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金木犀香る淑女の涙




 作之助と、透の二人はバスに乗っていた。

 車窓から見える景色は気がつけば、ごく普通の住宅街から、殺風景な田園風景に変わっていた。ぼんやりと遠くを見つめていた作之助であったが、代り映えのないそれに飽き、ゆったりと視線を隣にいる透へと向けた。肩で生真面目に揃えられた黒髪が、さらりと揺れる。彼女の端正な横顔は氷柱のように冷たく、鋭利だ。視線は手元の文庫本に注がれており、決して交わることのない視線に作之助は再び、何もない窓の向こうへと視線を向けた。



 ――ぱたん。



 突然耳に飛び込んだ乾いた音に、作之助は目を開く。知らず知らずのうちに眠ってしまっていたらしい。

「次で降りるわよ」

「……ん。わかった」

 ぼんやりする頭を無理やり動かし、荷物をまとめる。聞き慣れないバス停、もちろん見慣れない土地に作之助は辺りを見渡す。住宅街とは違い、家なんて一軒も見つけられず、視界に映るのは田んぼと、山ばかりである。そんな孤独に囲まれた風景に寂しさと、ちょっぴり懐かしさを感じた。

 そもそもの話、作之助を囮に世界のバランスを崩している奴を見つけよう。という作戦であったのに、なぜバスで何もない場所まで来たかといえば透が「世界のバランスが崩れていることについて、確認したい人がいる」と言ったからだ。黙々と歩く透の後ろを、同じように黙々と着いていく。途中で山道に入り、ひたすら突き進む。目的地がわからない移動というのは、精神的にくるものがある。鬱蒼とした森の中を歩き続けるなか、作之助はいい加減に目的地を聞こうと口を開こうとしたその時に、風に乗って嗅いだことある匂いが通りすぎた。一度嗅いだら忘れることはない、その甘ったるい匂いは——————。

「金木犀、か?」

「あら、意外ね」

「俺の口から金木犀が出てくるのが、そんな意外か?」

 くすくすと笑う目の間の少女に、じっとりした視線を向ける。

「あーーー、そうですよ! 想像通り俺は植物に詳しくないですよ。ただ金木犀は、俺が通ってた小学校に植えてあったから覚えてただけですーー」

「何も言ってないじゃない。そんな必死にならなくても」

 呆れたような女の声に、少年はそっぽを向いた。

「ほら、もう着くわよ」

 透の言葉にそっぽを向けていた顔を正面に向ければ、そこには一目でわかるほどの大きな家……いや、屋敷が建っていた。作之助の乏しい語彙で表すなら、絵本に出てきそうな家とでもいえばいいのだろうか。そのあまりの大きさに作之助は、目を丸くすることしかできない。動けないでいる作之助を置いて、透は門をくぐり、慣れた手つきで、呼び鈴を鳴らす。作之助が透に追いつくと同時に、ゆっくりと扉は開かれた。

「あらあら、久しぶりねぇ。透ちゃん」

 家から出てきたのは、絵本に出てくる悪い魔女ではなく、どこまで人がよさそうなおばあさんだった。透は随分と懐いているのか、その表情は柔らかく、まさに花が咲くような笑顔という表現についてイマイチ想像できないでいた作之助は、透の笑顔を見てその表現を理解した。

 ――美少女が笑うだけで、空間が華やいで見えるなぁ。

 薄桃色の花弁がゆらりと舞うのが見えた気がした。

「ところで、後ろの男の子は誰かしら?」

「あぁ、彼は———」

「透ちゃんの“好きピ”かしら?」

 恥ずかしそうに、だけど少し嬉しそうに笑う老婆は、放課後の女学生のようである。咄嗟の言葉に目を見開いて固まる透の代りに、作之助は淡々と事実を述べた。

「いや、違いますね。俺は日向さんの同級生の月本作之助っていいます。よろしくお願いします」

「あらあらまあまあ、それじゃあ“好きピ候補”ってことね」

「いや、あの、話聞いてます?」

 優雅に笑う女性の目尻は、確かに話を聞いていた。聞いたうえでの反応だった。天真爛漫な女性に、作之助はただ肩をすくめることしかできなかった。

「こら、そんなところで話していないで、早く中に入れてあげなさい」

 玄関の奥から、低く嗄れた、でもどこか少年のような声に「そうねぇ。詳しい話は部屋の中でしましょうねぇ」と朗らかに笑いながら、透と作之助を中へと招いた。



 金木犀の匂いが、嫌に鼻についた。





目の前に座っている老夫婦は作之助に、旦那が橘正弘、妻をヨシ子と名乗った。正弘は絵に描いたような老紳士のような出で立ちであり、パリッとした白いワイシャツは生真面目にも台襟ボタンまでとまっている。少しだけ窮屈そうである。一方でヨシ子も同じようにワイシャツを着てはいるが、えんじ色のカーディガンが春の陽のように柔らかな印象を与えた。

二人は結婚してから今年で50年目という節目を迎える。ヨシ子は嬉しそうに二人に、これまでの結婚生活を聞かせた。普段は家に正弘とヨシ子の二人しかいないため、第三者との会話は楽しくて仕方がない様子だ。久しぶりの生き生きとしたヨシ子の姿に、少しだけ気まずそうにしながらも穏やかに耳を傾ける正弘は、作之助の瞳には理想の夫婦に映った。

「もうそのあたりにしないか」

 正弘の言葉に、ヨシ子は恥ずかし気に口元を隠しながら柔らかく目尻を下げた。

「あら、そうよね。二人は用事があって来てくれたんですもんね。ごめんなさいね、一人で楽しんでしまって」

「……。それで透くんたちは、どうしてここへ?」

 先ほどまでのヨシ子が作り上げた、わたあめのような甘い雰囲気は一変し、まるで喉元に包丁の切っ先を押し付けられているような緊張感に作之助は唾を飲み込むこともできず、ただ静かに正弘を見つめた。

 透は正弘の二つの瞳から一切目をそらすことなく、重々しく口を開いた。

「もう気がついているかもしれませんが、世界のバランスが崩れて————」

「あぁ、そのことなら僕も気がついているさ」

「さすがは先生ですね」

「単刀直入に言うが、原因はわからない。ただ————」

「ただ?」

 少しだけ開いた口は、言葉を飲み込むように閉じた。次の言葉を聞き逃さないように、透と作之助は耳を澄ませる。何かを覚悟しているような鋭い眼光は静かに閉じられ、少し疲れたような、自嘲気味な笑顔で正弘は二人を見た。

「……確証のないことは、伝えられない」

 明らかに嘘だった。

 明らかな嘘であったが、透にはそれを今ここで追求できるほどの図太さはなかった。なかったのだが————。



「それ、嘘ですよね」



 隣に座っていた作之助は、臆することなく言い放った。

 透にとっては『先生』と呼ぶほど慕っている相手ではあるが、作之助からすれば今日知り合ったばかりの他人だ。いや、それ以前に作之助に遠慮なんてものはない。遠慮なんてものを持っていたら、育ての親であるアカネと生活なんてできやしない。

「あなたは……。いや、原因を知らないのは本当なんでしょうね。でも世界のバランスを崩し続けている“何か”を知っている————イッテェ!!?」

 淡々、虎視眈々と言葉を吐き出す作之助の横腹を、透は思いっきり殴った。ガードゆるゆるの状態であったため、彼女の拳は見事にクリーンヒットし作之助は座っていた椅子から雪崩落ちた。文句を言おうと上半身を起こせば、自身が殴ってしまったことか、それとも作之助が椅子から落ちたことに驚いている透がいた。

「いやいや、なあんで殴った本人が、そんなに驚いてんだよ」

 呆れたような、いや実際に呆れている作之助の言葉に「アンタが悪いんでしょ!? 先生に失礼なこと言って!」と後から追いついた感情に、顔を真っ赤にしてキャンキャンと吠える。完全に崩壊した空間に、静かにしていたヨシ子が微笑みを携えて三人に提案をする。

「こんな話は止めにして、楽しい話にしましょ? それに、もうこんな時間よ、夕飯の準備しなくっちゃ! 二人とも泊っていくわよね? そうよね、そうよ」

 二人の意見なんて聞いちゃいないヨシ子は、鼻歌交じりに台所へぱたぱたと走っていく。まるで嵐のような勢いに、残された三人は呆然とその背を見送った。

「………部屋まで案内しよう」

「ありがとう、ございます」





 作之助が案内された部屋は、十二畳の部屋だ。正面には小さな小窓。右奥には簡素なベッド。その横には勉強机。左側には42インチぐらいのテレビが置かれている。テレビ台の下には、なんと小さな冷蔵庫も置かれていた。

「いや、ホテルかよぉ……」

 小さいはずの呟きは、一人しかいない部屋では大きく聞こえた。

あまりの豪華な部屋に作之助は悪いことなどしてもいないのに心のうちに湧き出る罪悪感のようなものから、自身の荷物を扉の横に置いた。何をしていいのかわからない作之助は、扉の前に座り込み、スマホに入れていた暇つぶし用のアプリを起動し、ゲーム始めた。もう名前も覚えていないクラスメイトから勧められたアプリを、惰性で続けている。よくあるパズルゲームではあるが、続けられるぐらいには面白いものであった。作之助が何回か挑戦していれば、控えめなノックの音が耳に飛び込んできた。

 その場から腕を伸ばして扉を開ければ、ドン引いている透がいた。そして座りこんでいる作之助を見て、まるで口にするも悍ましい生き物と対峙したような絶対零度の視線に、作之助は無言で立ち上がる。

「少しいいかしら」

「うっす」

 部屋を出て、屋敷を出て、外に出た二人。会話もなく、ただ歩くだけ。歩くと言っても、屋敷に沿って、裏手に回っただけであるのだけども。

「――――――」

 作之助は言葉を失った。

 それと同時に、原因を理解した。

 吐き気がするほどの匂い。

「もしかしなくても、これ全部」

「そう、全部金木犀よ。ここにある金木犀は、普通の金木犀とは違い時間が止まってしまったかのように一年中花が咲いているの」

 二人の目の前には、金木犀畑と言っても差し支えないぐらいの大量の金木犀が広がっていた。どこまでも続いていると錯覚するような金木犀に、作之助は息を飲む。金木犀は自然交配をしない植物であり、日本は雄しかないため挿し木によって繁殖される。いくら成長の早い植物といえど、こんなにものたくさんの金木犀を増やし、育てるのは相当の労力が必要なことが一目でわかる。

 透に見せられた金木犀畑に対して、作之助は何を言えばいいのかわからなかった。思ったことを言えばいいのであれば「こんなに量があると手入れが大変だな」という感想しか出ないが、隣にいる透が求めている解答ではないことは何となく察せられ、作之助は押し黙る。

「あんた、花言葉って知っているかしら?」

「……それは、花言葉の存在を知っているか、ていう質問? それとも、金木犀の花言葉を知っている、ていう質問か? 前者なら知ってるし、後者なら知らん」

「ちょっと待って、……花言葉を知っていることに驚きなんですけど。以外に可愛い趣味を持っているのね」

「いや、失礼だな。つーか花言葉は趣味じゃなくて、教養だろ。……まぁ、さっきも言ったけど金木犀の花言葉って意味なら知らんけど」

 じっとりした目で透を見れば、誤魔化すように咳払いをした透が言葉を続ける。

「金木犀の花言葉は、いろいろあるけど。この場所に置いては“幽世”になるわ。金木犀の強い香りは、邪気除けの効果があるの」

「じゃあ、ここは裏側の奴らが来やすい場所だから、こんなにも大量に植えてあんの?」

 匂いに誘われるように金木犀へと近づく透は、緩く首を横に振りながら作之助の言葉を否定する。

「来やすい場所というか、先生の気休めなの」

「あー……、なるほど」

「もともとは違う意味で植えたらしいけど、何度聞いてもはぐらかされるのよ」

 くすりと透が笑ったように作之助は感じた。夕日に照らされた彼女の表情が、逆光で見えない。何か言葉を返したかったけれど、浮かんだ言葉はどれも音になることはなかった。

「それじゃあ、そろそろ戻るわよ! ヨシ子さんが作る料理は、どれも驚くぐらい美味しんだから!」

 自分のことのように自慢する透を横目に、作之助は大量の金木犀について考える。気休めで植えられた金木犀。もともとは違う意味から始まった金木犀。ポケットに入れていたスマホを取り出し、金木犀の花言葉を調べる。まったく、便利な時代になったものだ。知りたいことが、こんなにすぐわかるなんて。

「………意外とロマンチストなんだ」

 作之助は液晶画面に表示にされた文字を読んで、あの仏頂面を思い出す。自然とその隣で、幸せそうに笑い続ける女性が浮かぶ。

「なにニヤついているのよ?」

「別に」

「はぁ? ちょっと、今日はやけに生意気じゃない。なんだかムカつくわ」

 作之助は隣で騒ぐ透を宥めながら、肩を並べて屋敷へと足を進めた。




 透が言っていた通り、ヨシ子の作った料理は絶品であった。

 メインは肉汁爆発ハンバーグであり、あまりの美味しさに作之助は材料を聞いていたが、スーパーに売っている一般的な材料しか使われておらず、作之助は頭を抱えた。こんなにもおいしいのだから、秘密が必ずあると信じて、思考を回していれば、楽しそうに笑うヨシ子は口を開いた。

「実は、とびっきりの隠し味があるの」

「わたしは知ってるわよ」

 得意げに笑う透に、作之助は隠すことなく顔を顰めた。

「なによ、その顔は!」

「いかにも料理したことないような奴が、何言ってんだよ。って思って」

「わたしだって、多少は料理するわよ! 失礼ね!!!」

 キャンキャンと子犬のように喚く透に、テキトーに謝る作之助は「それで、日向が思う隠し味って?」と聞けば、恥ずかしげもなく少女は、それを口にする。

「そんなの“愛”よ!」

「はい、解散」

「ちょっと!!!」

 予想通り……。いや一周回って、予想通りすぎて予想外の答えであったが、愛で料理の味が変わるはずないのだ。正確に言うのであれば、それによって相手の好みに寄せることはできるだろう。自分の好みの味になった料理に対して、隠し味は“愛”なのだ。と宣言されればトキメかない人間はいない。

「透ちゃん、惜しいわ! ちなみにね、愛は隠し味じゃくて、隠さずたっくさん入れているわ」 

「ひゃあ」

 よくわからない悲鳴を上げる透を尻目に、作之助はもう一度ハンバーグを口にする。隠し味なのだから、先ほど出てきた材料以外のものが入っている。隠し味で有名なのはチョコレイトだろうか、それともコーヒー……いや、これはカレーの隠し味だったか。黙々と考えながら、あふれ出る肉汁に思考が奪われていく。

「もったいぶっていないで、教えてあげたらどうだ」

「もう! それじゃあ、つまらないでしょ」

「そういう話なのかい?」

 正解を知っているのか正弘は、答えを言うようにヨシ子に声をかける。しかし、楽しそうなヨシ子を見て、穏やかに上がる口角は、音にしないだけでヨシ子の味方であった。

「捻ったものは入れてないの、ヒントは肉汁よ!」

 ヨシ子のヒントで、作之助の脳内にとある食材が思い浮かぶ。それを食材と呼ぶのかは微妙なところであるが、正解である確信があった。

「もしかして牛脂ですか?」

「そうなの! このハンバーグには牛脂が入っているの。ね、捻ったものじゃないでしょ」

 少女のように笑いながら「でも、どうして牛脂を入れるのか知らないの」と続けた。

「知らないのに、入れてるんですか?」

「家庭で受け継がれる料理って、そんなもんじゃないかしら?」

 そんなものなんだろうか。それともヨシ子の家庭は、美味しければ良い。という家庭だったのだろう。まぁ、でも、その考え方は作之助には理解できた。

「美味しかったなら、それでいいですよね」

「えぇ、そうなの! このひと手間で、美味しくなる理由はわからくても、美味しいって喜んでもらえるなら、それだけでわたしはいいもの」

 それ以外何も要らないと笑う女に、男の眉が少しだけ寄ったことに作之助だけが気がついていた。

 楽しいご飯の時間は終わりを迎え、透はヨシ子とともに後片付けを。作之助は、正弘の晩酌の付き合いを。各々がその時間を楽しんでいた。

 正弘の晩酌の晩酌に付き合うと言っても、未成年である作之助は隣で座って、その姿を両の目でぼんやりと見ているだけであった。正弘の視線がゆらりと、右手のグラスから台所の二人へ移動する。その後を作之助も追いかけた。

「僕たちは、子どもに恵まれなくてね」

 ポツリと零れた言葉は、まるで独り言のようであった。

「透くんが、僕の弟子になってくれた時は本当に嬉しかったんだ」

「あれ? でも、バランサーって先祖代々やってるって聞いたんですけど」

 からん、ころん、グラスの中の氷が揺れる。

「聞いていないのかい?」

 正弘の言葉に頷けば、彼は「……そうか」と呟き、グラスに口をつけた。

 お酒の種類なんてわからない作之助は、とろりとした茶色い液体が正弘の口の中に流れていくのを黙って見つめた。上下する喉仏。伏せられた瞳。まるで映画のワンシーンのような光景に、作之助は座りなす。

「僕の口からは詳しくは言えないが、その頃の彼女の家では、力の使い方を教えられる人がいなくてね。それで交流のある僕が、彼女の師匠を買って出たんだ」

 細められた瞳は、過去を思い出しているようだった。

「透くんが来てからの生活は実に楽しかったよ。妻も口にはしないものの、喜んでいた。幸せそうに、実の子のように世話の焼く彼女に僕は——————」

 続きは言葉になることはなかった。なにかを耐えるようにグラスを握る手に力が籠る。からん。と高い音が鳴る。その音にはっとした男は、グラスを握る手を緩めた。

「すまない。嫌な気持ちにさせてしまったね」

「いえ、べつに、俺は」

 気まずそうに頬をかく作之助に、正弘は笑う。ひとしきり笑った正弘はグラスを置き、真っ直ぐ作之助へ向き直る。

「僕が言うのも、君に頼むのもおかしな話だが、彼女を——————透くんを、よろしく頼みます」

 深く、深く、下げられた頭は、正弘の心を表していた。

 突然のできごとに、作之助は「はい」とも「いいえ」とも言えず、ただ口を噤む。少年はできない約束はしない主義であるし、嘘でも「はい」なんて、軽々しく言えなかった。

「正直、約束はできないです」

「はは、そうだよね。すまない、急にこんなことを——————」

それでも、正弘の気持ちには応えたかった。

「それでも——————できるかぎり、は、頑張り、ます、」

 最後のほうは片言になってしまったが、作之助は少なからず彼女の力になりたいと思っている。いまだに、世界のバランスが崩れている自覚なんてないけれど、自分になにができるのかもわからないけれど、その思いだけは確かであった。

「あぁ。その言葉だけで、僕は満足だよ」

 言葉通り満足そうに笑う男から、作之助は目をそらすことができなかった。

「なあにが、満足なんです?」

「僕らだけの秘密の内容だからね。いくら君でも教えることはできないよ」

「もう! 意地悪ですね! 正弘さんとは違って、作之助は教えてくれるわよね?」

 ぷりぷりと怒るヨシ子に、作之助は苦笑いをする。そもそも、今の会話はヨシ子に知られても問題ない気がするが、正弘が秘密というのであれば、標的を正弘から作之助へ変えたヨシ子の猛攻を耐えるほかないだろう。

「なに? なんの話をしているの?」

「透ちゃんも知りたいわよねぇ! 正弘さんと、作之助くんが、どんな話をしていたのか」

 そんなこと聞かれれば、知りたいと思うのが人間だろう。例にもれず透も「知りたい!」と騒ぎだした。助けを求めようと正弘を見れば——————誰もいなかった。

 ――逃げやがった!!

 音も立てずに、この場から脱出した正弘に拳を握り、怒りを逃す。

 怒りをパワーに変えて、少女二人の猛攻を耐えきった作之助は疲労困憊で与えられた部屋へとなんとか戻った。

 慣れない環境に作之助は、お風呂に入ってからすぐさま眠ってしまった。





 ゆ       り。とカーテンが揺れる。

      ら

 柔らかな風に乗って、甘い匂いが部屋に充満していく。その濃い匂いに、作之助の意識はどんどん現実に帰ってくる。

 時刻は丑三つ時と呼ばれる午前2時。

 するりと冷たい何かが、首に触れる。

 あまりの冷たさに薄っすらと瞼を上げれば、誰かがベッドの傍らに立っていた。

 ――……なんか、息苦しい?

 まるでゆっくりと溺れていくような感覚に、ぼやける頭は酸素を求めように体をもぞもぞと動かす。しかし変わらぬ息苦しさ、いやどんどん苦しくなっていく現状に、作之助の目が覚める。

「ぅえっ?」

 作之助の両の瞳に映ったのは作之助の首を絞める——————人間の姿であった。

 驚きか、恐怖か、それとも両方なのか作之助は叫び声を上げるのも忘れ、ただ己が生きるために、生き延びるために無我夢中で暴れる。

 どうして? なぜ? 首を絞められている? 一体、何者なのか? ギシギシギィギィと唸るベッドの叫びが遠くで聞こえる。首にかかる手をどかそうと、手首を掴む。掴むのだが、作之助がどれだけ力を入れても緩むことのない指先に成すすべもなく、どんどん意識が遠のいてく。

 ――すみませんっ!

 内心で謝りつつ、作之助は勢いをつけて首を絞めつけてくる人間の鳩尾を狙って蹴り飛ばした。突然の作之助の反撃に、僅かに緩んだ手を掴んで、作之助はベッドから飛び上がり、距離をとる。

 暗い室内では目の前の人物が、男なのかも、女なのかもわからない。

 唯一の出入り口である扉は不審者の背後にあるのだが、近づいたら確実に殺られるだろう。作之助の背後の小窓があるが、書いて字のごとく小さい窓であるため開けたところで外に出られるほど大きくない。

 ――これは、絶体絶命ってやつでは……?

 ひくり、と口角上がる。

 どうやっても腕力で勝てそうにないうえに、狭い室内だ。相手を躱して扉へ向かうことも困難だ。―――ともすれば、第三者にかけるしかないだろう。

「そうと決まれば、やるだけだよな」

 最初から置いてあった42インチのテレビを思い切り掴む。

「せーのっ!!」

 掛け声とともに——————床へ思いっきり落とした。

 床に叩きつけられたテレビは、バキっとも、ガシャンっ! ともいえない不快な悲鳴を上げて、無残にも壊れてしまった。突然の騒音は屋敷中に響く。

 テレビが壊れた音に真っ先に反応したのは、作之助を襲った人物であった。肉食動物が、草食動物に食らいつく獰猛さで、それは作之助に襲いかかる。相手の行動を予測していたのか、作之助は後ろへ下がり、紙一重で躱す。

 背中にはひやりと冷たい壁。背後の小窓から降り注ぐ月明かりが、静かに満ちていく。

 呼吸音。

布が擦れる音。

 心音。



 お互いが、その時を待っている。



「ちょっと! 大丈夫なのっ?!」

 ダンダンダン! と激しく扉を叩く音と、透の声を合図に、それは動き出す。

「扉を壊せっ!! ―――ぐっ?!」

 喉いっぱいに叫んだ作之助であったが、再び首を絞められ息が止まる。

 ぎちぎち、ぎちぎちと締まっていく喉に比例して、体から力が抜けていき、ずるずると壁伝いに床へ倒れていく。

 相手は最初の反省を活かし、そのまま倒れこんだ作之助へと馬乗りになる。強まる指先を少しでも緩めようと藻掻きながら、薄目を開けた。

「――――――」

 月明かりに照らされたその人は、

 一瞬にも満たない時間だった。

 作之助がその人を理解すると同時に、部屋の扉が吹き飛んだ。

「そいつから離れなさいっ!!!」

 蒼白い稲光が、空間を切り裂いて駆ける。

 透が放った青白い稲光は作之助を襲っている人物には当たらなかった。その人は当たる直前に、作之助の首から手を放し、小窓を壊して外へと逃げた。

 突然解放されたことにより、体は酸素を取り込もうと必死に息を吸う。

「くそっ、逃がした! はやく追うわよ!」

「ちょっ、ちょっと待って!」

「なにっ?! 逃がしたらどうすんのよっ?!」

「けほ……逃げないから安心しろ」

「はあ?」

 今まさに逃げたばかりの相手に——なに頓珍漢なこと言ってんの? とキレ気味な透であるが、その思いは心の中に収まることなく口から出ていた。

「……ほんとうに、逃げないから」

 少しだけ震えていた音に透は眉をよせたが、痛みを耐えるような作之助の表情を見た透は自身を落ち着かせるために、短く息を吐き出す。

「逃げてないとして、どこに行ったのよ?」

「それ、は……」

 やはり言いづらいのか、作之助は口を閉ざす。

 言ってしまえば、言葉にしてしまえば、認めてしまうことになる。

 まだ認めたくなかった。

 けれど、そう考えている時点で作之助は目の前の事実を認めて、受け入れていた。今もなお、少しだけ痺れる指先を固く、強く、握りしめる。

「向かった場所なら検討はつく」

「なら、行くわよ!」

 踵を返して、部屋を出ていく透の背を作之助は追う。廊下に出れば、透は扉で立ち止まった作之助の前で仁王立ちをした。その表情は「さっさと案内しなさいよ」とでも言いたげで、作之助は不思議と覚悟が決まっていた。




 歩く。

 長い廊下を。

 二人で、歩く。

 この大きな屋敷は、あの老夫婦には大きすぎる。

 大きすぎる入れ物には、たくさんの思い出が詰まっていた。―――手放すことはできないほどの、たくさんの思い出は美しく飾られているが、その裏で腐り落ちていることに本人は気がついているのだろうか。

 きっと、気がついていた。

 漂う腐敗臭を、甘ったるい匂いで隠した。

 そして、見て見ぬふりをした。

 少なからず作之助には、その行動を責めることはできなかった。同じ立場だったなら、少しでも一緒に愛する人といれるのなら、作之助もやったかもしれない。

 外は暗かった。

 街灯のない森の奥は、しんしんと沈むように落ちてくる月光だけが頼りであった。

 透の身体は、夜の寒さ故から、それとも別の要因か、ぶるり、と震えた。

「やはり、来てしまったんだね」

 甘ったるい匂いが充満する金木犀畑に、正弘とヨシ子はいた。

 まるで絵画のような風景に、作之助はこれが夢であればと願う。

「先生? どうして、先生とヨシ子さんが……」

 いまだに現状を把握できていない透は、困惑をしている。目の前の現実に追いつけないまま、作之助と正弘は会話を続ける。

「いつか、……いつかこうなることは、わかっていた」

「ならどうして……?」

「なに、単純な話だよ。――――――僕は“世界”より“彼女”を選んだんだ」

「“それ”はヨシ子さんじゃないって、あなたが一番わかって———」

「うるさいっ!!!!」

 正弘の拒絶に、作之助は口を閉ざした。

 誰にも盗られないように正弘は、それを強く、強く抱きしめる。作之助には、その姿が愛する者を守るよりも、ボロボロの人形を捨てることのできない子どものように映っていた。

「……月本くんを襲ったのって」

 信じられないと、信じたくないと震える声に、作之助は静かに頷いた。

「正弘さんが抱きしめている、人形だよ」

「彼女は人形じゃないっ!! 彼女は! ……彼女は、」

 どんどん小さくなっていく声量は、正弘の罪の深さを表していた。

「えぇ、人形じゃない。正確に言うなら、それは“ヨシ子さんの死体”ですよね」

「――――――っ」

 作之助の発言に、透は息を飲んだ。

 月明かりに照らされた作之助の鋭利な横顔に、嘘はない。どこまでも真っ直ぐで、真実であると、これが現実だと睨んでいた。

「あなたは世界のバランスが崩れている理由を知っていた。確証はないって言っていましたが、少なからず“それ”は原因の一つだ」

 死者が、生者に紛れて生きている。

 世界のバランスを崩すには十分であろう。

「僕がこうする前に、すでに世界のバランスは崩れていたっ!! ……僕はそれに乗っただけだ」

「乗っただけって……」

「透くんには、すまないと思っているよ」

 透から、現実から、何より目の前のヨシ子から目を逸らし続ける正弘に、作之助は無意識に自身の手を握りしめていた。

どれだけ透が、バランサーとしての仕事に誇りを持っているか。

どれだけ透が、二人のことが好きか。

 付き合いの短い作之助でさえ分かることを、目の前の男は分からないとでも言うのか。

 ――そんなこと、あっていいのか?

 今の正弘には何も見えていない。


 止まった世界で、一人息をしていた。







 ←→





 ――一目惚れは、本当にあるんだ。

 僕が彼女と出会ったのは、お見合いの席だった。

 お見合いと言っても、結婚することは確定で、お互いに拒否権なんてなかった。彼女と出会う前の僕は、別に結婚相手に興味はなく、家の為でしかない結婚だからこそ期待もない。彼女は自分の体質のため、僕はその体質の対処のため。お互いの家のメリットは別のところにあり、僕らは仲良く親の道具だった。

 ただ、知らぬ男と結婚しなくてはいけない相手のことを、少しだけ不憫に思っていた。

 全員がそうとは思っていないが、女性であれば誰か憧れの人に思いを寄せていたことだろう。事実、僕の周りの女性はそうであった。だからこそ、僕は相手を愛せなくても、愛されることがなくても、不自由だけは感じさせないようにしようと、心中で決めていた。

 彼女を一目見ただけで、僕の薄っぺらな覚悟は吹き飛んでしまった。

 ――僕がこの人を、幸せにする。

 控えめに微笑む彼女を、僕は、……僕が幸せにしたい。――そう願った。



 この大きな屋敷は、彼女の父が作ったものだった。

 これは僕たちの温かな家であると同時に、彼女を閉じ込める檻でもあった。

 彼女は、憑かれやすい体質だ。

 憑かれやすい彼女は、周りに迷惑をかけて生きてきた。

直接聞いたわけじゃない。ただ、彼女の一歩引いた微笑みを見れば想像に容易い。すべての不条理を、理不尽を、彼女は何も悪くないのに、責められた事実を、まるで無かったと、人に迷惑をかけないように、この森の奥に閉じ込められている事実も、すべてを飲み込んで悲しむ(笑う)彼女に喜んでほしかった。


 だから僕は、庭に“金木犀”を植えた。


 最初は一本の苗木から始まった。

 風に運ばれ、香る金木犀に彼女は目を丸くした。

 金木犀の花も、花言葉も彼女のようであった。

 彼女も金木犀を気に入って、一緒にその数を増やしていった。気がついたときには、庭一面金木犀で覆われ、金木犀畑になっていた。

 僕たちは子どもに恵まれなかったけど、この金木犀が僕たちの子どもだった。



 ある日、知り合いから連絡があった。



 一族で一番素質のある子どもが生まれた。と、でも教えられるほど、もう若くないその人は電話越しでもわかるくらい困っていた。

 だから僕は、その子の師匠を買って出た。

「僕がその子の面倒をみたいのだけど、いいかな?」

「……いいのかい?」

「それは、僕のセリフだよ。―――貴女が、僕でもいいのなら」



 こうして、日向透は僕の弟子になることになった。



 この家に来たばかりの彼女は、絵本に出てくるような無駄に大きな屋敷に瞳を輝かしていた。妻と手を繋いで、拙い言葉で一生懸命話す少女と、少女の言葉に耳を傾ける妻の姿。あったかもしれない未来に、僕は何かを飲み込んだ。




 幼い透くんは、僕のことを先生と呼んだ。いや、その呼び方は続いている。

 僕がそう呼べと言ったわけではない。最初から透くんは、僕を「先生」と呼ぶ。幼い少女なりの覚悟が、そこにはあった。

 僕にとって、透くんは僕の一番弟子で、勝手ながら娘だと思っている。妻は僕よりも、透くんのことを娘だと思って愛していたし、透くんも同じだけの愛情を僕たちに返してくれた。




 だからこそ——————妻が死んだことを、伝えることができなかった。




 12歳になった透くんは、僕たちの家を旅立っていった。子どもの巣立ちというのは、親の想像より早いものであった。

 透くんが家を出ていった1年後に、妻であるヨシ子は死んだ。

 原因は明白だった。

 世界のバランスがどんどん崩れていった結果、もともと憑かれやすい妻は世界にあてられ雪が解けるように、静かに死んだ。

 ベッドに横たわったままの妻は、ゾッとするほど美しかった。

 今にも瞼を開けて、起き上がりそうなのに、生命を感じない。




 ――――――命を感じないだけで、彼女は動く。




 僕は、

 僕の人生には、彼女が必要なんだ。

 幸福と、不幸の落差。

 この家には彼女の幸福と、僕の不幸が焼き付いた。焼き付いてしまった。

 その落差に惹かれて、集まったものを利用した。



 アイツらは、動くための身体を欲しがった。


 僕は、再び動く最愛の人を欲しがった。



 バランサーである僕は、してはいけないことをした。

 これは許されざる行為だ。

 それでも、

 それでも、再び彼女に会えるのなら、

 話すことが、

 触れることが、



 ――――僕を見てくれるなら世界がどうなろうが、どうでもよかった。




 きっと、君にはわからない。

 僕の前に立つ君には、わかるはずないだろう。





 ←→



「君も知っているだろう。このまま世界のバランスが崩れ続ければ、世界は文字通り消えてなくなる。なら、その終わりの時まで彼女と一緒にいたいだけなんだ」

「“それ”は、ヨシ子さんじゃない」

「これは!! “彼女”だっ!!!!!」

 空気が震えるほどの怒りを吐き出す正弘に、もう言葉は届かない。



「―――――もういい」



 平行線の二人に、一本の線が交わる。



 言葉とともに透は、静かに右手を上げる。その動きに作之助は見覚えがあった。作之助以上に、その動きの意味を知っていた正弘は、瞳を見開く。

「待てっ! 君だって、彼女が好きだろう!? 君は彼女を愛していないのか?! ――――――君ならわかってくれるだろう?」

 必死に叫ぶ男に、透は下唇を噛む。

「ほら見てくれ。彼女は、こんなにも“生きている”」

 男の腕の中にいる女は、どう見たって生きていなかった。

 先ほど、元気に作之助を襲っていたとは思えないほどぐったりとしており、男の支えがなければ本物の人形のように地面にぐしゃりと倒れることだろう。

 透の、ぴんっ! と伸びた指先は、真っ直ぐにヨシ子だったものを捉える。

「……本気、なんだね」

 透は答えない。

 どこまでも真っ直ぐな瞳には、迷いも、戸惑いも、憂いもなく。そこには、ただ静かな怒りだけが、焚火の火のように揺らめいている。

「ぁ、……とぉ、うちゃ、ん」

 ブリキのおもちゃのように、首をギシギシ動かした死体は透を見る。

「ひっ……」

 透は小さな悲鳴は上げた。

 死体だ。

 頭では理解していた。けれど、事実として理解していなかった。

 しかしそれはもう、死体とは呼べないだろう。

 胡乱な瞳は、何も映さない。

 開かれた口からは、細長い舌がだらりとはみ出している。

 花のように笑っていたヨシ子の面影は、存在しない。

 壊れたスピーカのように意味のない音を上げ、生前の動きを繰り返す死体と、その死体を愛おしそうに抱きしる男の姿は、透に目には恐怖の対象に映った。

「お腹がすいたね。今日はまだ、食べていないから」

 男は透がひるんだのを、見逃しはしなかった。

「■■! ■■■! ■■■■■■!!」

 男の腕から飛び出したソレは、喉が裂けそうなほどの奇声を上げて透へと一直線に走る。

「しまっ———」

 獲物を前にした獣に、初めて経験する命の危機に、透の足は竦んで言うことを聞かない。

「日向っ!!!!」

 動けない透を庇うために、作之助は透を押し出し、ソレの前へ出る。

「ちょっと!」

 透は押された勢いのまま、地面へと尻もちをつく。作之助は受け身が取れず、地面へとそのまま押し倒される。

「クッソ!」

 首を絞めようとしてくる両腕を掴み、何とか耐える。しかし、開いた口か漏れる落ちる涎が、作之助の顔へ降り注ぎ、邪魔をする。

 ぼと、ぼと、ぼと、止まらない液体に作之助は顔を歪める。

 作之助の蹴りを警戒してから、作之助の両足をしっかりと自分の足で押さえつける。

 ――……ん?

 作之助は違和感を覚えた。

 それは些細な違和感であった。

 反撃されないように、逃がさないように作之助を押さえつけているそれは、今もなお作之助の顔へ液体を溢し続けている。溢し続けているのだが、一向に食べようとする動きをしないのだ。

 作之助は透を庇うために走り出したその瞬間から、食べられることを覚悟していた。

 それなのに、押さえつけられる痛みがあるだけで、作之助は怪我一つしていなかった。




 透には、やはり目の前の現実を受け入れることができなかった。

 けれど、信じられない自分の後ろに、冷静に受け入れている自分が立っている。

 怒りと、恐怖の狭間で、正弘を見る。

「さぁ、ご飯だよ。どうして食べないんだい? 食べないないと、動けなくなってしまう。早く、……早くしろよっ!! お前をここまで! ここまで育てたのは誰だと思っているんだ!!! はやく、はやく、しろ!!! はやく食べて、僕の彼女になるんだよっ!!!!!」

怒り、喚き、狂い正弘は二人に近づく。

――やっべぇ!!

近づいてきた足音に、作之助の鼓動はどんどん駆け足になっていく。

「ほら、はやく! はやく食べろっ!!!」

 自分の口で『最愛の人』と宣った相手の後頭部を鷲掴み、作之助へ力づくで押し付ける。

「ぃたぁい……! ゃ、えて、ぃあ、いいィいい……!」

「うるさい!!!!! はやくソイツを食べろって言っているんだっ!!!」

「うぁあぁ、あぁいぃィいいぃい、やぁ、やああぁッあぁアアいいぃ! 」

それは確かな、拒絶だった。

 喉が張り裂けてしまうような叫び声なんて、聞こえていない。

 溢れ出る液体なんて、見えていない。

作之助は腹の底から湧き上がる怒りを——————叫ばずにいられなかった。

「日向ァ!! 撃てッ!!!!」

「あんたに言われなくても、わかってるわよっ!!」

 三人が固まる場所に照準を合わさったその時、バチリっ!! と空気が爆ぜた。

 指先に集まる電気により、透の髪の毛がフワリと巻き上がる。

「くらいなさいっ!!!!!」

 蒼白い稲光が、三人を標的に放たれる。

 放たれた光量は、日向の怒りを表していた。

 そのあまりの眩さに作之助は、瞳を閉じる。

「邪魔をするな」

 正弘の拒絶に呼応するように、地面は割れ、隆起する。真っ直ぐ進む蒼白い稲光は隆起し山のようになった地面に激突し、光は弾け、空気に溶けて消える。

 突然隆起した地面に、透は驚くことなく駆け出した。防がることなんて百も承知だ。手の内なんて、お互いに理解している。

 透の能力は、単純に稲光に似た光線を放つだけ。それに比べて、正弘は多彩で、自由だ。一言でいうならば“超能力”である。物や人を浮かせたり、バリアを張ったり……、少年漫画に出てきそうなことは、だいたいできる。幼い透も、正弘が起こす現象に憧れた時期があった。

 幼い透は箒に跨り、正弘は超能力で浮かせる。嬉しそうに、楽しそうに笑う透が落ちないように、ハラハラと緊張しながら、スイスイと空中を移動させる。そんな二人を見ながら、静かに微笑むヨシ子の三人は、もうどこにもいない。

「透くん、君が僕に勝てると思っているのかい?」

 淡々と割れた地面を浮かせ、レンガぐらいの大きさに分割する。

「やってみないとわっかんないでしょ!」

「わかるさ」

 レンガほどの大きさに分割された岩は、透を狙って飛んでいく。物量で圧し潰すつもりなのか、どんどん地面は割れ、剝がれて金木犀畑はぐちゃぐちゃになっていく。

 なんとか飛んでくる岩を避けながら、隙間を狙って蒼白い稲光を放つ。放れた蒼白い稲光は、正弘に届く前に、正弘が移動させた岩にぶつかり霧散して、消える。

「君の閃光は、僕のところに届くことはないよ」

 余裕の表情を崩さない正弘に、透はイラつきを隠すことなく舌打ちをした。

「これ以上長引いても意味がない。僕たちの幸せのためにも、はやくいなくなってくれ」

 さきほどよりも量が増えた岩を捌くことができず、無慈悲にも透の身体に被弾する。

「いッ!!?」

 鈍い痛みが彼女を襲う。

 体勢が崩れた透は、そのまま地面へと転がる。

「ほら、もう終わりだ」

 月を、星を、覆い隠すほどの無数の岩に、透は為す術もなく呆然と見上げる。正弘の言葉通りの結果に、数分も耐えることができなかった己に、奥歯を噛む。

 最後の悪あがきに、ジクジク、ドクドク、ジンジン様々な痛みを主張する腕を上げ、再び狙いを定めた。向けられた指先に、正弘は困ったように笑う。




「――――――あ?」




 それは、疑問だった。

 それは、誰も予期していなかった。



 それは——————■だった。



 作之助を押さえつけていたはずのヨシ子が、正弘の喉元に喰らいついている。誰一人として、この現状を理解していなかった。押さえつけられていた作之助自身、突然飛び退いたヨシ子に遅れ、一拍後に起き上がった。だが、もう眼前で事は起きていた。

 どっくん、どっくん、と脈打つ鼓動が、正弘の命の終わりが近づいていることを告げる。口から血を噴き出し、ひゅー、ひゅーと空気が漏れ出るような呼吸を繰り返す。

「ゴポァ……ど、して……ッ……?」

 溢れてやまない赤色は、どんどん二人を汚していく。

 浮いていた岩は、ぼとり、ぼとり、と地面へと落ちる。

 時が止まってしまったかのような錯覚の中、作之助は透のもとへ走る。

「おい、大丈夫か?」

「へ? ……え、えぇ。わたしは無事よ。あんたは?」

「俺はお前と違って、ほぼ無傷」

 作之助の言葉に嘘はなく、押し倒されたことによる小さな傷はあれど、それ以上の傷は無かった。頭の冷静な部分が状況を把握しようと忙しなく稼働する一方で、心は現実に追いつくことなく静かに二人を見つめる。

 ギチギチ、ぶちぶちと何か千切れ、肉を、骨を、心を、噛み砕く。

「~~~~~~~っ!!!!!???」

 音にならない叫びを上げ、喉元から噴水のように赤黒い液体が飛散する。ガクガクと体が激しく揺れたかと思えば、電池が無くなったオモチャのように動きをパタリと止め、地面へと倒れた。

 近づかなくてもわかる。

 正弘は死んだ。

 あっけなく、死んでしまった。

 一人で立ったままの死体は、真っ直ぐ透を見る。

 その二つの瞳は、さきほどまでの奈落の底のようなものではなく、しっかりと意思が宿っていた。

「……こ、こぉし、て」

 舌足らずな言葉で、要求された言葉に透は唾を飲み込んだ。震える指先で、照準を合わせれば血まみれの女は楽し気に笑う。

「あぁ、ああ、あい、………ありがとう、透ちゃん」

 今、この場に似つかわしくない花のような笑顔に、透の二つの瞳からぽろぽろと雫が零れ落ちる。

 今日のできごとが夢であればいいと思う。

 今日のできごとは、きっと悪い夢であればいいと願う。

「……日向」

「だから、あんたに言われなくても———」

 余った腕で、顔を拭った透には迷いは消えた。どちらにせよ、目の前の動く死体をこのままにしておくことはできないのだ。

「――――――さようなら」

 呟きとともに、放たれた蒼白い稲光は一直線に空間を切り裂き、血塗れの人形を貫いた。





 →←




 初めて見たあなたは、笑っていた。

 わたしの……。いや、腐り始めていた最愛の人を力強く抱きしめて、「おはよう、ヨシ子さん」と涙を流しながら、笑う貴方にわたしの動いていない心臓は、確かに鼓動を始めたんです。

 この家に焼き付いた幸福と不幸に惹かれてやってきたわたしは、自ら蜘蛛の巣に引っかかりにいった馬鹿な羽虫だったのです。

 彼は“わたし”に厳しかった。

 だって、彼が好きなのは“わたし”であって、“わたし”ではないのだから。それは当然のことであるはずなのに、生きていないわたしは、同じ生きていない彼女が羨ましくって、悲しくって、それ以上に与えられた愛に錯覚してしまった。

 わたしが“彼女”に近づくほど、彼は笑ってくれる。それだけが、わたしの喜びになってしまったのです。



 ――わたし自身を愛してくれている。なんて、悍ましいほどの勘違いを、どうしてしてしまえたのでしょう。



 動くためにはエネルギーが必要で、それはどんなものにも当てはまることで、世界のルールといっても間違いはないでしょう。

 彼女の腐った体さえも、動かすことができなくなっていたわたしは、このまま再び死んでもよかった。それほどまでに、不幸(幸福)な時間だった。

 それに、わたしがこのままいれば本当に世界のバランスは、加速度的に進んでしまう。わたしの想像でしかないけど、わたしが演じてきた彼女なら、彼に教えてもらった愛する彼女なら、そんなことを望むわけがないと思ったのです。

 でも、彼自身がそれを許さなかった。


 最初は森で捕まえた狸だった。―――本当は、わたしもまだ一緒にいたかった。


 次は森で捕まえた鹿だった。―――もう少しだけ、一緒にいたかった。



 その次は、子どもだった。



 どこから連れてきたのかもわからない子どもだった。

 すやすやと眠り表情は、無垢そのものであり、わたしは怖くなった。

「い、いぃ、ゃあ、だ」

 動かない口を一所懸命動かして、彼に伝える。伝えてみるけど、そんなもの無意味でした。最初からわかっていた。知っていた。いくらわたしが目の前の純真な命を拒んでも、彼に支配された身体は、わたしの意思を無視して柔い肌に歯を立て、瑞々しい肉を噛み千切る。触れる温かな生命は美味しくって――――――まだ、一緒にいれる。なんて薄暗い喜びが横たわる。




 狂っている彼と、生きていないわたしの生活は腐っていた。その匂いを誤魔化すように、咲き乱れる金木犀だけがわたしたちの愛を知っていた。




 あなたたちが来たときに、すべてわかった。

 ずっと延命していた生活の終わりを悟った。

 きっと、彼もそうだったのでしょうね。

 ハンバーグは美味しかったかしら? わたしが見つけた、彼も知らないわたしの想い。

 本当はね、透さんを食べる予定だったの。でも不思議ね。気がつけば体は作之助さんの方へ動き出していた。……今となれば、少しわかる気がするけれど、もう意味もないこと。

 怒った顔でわたしを睨む貴方。

わたしに対する怒りと、自分ではどうすることもできない不甲斐なさの狭間で、息をする貴方は、きっとわたしと同じだった。




 だから、貴方にはわかるのでしょう。

 彼女に寄り添う貴方なら、わかってしまうのでしょう。




 →←




 重なった死体を、ぼんやり見つめる。

 聞こえるのは、お互いの呼吸だけだった。

 先に動き出したのは、作之助であった。その歩みに迷いはなく、地面に倒れ伏す二人に近づき、目の前で止まる。

「なぁ、日向」

 ゆっくりと透へ向き直った作之助が、何を考えているのか透にはわからなかった。絡み合う視線は、糸くずのようにぐちゃぐちゃで疲れた脳では解くのさえ困難である。

 無言で続きを促せば、確認するように周りを見てから言葉を続けた。

「全部、燃やそう」

 それが当然とでも言うように、そうすることが正しいと信じているのか、その瞳には真っ直ぐで、どこまでも二人に対して真摯であった。

 それから二人は無言で、言葉通り全てを燃やす準備を始めた。金木犀畑も、絵本に出てきそうな屋敷も、二人の死体も、失った幸福も、焼き付いて離れない不幸も、なにもかもに火をつける。台所から持ってきたサラダ油、オリーブ油などもぶちまければ全てが轟々と燃える。

 真っ赤な熱気は、すべてを溶かし、燃やし、灰に変えていく。

「いまさらなのだけど、これ通報されないのかしら」

「あー……。まぁ、大丈夫じゃないか?」

 適当な返事であった。

「もしヤバければ、アカネさんに連絡しよう。あの人なら、なんとかできるはずだし」

「……あの女のこと、すごく信用しているのね」

 透は初めて会った日から、アカネを信用していなかった。軽薄で、無責任で、自己中心的な性格である女を信用できるわけがなかった。もちろん作之助も出会ったばかりの頃は、信用なんてしていなかったが、繰り返す日常の中で諦めが育ったのと同時に、小さい頃たまに見せてくれた魔法に心を奪われた。

 桜が見たいからと開花前の桜を咲かせたり、暑すぎるからと雪を降らせたり、紅葉をずっと見たいからって、木の時間を止めたり、寒いのは好きだったのか冬は何もなかった。思い出の中で一番印象深いのは、ハロウィン当日にすっからかんのかぼちゃのジャックの頭が、作之助が触れている間だけお菓子が無尽蔵に湧いてくる。幼い少年が、年上の怪しい女に憧れるのに時間はかからなかった。

「いや、信用とはちょっと違うな。……まぁ、育ての親ってのはあるけど、あの人はそういう伝手を持ってることを隠さないから」

 目の前で揺らめく赤色に、幼い頃の思い出がちらちらと顔を覗かせる。

 その横顔は、見たことがなかった。ここではない、どこかの現実を睨む瞳は薄暗い。それでも、透の知る作之助に変わりはない。




「………ま、使えるものは何でも使えって言うものね」

「そうそう。使えるものは使えるうちに使わないと」




 透の方へ顔を向け、へらり、と頼りなく笑った作之助に、透は少しだけ呆れたように、へらり、と笑った。






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