嘘であれと願った日
「日向透女史はいいの?」
「え? なんで? いいの、とは?」
秋春の言葉に、作之助の動きが止まる。
固まる作之助ではなく、作之助が鞄から取り出したお弁当箱を見ていた。質問の意味を理解した作之助は、おどけたように笑った。
「いいよ。あと勘違いしてる、確かに殺害予告されただけで、付き合ったりしてないよ」
「殺害予告されただけって、変な話だけどね。だけど、本当にいいの?」
「? うん、いいよ」
二度も確認してきた秋春に首を傾げた作之助であったが、理由はすぐにわかることとなった。
「……白藤くん。すこーーーーしだけ、月本くんを借りてもいいかしら?」
自分の背後から聞こえた、怒気を含んだ透の声に驚いた作之助は、勢いよく後ろへ振り返る。そこには、にこやかに笑う透が立っていた。
作之助には、お昼ご飯を透と食べる約束をした記憶はない。もちろん、忘れている可能性だってある。可能性はいつだって0じゃない。確認しようと口を開く前に、秋春が答えた。
「どうぞ。でも、次の授業までには戻してね」
「ありがとう。えぇ、約束するわ」
「ぐぇッ」
秋春の了承とともに、透は作之助の襟首を掴み、引っ張る。引っ張られた作之助はガタガタと机を揺らし、お弁当片手に逆らうことなく、透についていく。
首が締まって苦しそうな作之助を、秋春は静かに見送った。
屋上で二人並んで、お昼ご飯を黙々と食べる。静かに流れる白い雲と、その隙間から覗く青い空は平和そのものであった。
食べ終わった後にも、二人の間には緩やかに、でもしっかりと重たい緊張で線が引かれている。その線の上に空のお弁当箱を置いた作之助が先に口を開いた。
「あの後、どうしたの?」
すべてを灰に変えた夜は、二人の記憶には新しく、鮮烈で、鼻にまとわりつく金木犀の香がまだ底にこびりついている。
漫画や、アニメの主人公のように救うなんてできず、二人の結末はハッピーエンド手前の横道に逸れていた。
無害で、無垢で、足手まといでしかなかった少年は、飛び散った朱色を、揺らめいた赤色を、忘れられないでいた。いや、忘れられるわけがないのだ。己の無力さを、あれほど痛感した日はない以前に、普通の高校生である月本作之助には荷が重かった。
アカネとの生活は不思議なだけで、普通であった。
路地裏での透との出会いは、まるで少年漫画の始まりのようにわくわくした。
幸せで、不幸せな退屈な日常の変化に、確かに胸が躍った。
けれど現実はどこまでも厳しく、作之助の心は、重力に縛られた身体を置いてふわふわとヘリウムで膨らませた風船のように、どこかへと飛んでいく。
「どうしたも、こうしたも、あなたもその場にいたんだから知ってるでしょ」
「うん、そうなんだけどね。そうじゃなくて、あー……」
言い淀む作之助に、透は「あぁ、そういうことね」とぽつりと呟いた。
作之助の言っている“あの後”とは、燃やし尽くした全てを照らすように昇った朝陽を背後に、使えるものを使うという方針のもと二人はアカネに連絡をしたのだった。
「え、めんどくさ」
「さすがに夜が明けたら森は焼け野原でした、はヤバいでしょ」
もちゃもちゃと文句を連ねるアカネに、作之助は粘る。
「どうしたって、俺たち二人じゃ証拠の隠滅はできないんだ。アカネさんしか、頼れる人はいないんです。だから、お願いします」
数秒の沈黙を挟み、通話は切れた。
「はいはい、証拠隠滅すればいいんだろう? まったく、私を顎で使うのは作之助、キミぐらいなものだよ」
呆れたような態度をしながら、その声色は少しだけ嬉しそうなアカネに、透は引いた。いろいろ理由はあるのだが、最たるものが、どこにいたかは知らないが、瞬きの間に自分たちの目の前に音もなく現れた事実に引いた。
「木はなんでもいいのかい?」
「―――金木犀でお願いします」
「……へぇ。ぴったりな木じゃあないか」
にやり、とアカネが笑えば、フワリと懐かしい匂いが辺りに充満した。この甘ったるい匂いは、間違いなく金木犀であった。
「我ながら完璧な仕上がりだね」
己が生やした金木犀を見て、楽し気に笑うアカネの後姿を見た作之助は、改めて自分とは違う世界で生きているのだと実感した。ただの人間にはできない所業は、魔女そのものだ。
「これで満足かな? 私はこのあと予定があるから、先に失礼するよ」
「ありがとうございます、アカネさん」
「どーいたしましてだ」
そんな言葉とともに消えたアカネに、透が口を開いた。
「本当に魔女なのね」
何か思うところがあるのか少女の横顔は、縫い針のように鋭かった。そんな少女に、少年は気の利いた言葉一つだって思いつくことはない。
それでも、この場所にもう用はない。
「俺たちも帰ろう」
「……そうね」
作之助と透は、並んで金木犀畑から歩き出した。
「家に帰って、お風呂に入って、寝たわよ」
なんてことなく答えた透に、作之助は「そうっすか」と答えることしかできなかった。
「そういうあなたは、どうしたのよ?」
「俺も同じ。風呂入って、すぐに寝た。というか、寝てた」
なにも進展してない事実を思考する間もなく、ベッドに転がったら、そのまま意識は転がり落ちて、泥のように眠ったのだ。
「あと、彼女は戻ってきたのかしら? 用事があるって言っていたけれど」
「たぶん戻ってないと思う。まぁ、出かけると結構な期間戻ってこない人だからなー。次ぎ会う日はいつになるんだか」
「はあ? 戻ってこないって、あなたどうやって今まで生活していたのよ」
「どう、て……。普通に生活してたよ。もともと家事は俺が担当だったし」
「生活費は?」
「えぇ? 生活費も、普通に通帳と印鑑、キャッシュカードも渡されてたから」
「い、いかれてる」
顔を引きつらせた透の反応は正しいものであると理解している作之助は、誤魔化すようにただへらりとだけ笑った。それになにか言葉を重ねても、逆効果になることもわかっていた。
「あなたも苦労しているのね」
空を仰ぎ見た透の言葉が、ひっかかったが作之助にはそれを聞く術がわからなかった。バランサーのことだって、世界の危機だっていまだに分からない作之助には、ただの質問も酷く難しいことのように思えた。
なんとなく気まずい空気を変えるように、話題を変えた。
「ところでさ、何か用事でもあった?」
もともと秋春とお昼ご飯を食べる予定だったところに、わざわざ教室の中にまで入ってきて作之助を屋上にまで連れてきたのだ。重要じゃないわけがないだろう。
「あなた今日、時間あるかしら?」
「あるけど」
「そう。なら、早速囮になってもらっていいかしら」
透の言葉に、両目を見開いた作之助であったが先日、アカネが言っていたことを思い出したが、それはそれとして疑問はある。
「本当に俺が囮で、元凶って見つかるのか?」
「さぁ? でも手がかりも、なにもないのだから、やってみないと始まらないわ」
「それはそうなんだけども」
うだうだと言ったところで、なにも発展しないのであれば動くしかない。作之助がうろちょろ動いて、ホイホイ出てきてくれるなら、これほど楽なこともないだろう。
「用事はこれだけだから戻るわよ。白藤くんとの約束もあるし」
「あ、そういえば秋春と知り合いなのか?」
「同級生なんですもの、名前ぐらい知ってるわ」
「そんなもんか?」
話したことはなくても、名前と顔を知っている相手は多少いることを、作之助だって透と話ことはなくても、顔と名前を知っていたわけだから変な話ではない。と納得しつつ、作之助と透は屋上を後にした。
「ねぇ、本当に日向さんと付き合ってないの?」
「さっきも言ったけど、付き合ってないって」
秋春の質問に、作之助はうんざりしたように答えた。何度も質問されるのも、めんどくさいものである。どれだけ本当のことを伝えても、秋春は作之助の言葉を信じていないようだ。
「……知らないと思うけど、作之助と日向さんがバスに乗って、二人で出かけたことは学年中の噂になってるよ」
「いや、まぁ、一緒のバスに乗って移動したのは事実だけども」
その後のことを考えれば、みんなが想像しているような甘酸っぱい展開なぞなかったのだが、説明できるわけもないので口を噤んだ。
なにも言わない作之助から視線を外し、穏やかに笑う秋春は少しだけ大人びていた。
「どうしたんだよ、なんか変だぞ?」
「……あーあ。君の中で、僕が一番仲いいと思ってたんだけどな」
珍しくおどけたような態度の秋春に多少驚きつつも、作之助は逸らすことなく秋春に告げる。
「―――お前の言う通り、一番仲いいのは秋春だよ」
子どものようにキョトンと幼い表情をする秋春に、作之助は思わず吹き出して笑うのだった。
早速放課後に、作之助と透は元凶を探すために街を、ぶらぶらりと軽い足取りで歩く。自身を餌にしているとは思えないほどの軽やかさは、囮という現実感のなさよりも、ショッピングという現実感を楽しんでいた。
「クレープ食べましょ!」
スキップでも始めそうな透の後ろを、作之助は珍しいもの見るかのようにのそのそと着いていく。
「ちょっと! 歩くの遅いわよ!」
「だからって、急いでもクレープ屋さんは逃げないだろ」
「そうだけど、そうじゃないわよ!」
片頬を膨らませて、眉を寄せる透に作之助は顔を顰めた。
「なによ、その顔は」
「……なんでもないですけど」
「まぁいいわ。ほら、キビキビと歩きなさい」
「わかった、わかった」
先ほどよりも歩くスピードを上げた作之助に満足気に頷いた透は、「やっぱり、定番のチョコバナナかしら? それともチーズケーキとか」と一人でクレープのメニューに思いを馳せる。
それから二人は、透の宣言通りクレープを食べ、ゲームセンターで対戦し、雑貨屋を覗く。踊るようにくるくる変わる表情は、普通の女の子であった。
少しだけ、ほんの少しだけその表情を見て安心した作之助は、緩く息を吐き出した。
「………ひっく、どこぉ? おにいちゃん」
それは雑踏に紛れていた。
少女の小さな叫び声に、作之助の足はピタリと止まる。周りを見れば、誰一人として気づいている様子はなく、その声は人間の波に飲み込まれていく。
きっと迷子なのだろう。
でも、迷子なんて珍しくない。
珍しくないけれど、めんどうごとなのは確実で、誰もが見ないふりをする。いや、ふりではなく、確かに存在しているはずなのに、見えていないのかもしれない。
突然止まった作之助につられるように、透の足も止まる。
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げる透は、小さな悲鳴に気がついていないようだった。作之助が口を開く前に、透は作之助に近づいてくる。近づくほどに、どう伝えればいいのかわからなくなっていく。
「いや、あの、その」
「大丈夫?」
「へ?」
近づいてきていた透は、作之助の足元でしゃがんでいた。
「あんた、言いなさいよ。―――この子、迷子なのかしら?」
透の言葉に、自身の足元に視線をやれば、そこには小さな子どもぐらいの大きさの黒い影がまとわりついていた。
「――――――ッ!?」
この異常に、作之助だけが気がついている。
透には幼い少女に見えているのか、優しく、丁寧に黒い影に話しかけていた。どうして、夜よりも深く、濃い影は透と話しているが、一向に作之助の足元から離れる様子はない。
立ち上がった透は、固まって動けない作之助を安心させるように耳打ちをした。
「あんたにどう見えているのかは、わからないけど大丈夫よ。このまま、ここに居座り続けられれば危険だけど、この子には移動する意思があるもの」
「移動する意思って、」
困惑する作之助を置いて、透は柔らかく微笑みながら小さな影の前に再びしゃがんだ。
「ほら、探しに行きましょ」
「……ほんとうに、いっしょにさがしてくれるの?」
「えぇ、本当よ。だから早く泣き止みない、涙でお兄さんが見えないわよ」
「うん、なくのやめる! ―――ありがとう!」
作之助から足元から少しだけ離れた影は、楽しそうに動き出した。もぞもぞと動く影は、以前見たものとは違い、人型とは言えず、なんというか人型に見えないこともないが、動く毛玉が一番しっくりとくる。
二人は、それを連れて再び街をあっちへふらふら、こっちへふらふらと移動していく。どこか楽し気な毛玉の言葉を信じて、いるか、いないかわからない兄を探しつつ、最後に兄と一緒にいたと思われる場所へ毛玉の案内で向かう。
どんどん人が多い場所から離れていく事実に、作之助は誤魔化すように、からっぽの手のひらを握りしめた。
「ここだ!」
嬉しそうに跳ねる毛玉に、あたりを見渡せば何の変哲もない広場だった。広場の中心には噴水が設置されていて、絶えず水を噴出させている。
昼間の広場であるはずなのに、異様に人の気配を感じられない。嫌に緊張しているのか、溢れ出る噴水とは反対に、作之助の喉はどんどん乾いていく。透は、いつでも動けるように構えている。
「やっぱり、そうだったんだね」
背後から聞こえた声に、反射で後ろに振り返る。
「おにいちゃん!」
嬉しそうに、楽しそうに、透と作之助の間を毛玉が駆け抜ける。
「な、んで、お前が……?」
動揺を、恐怖を、驚きを隠すことができない。
一人で納得したような顔で、毛玉を抱きとめたそいつは作之助を見て微笑んだ。
「……いつか、そういつか、こんな日が来るって思っていた」
「何言ってるんだ――――――秋春」
そこにいたのは、作之助のクラスメイトである白藤秋春であった。
優しく毛玉のような黒い影を抱きしめる秋春は、諦めたような、疲れたような顔をして作之助と透を見る。
「やっぱり、悪いことはできないってことなのかな」
返事なんていらないと、一人で話し続ける秋春に作之助は叫ぶ。
「だから、何言ってるんだよ!! そもそも、どうしてここに……」
ゆらり、と、緩慢な動作で作之助を見やる。その瞳に温度はない。
「君がどこまで知っているのか、わからないけど。きっと君が、いや君たちが探しているのは、僕だ」
秋春の言葉を、状況を飲み込むことができない、いや飲み込みたくない作之助の心は現実を拒む。握りしめていた手のひらは、気づかないうちに開いていた。
「そう——————なら、話は簡単ね」
作之助の前に立ち、指先を秋春へ向ける透には迷いはない。そうバランサーである透には、迷っている暇はないのだ。世界のバランスは崩れ続けている、その事実が透の指先から迷いを、猶予を消す。
「待てよ! なにか理由があるはずだ!」
「待たない! いいえ、待てないわ! 理由を聞いたところで意味なんてないもの!」
そう言い放った透は、秋春へ蒼白い稲光を放つ。
避ける素振りを見せない秋春に、作之助は走り出した。
秋春に向かって飛んでいく閃光から、盾になるよう秋春の腕の中にいた黒い毛玉のような影が飛び出し、蒼白い稲光とぶつかり、弾けて消えた。
「チッ」
「あーあ、結構気に入っていたのにな」
その言葉に温度はなかった。
気持ちが伴っていない言葉は、どこまでも冷たい。
自身を守ってくれた毛玉のような黒い影のことなんて、もう忘れてしまったかのように秋春は作之助に話しかける。
「君はわかっていたし、知っていた」
「……何をだよ」
時間が止まる。
呼吸が止まる。
ずるずると、言い知れぬ何かがヘビのように這いずり、足元でとぐろを巻く。
「君は……。君が、世界のバランスを崩した“始まり”であることを、だよ」