第四章:言葉が火を灯すとき
物語が強く動き出すような回です!
静かな夜だった。
建設会社「シノノメ建設」の事務所は、新潟市郊外の住宅地にひっそりと佇んでいる。建設資材が積み上げられた裏手には、夏草がざわざわと風に揺れていた。
夜の風が通ると、薄いサッシがカタリと音を立てる。室内は蛍光灯の白い光に包まれ、まるで島のように外界から浮いて見えた。
その中央に、冬馬はいた。
まだ夕食も食べていない。現場帰りの作業着のまま、ホワイトボードの前に立っている。
ホワイトボードには、今日開かれるはずの“地域ミーティング”のテーマが書かれていた。
『この町に足りないもの』
文字の横には、カラフルなマーカーで描かれた線や矢印。何度も書いては消された痕跡が薄く残っている。
冬馬は、乾いたマーカーの匂いに包まれながら、静かにつぶやいた。
「……やっぱ、無謀だったか?」
時刻は、19時7分。
ミーティング開始から7分が経過。椅子は10脚用意してあったが、埋まっているのは――ひとつだけだった。
そして、その椅子に座っていたのは、制服姿の女子高生だった。
「無謀じゃないですよ。挑戦です、社長さん」
セーラー服の襟元を直しながら、彼女――早坂未来は笑った。
声に張りがあり、言葉を投げる時の目に一切の迷いがない。
「だって、こんな“地元の声を聞く会”なんて、誰も開いてくれなかったもん。政治家も、市役所も、学校も。私、最初びっくりしたんですよ」
冬馬は、少し口元をゆるめた。
「そうか……びっくりしたか」
「ええ、びっくりしました。で、ちょっとワクワクしました。で、来ました」
「行動力すごいな、未来さんは」
「でしょ? 褒めてください、もっと」
「褒めてるだろ、もう」
未来の言葉は、軽やかで、それでいて芯がある。
彼女は、冬馬の演説を見たあの日から、何かに火を点けられたように、この会に参加したのだった。
そして――
「すみませーん!入っていいですか!?」
ガラガラと玄関の引き戸が開く音。手にノートPCを抱え、首にヘッドホンをぶら下げた男子高校生が息を切らして現れた。
「ほら来た。紹介します、うちの動画担当。未来が無理やり引っ張ってきたらしいです」
「無理やりじゃないっすよ!?自発的です!ほぼ!」
男は額の汗を拭きながら、頭を下げる。
「**鳥居翼**です。ちょっと動画とかやってまして。冬馬さんの演説、撮ってて勝手に切り抜き出したら、思ったより伸びちゃって……」
冬馬は目を丸くした。
「“伸びた”って、どのくらい?」
「昨日の夜上げたTikTok、朝までに1万2千、今は……」
スマホを見せる鳥居。そこには、再生数3万、いいね2万近くの動画が表示されていた。
「……マジで?」
「“地元の社長が語る政治”ってタグ付けたら、なぜか政治クラスタが盛り上がって……あ、コメント欄、面白いっすよ。“建設会社なのに演説うまい”とか、“狐映ってる”とか」
「おい!そこのコメント問題あるだろ!」
「やっべ〜、尾出てたわ」
カチャン、とマグカップが置かれる音。事務所の奥から出てきたのは――サクラノ。
今日も人間フォームの桜野朧の姿で、落ち着いたグレーのワンピースを身にまとっていた。
「なんにせよ、結果オーライよ。想いは、ちゃんと届いてるってこと」
朧はふっと笑って、冬馬の手元に紙を差し出した。
「さっき、剛がプリントしてくれたの。“第二回ミーティング”のチラシ案よ。続けていくことが大事だから」
「……もう次の準備してんのか。さすが、段取りマスター」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
そのとき、無言でコーヒー缶を差し出してきたのは剛だった。
缶の上に無骨な指がのっている。そのまま、ぼそりと一言。
「お前が動き続けるなら、俺らも動く」
冬馬は受け取った缶を見つめて、目を閉じる。
心の奥で――あの言葉が響いていた。
「政治は力だ。力は数だ。数は熱だ。熱は情だ」
——田中角栄
手で握れるものだけが力じゃない。
数字に見えない情熱こそが、本当の力になる。
冬馬は、ぐっと背筋を伸ばし、マイクの前に立った。
テーブルには未来、鳥居、朧、そして剛が座っている。
まばらでもいい。この輪が、やがて広がるのなら。
「第一回、地域ミーティング。始めます」
ミーティングが始まって、30分。
空調の音だけが響く静かな会議室で、冬馬の声が少しずつ調子を取り戻していた。
「……たとえば、空き家をどう使うかとか。若い人の働く場を増やすには何が必要か。俺、答えを持ってるわけじゃない。でも、一緒に考えることはできると思う」
言葉はまだ不器用だ。それでも、聞く人の心を打つのは、飾り気のない“生”の声だった。
「学校でも、家庭でも、正解しか求められない気がして……でも、世の中ってグレーが多いじゃないですか」
未来が言う。
「“わかんないけど、考えてる”って言ってくれる大人が、いたほうが安心するっていうか……」
その横で、鳥居が手を挙げた。
「動画って、正直“雰囲気”っす。ノリで流れてく。でも、ノリの中にも“本物”ってのがある。冬馬さんの演説は、それだった」
未来と鳥居の言葉が、冬馬の胸に静かに染み込んでいく。
剛は黙って頷きながら、未来の水の入った紙コップにさりげなく新しい氷を足していた。
(この場所が、誰かにとっての“最初”になるかもしれない)
そんな思いが、じわじわと、胸の奥に熱を持って広がっていた。
◆翌朝
事務所に差し込む朝の光は、やけにやさしかった。
カーテン越しに漂う静けさが、嵐の前の静寂のようにも思えた。
「……おい、冬馬。起きろ」
「うーん……もう一現場……」
「現場じゃねぇ。現実だ。起きろ。バズったぞ」
剛の無慈悲な声とともに、スマホの画面が冬馬の目の前に差し出される。ぼやけた視界に映ったのは―― 《#新潟の社長が語る政治》《#この町に火を灯す人》
X(旧Twitter)のトレンド3位。
「……嘘、だろ……?」
寝癖のまま冬馬が呟くと、朧が奥からコーヒー片手に現れた。カップは“狐印”入りの自家製。
「嘘じゃないわよ。朝の情報番組、地方ニュース枠でも取り上げられてた」
「……こっちが何もしてないのに?」
「昨日の動画、鳥居くんが拡張版編集してYouTubeに上げたでしょ?それが、あるインフルエンサーの目に留まって、リポスト連鎖が始まったわ」
「冬馬さん、コメ欄、すごいっす。称賛もあるけど、叩きも来てる。アンチってわけじゃなく、“政治を語る素人”に反応してる感じ」
「……うん。わかってた。でも、やっぱちょっとビビるな」
「その“ビビりながらも立ち続ける”って姿、けっこう刺さるんすよ。共感って、そういうもんで」
鳥居がサムズアップする。
冬馬は、ふぅっと深く息を吐いた。手は震えていない。でも、胸が少しだけざわついている。
(これは、もう“遊び”じゃない)
冬馬は、スマホの画面を見つめながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
Xのタイムラインには、見知らぬ誰かの言葉が無数に並んでいる。
《この人、何者?》《田舎の人間でも、こんな熱いこと言えるのか》
《演説聞いて泣いた。投票したい》《狐、かわいい》
「最後のは絶対余計だろ……」
苦笑しながらも、胸の奥には重たい感情がじんわりと溜まっていく。
称賛がある。共感もある。けれど、その裏側には、冷たくて尖った“反発”も確かにあった。
《素人が政治を語るな》
《現場の人間は現場にいれば?》《感情論はいらない》
指が震えたわけじゃない。
でも、脳の奥のどこかで警鐘のような音が鳴り続けていた。
「お前、大丈夫か?」
低い声が背後から聞こえる。振り返ると、剛が壁にもたれて立っていた。
腕を組み、表情はいつもと変わらない。
「その顔は、“やるしかねぇ”って思ってる顔だ。けど、“このままでいいのか”とも思ってる顔だ」
「……図星すぎて反論できねぇ」
「俺も最初はお前が何やろうとしてるのか、わかんなかったよ。でも今は、たしかに伝わってる。少なくとも、あの動画の中のお前は、立ってた。誰にも流されずに」
剛はゆっくりと言葉を区切るように、真っ直ぐな目を向けてきた。
「問題は、それを“続けられるか”だ」
冬馬は、無意識に自分の胸元を握っていた。
服の下にある心臓が、ドクン、とひときわ強く鳴った気がした。
「……怖いよ、正直。ちょっと調子に乗ってんじゃねーのかって思われてる気もするし。
俺なんかが、こんな大事なこと語っていいのかって。……俺、ただの建設屋だぞ?」
その言葉に、朧が静かに口を開いた。
「“ただの建設屋”じゃなきゃ、あの言葉にはならなかった」
朧の声は、まるで水面のように静かで、どこか慈しみを帯びていた。
「政治家の演説は、どれも型にはまってる。“こう言えば拍手が来る”って言葉ばかり。でも、あなたは違った。あなたは“現場の人間”として、生活の匂いがする言葉で話した」
彼女は紅い爪で机を軽く弾いた。
「だから、響いたの。嘘がなかったから」
「……サクラノ……」
「それと、これ」
朧はポケットから何かを取り出して、そっと差し出した。
手のひらサイズの白い封筒だった。
「ラジオ局から。ゲスト出演の正式依頼よ。パーソナリティは、藤井静香。地元FMではそこそこ人気らしいわね。彼女が直接、あなたを“話し手”として迎えたいって言ってきたの」
冬馬は封筒を見下ろす。中には、ラジオ局からの丁寧な招待状と番組台本の写し。
そこに書かれていた文字が目に飛び込んできた。
『特集:言葉で町を変えるということ。現場からの声・東雲冬馬』
「……マジかよ」
思わず口から漏れる。
とうとう、本当に、“外の世界”に声が届いたのだ。
鳥居が横から顔を出した。
「ていうかこれ、地元FMといっても、リアルタイムでYouTubeでも配信されるっぽいです。マジもんの“拡声器”っすよ」
「……もう逃げ場ねぇな、俺」
冬馬が言うと、剛がコーヒー缶をぐいっと飲み干した。
「逃げる気だったのか?」
「違ぇよ……」
そう言って、冬馬は拳をぎゅっと握りしめる。
「腹、括った」
深く吸い込んだ空気が、肺を焼くように熱い。
「俺はこの町を、胸を張って“帰れる場所”にしたい。それだけのことだ。
それだけのことだけど――それができるヤツが、どれだけいるよ」
その言葉に、誰も何も返さなかった。
でも、それでよかった。
今この部屋にいる4人が、すでに“答え”を共有していたから。
⸻
そして夜。
FM新潟のスタジオ。
マイクが灯り、ガラス越しに微笑む女性――藤井静香の声が、静かに空間を包み込んだ。
「――今夜のゲストは、“町に火を灯す社長”こと東雲冬馬さんです」
冬馬はマイクに口を近づける。
誰の言葉でもない、自分の言葉で、またひとつ火を灯すために――
「こんばんは。東雲冬馬です」
皆さんのご意見待ってます!