき、足音が一つ。
「ここにいたか」
振り返れば、冬馬だった。
汗がにじむ作業着のまま、麦茶のペットボトルを手に持っていた。
「探したぞ」
「……べつに、怒ってないし……泣いてもないし」
「そういうのは、怒ってるか泣いてる時のセリフだよな」
冬馬は隣に腰を下ろし、麦茶を差し出す。
未来は黙ってそれを受け取り、ひと口だけ飲んだ。
「私、ただ応援したかっただけなのに。
なんか、“やっちゃいけないこと”だったのかなって」
その声は、今にも折れそうだった。
冬馬は、ほんの少しだけ、夜空を見上げた。
遠くの街灯が霞むように揺れている。
「俺さ、あの時、マイクの前で言っただろ。
“この町を、誰かが帰れる場所にしたい”って」
「……うん」
「それって、未来とか、鳥居とか、剛とか、朧とか……
“帰る”って決めた人が、傷つかずに済む町ってことだと思ってる」
未来は顔を伏せた。
「でも、現実って……」
「現実は、クソだよ。
でも、それを“変えたい”って言った俺が、こんなとこでくたばってたら――
本当にクソだ」
冬馬は、笑っていた。疲れたようで、でもどこか晴れやかな笑み。
「未来。お前が泣いたら、俺も悔しくなる。
だからもう一度、一緒に“声”出してくれないか?」
未来は、じっと彼を見た。
その目の奥で、何かが確かに灯った。
「……うん。わかった。もうちょっと、私もやってみる」
数日後、剛が印刷したA3チラシが完成した。
『シノノメ建設主催:第2回 地域ミーティング』
テーマ:「“無関心”は誰かの声を殺す」
ゲストMC:冬馬×早坂未来×鳥居翼
ラジオ出演記念トーク/参加無料
剛は無言で印刷物をトラックに積み込み、建設仲間の職人たちに頭を下げて回った。
「頼む。“俺たちの場所”を守りたい」
寡黙なその声に、誰もが頷いた。
⸻
◆そして――
サクラノは、夜の神社でただ一人、月を仰いでいた。
その背に浮かび上がる九尾のシルエット。
光と闇が混じるその姿に、風が優しく舞い込んだ。
「……そろそろ、次の一手が来るわね」
その目は、どこか哀しげで、どこか期待していた。
「冬馬。あなたは今、“日本”という獣の喉元に、指をかけたのよ」