第三章:同志は現場から生まれる
3章:同志は現場から生まれるよろしくお願いいたします。
真夏の朝。空は青く突き抜け、セミの声が、これでもかと耳を刺してくる。
新潟市の外れにある、シノノメ建設のプレハブ事務所。その前で、東雲冬馬はホワイトボードに紙をぺたりと貼りつけていた。
内容はこうだ。
【地域ミーティングのお知らせ】
あなたの声、聞かせてください。
日時:〇月〇日 19:00〜 場所:シノノメ建設会議室
貼った瞬間、額から汗が垂れた。じっとりと肌にまとわりつく湿気の中、冬馬はタオルで額を拭いながら、小さく息をついた。
「……本気でやるって決めたなら、やるしかない」
言い聞かせるように呟いたそのとき。
「お前、それマジで貼ったのかよ」
低く落ち着いた声が背後から届いた。
振り返れば、短く刈り上げた黒髪に鋭い眼差し。褐色の肌に、Tシャツと作業ズボンという無骨な出で立ち。冬馬の相棒にして、建設会社の副社長――篠崎剛が、工具箱を肩に担ぎながら立っていた。
「おはよ。……ていうか、その恰好で来るの、もうちょい気にしろよ。近所の人に怖がられるぞ」
「現場の汗と泥が勲章だ。においも混ぜてな」
「だから、その香水感覚やめろって……」
剛はホワイトボードの紙をじっと見つめた。
「地域ミーティング、ね。……来るか? 誰か」
「来てほしい。正直、怖いけどさ。でも、声を聞くって決めたから」
冬馬が素直にそう言うと、剛は工具箱をトラックの荷台に投げ入れながら、ボソリと応えた。
「……なら俺は、黙って仕事してる。金と信頼は、現場で稼ぐ」
短く、だが力強い言葉。無骨な背中が、それ以上の意志を語っていた。
「なあ剛、お前も参加してくれたら心強いんだけどな」
「俺は、演説とか座談会とか向いてない」
「知ってるけど!あえて言うなよ!」
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◆午後:団地修繕現場
築50年を超える集合住宅。錆びた鉄の手すり、ひび割れたコンクリート、軋む階段。だが、誰かの暮らしの跡がそこには確かにあった。
冬馬はヘルメットをかぶり、汗だくの作業服で配管チェックの合間に住民へ声をかけていた。
「こんにちは!水道管、ここ最近トラブルとかありませんでしたか?」
ベランダにいたおばあちゃんが、首をかしげてから言った。
「……あんた、昨日、祭りで演説してた子じゃろ?」
「はい。ちょっとだけ、地元のことを……」
「まあ、真面目そうな顔してたよ。どうせ何も変わらんと思っとったけど、そう言い切る若者は珍しいねぇ」
おばあちゃんは、少しだけ笑った。その笑顔が、なぜか心に残った。
(“変わらない”って思ってる人ほど、本当は変わってほしいと願ってるのかもしれない)
その後も、何人かに声をかけた。無視されることもあったが、立ち止まって話してくれる人もいた。
郵便配達員、高校生、主婦――名前も知らない人たちが、わずかに口を開いてくれた。
(小さいけど……ちゃんと届いてる)
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◆夕方:事務所にて
日は傾き、オレンジ色の陽光がプレハブの窓を照らしている。
戻ってきた冬馬が扉を開けると、室内にはすでに人の気配があった。
香るのは、白檀とミントを混ぜたような、どこか不思議な匂い。
「おかえりなさい、社長さん」
くるりと椅子を回してこちらを見たのは――
人間フォームのサクラノ、桜野朧だった。
黒のセットアップスーツに薄紅色のブラウス。髪は美しくまとめられ、金色の瞳が微笑んでいる。
「……今日の服、やけに真面目だな」
「あなたの“選挙戦”が始まりそうなんだもの。私も秘書官モードってやつよ」
「いや、まだ出馬すらしてないからね!?」
「で、今日は?」
「10人くらい……いや、15人。ちょっとだけど、話せたよ」
冬馬が水を飲みながら答えると、朧はゆっくりと頷いた。
「その“ちょっと”が未来になるの。地元の声を聞く政治って、そういうことよ」
「けど、ほんとにこれでいいのか……俺、政治なんてよく知らないし」
自分でも不安は拭い切れなかった。だが、剛が隅でビール缶を開けながら、ぽつりと呟いた。
「だったら、俺が支える。表に立つのはお前。後ろは任せろ」
冬馬が驚いたように振り返ると、剛は無表情のままビールを一口。
「どうせお前、勝手に突っ走る。止めるより支える方が早い」
「……なんだよ、それ」
「戦うなら、俺が“選対本部長”ってことで」
「肩書き勝手に作るな!」
「そんくらいの覚悟見せてんだよ、バカ」
冬馬は、笑って――でも、目の奥が少しだけ熱くなっていた。
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◆夜:川沿いの帰り道
作業のあとの川風は、昼間の熱を和らげてくれる。
冬馬は一人、河川敷を歩いていた。街灯の明かりが点々と続き、虫の声が耳に残る。
ふと、ポケットから折り畳んだ紙を取り出す。あの女子高生――未来がくれた、ちょっと歪んだ名刺のようなメモ。
《“ちょっと”応援したいかも。がんばってください。》
「“ちょっと”でも、嬉しいんだよな、こういうの」
誰に言うでもなく呟いたそのとき、ふわりと甘い風が吹いた。
「その気持ち、大事にしなさいよ」
紅い尾が月明かりに揺れる。いつの間にか、サクラノ――朧が隣を歩いていた。
「人は一人じゃ動けない。でも、たった一言で、世界を変えられることもあるの」
「……それ、昔の偉人のセリフ?」
「違うわよ。私のよ。数百年生きてる女の重み、なめないで」
冬馬は肩をすくめた。
「ありがたく頂戴します、“年上の女狐様”」
「よろしい」
二人の笑い声が、夜風に溶けていった。