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夏のあと

作者: Nazka

海辺の神社の前で、太郎は立ち止まった。

蝉の声が耳を打ち、照りつける太陽が肌を焼く。

夏の始まりを告げる風が、彼の髪をかき乱した。


「花子、ここだ」


振り返ると、花子は少し離れた場所で立ち止まっていた。

白いワンピースが風になびき、長い黒髪が顔を隠している。


彼女はゆっくりと顔を上げ、神社を見た。

その瞳には、何かを思い出そうとする懸命さが宿っていた。


「この神社…来たことある?」


太郎は優しく尋ねた。

花子は小さく首を振った。


「わからない…」


彼女の言葉は常に途切れがちだった。

芳江さんが亡くなってから、花子の言葉は少なくなり、記憶も薄れているように見えた。

時々、彼女は自分が誰なのかさえ忘れてしまうことがある。


「ここは、芳江さんが君を連れてきた場所なんだ」


太郎は言った。


「小さい頃の君を。写真で見たことあるだろ?」


花子の目が少し輝いた。


「…あった。写真、あった」


夏休みの初日。太郎が大学進学のために町を離れる前の、最後の夏だった。

一緒に過ごせる時間は、あと一ヶ月もない。


「少しずつ、思い出していこう」


太郎は言った。


「芳江さんとの思い出を。そして…新しい思い出も作ろう」


花子は海を見つめていた。

遠い記憶を探るように、まぶしい水平線に目を細めていた。


「怖くない?」


太郎は尋ねた。


「…うん」


花子はかすかにうなずいた。「でも、平気」

それは彼女が長い沈黙の後に言った、最も力強い言葉だった。


***


「佐藤さん、こんにちは」


太郎は古びた椅子に座る白髪の女に挨拶した。

佐藤は神社の管理人で、芳江さんの親友だった。

花子を見ると、彼女は静かに笑顔を見せた。


「花子ちゃん、大きくなったねえ」


佐藤は穏やかな声で言った。


「最後に会ったのは…お母さんの葬儀の時かな」


花子は少し身を縮めたが、顔を上げた。


「覚えて…います」


「そう」


佐藤は満足げにうなずいた。


「記憶は、時々隠れてしまうけどね。でも消えはしないんだよ」


太郎は花子の方を見た。

彼女の目には、理解しようとする懸命さが見えた。


「芳江さんが花子をここに連れてきたのは、何のためだったんですか?」


太郎は尋ねた。


佐藤は海の方を見た。


「あの子が5歳の時、芳江さんはここで花子ちゃんに、『思い出を大切にする方法』を教えていたんだ」


「思い出を…大切に?」


「ええ。この神社には小さな祠があって、そこに願いを込めると、大切な記憶が守られるという言い伝えがあるんだよ」


花子の瞳が輝いた。


「祠…」彼女はつぶやいた。

「小さな祠…覚えてる」


太郎の心臓が高鳴った。

これが花子の記憶が戻るきっかけになるかもしれない。


「行ってみようか」


太郎は花子に手を差し伸べた。

花子は少しためらった後、その手を取った。

久しぶりの温もりに、太郎は胸が締め付けられる思いがした。


***


小さな祠は神社の奥、海に面した崖の上にあった。

木々に囲まれ、ひんやりとした空気が流れていた。

花子は静かに目を閉じた。


「ここ…来たことある」


「覚えてるの?」


太郎は驚いて尋ねた。


「うん…おかあさんと…」


それは花子が母の名前を口にした最初の瞬間だった。

太郎は、花子の中で何かが動き始めていることを感じた。

その日から、二人は毎日神社に通うようになった。


***


佐藤さんは二人に昔の話をしてくれた。

芳江さんと花子がこの町で過ごした日々、そして太郎が転校してきて三人で過ごした時間について。


ある日、佐藤さんは古い木箱を持ってきた。


「芳江さんが預けたものよ」彼女は言った。

「花子ちゃんが準備できた時に渡して欲しいって」


箱の中には、母子手帳や、小さな頃の花子の手形、貝殻でできた小さなアクセサリー、家族の写真、そして日記があった。


花子の小さな手が、一つ一つ触れるたびに、彼女の目には涙が浮かんでいた。


「おかあさんの…日記」


その日記には、芳江さんの闘病生活と、花子への思いが綴られていた。


最後のページには、花子へのメッセージがあった。


『花子へ。私がいなくなっても、あなたは一人じゃない。

あなたの記憶の中に、私はいつもいる。

そして、あなたの未来には、たくさんの人との新しい思い出が待っている。

怖がらないで、前に進んで。愛しているよ』


花子の手が震えた。


「おかあさん…」


太郎は黙って彼女の隣に座り、肩に手を置いた。

花子は涙を流しながら、太郎の胸に顔を埋めた。

それは彼女が初めて、母の死と向き合った瞬間だった。


***


その夜、太郎は眠れなかった。

花子は芳江さんの日記を読んだ後、何も言わず、自室に閉じこもってしまった。


夜が更け、あたりが静まり返ったころ。

玄関のドアが軋む音がした。


太郎は身を起こし、窓を開けた。

冷たい風とともに、白い影が夜道を歩いていくのが見えた。


「花子!」


叫んでも、彼女は振り返らなかった。

まるで夢の中を歩く人のように、ただ、まっすぐに進んでいく。


太郎は靴を引っかけて、玄関を飛び出した。

月の光が濡れたアスファルトを照らし、彼女の足音だけが夜に響いていた。


やがて、彼女が向かった先が海だと気づいた。


波打ち際に立つ花子の背中は、風にかすかに揺れていた。

太郎はそっと近づいた。


「花子、何してるんだ…?」


花子は、遠くを見つめたまま答えた。


「……ここで、お母さんと……」


声が風に溶けていく。


「ここで、最後に話したの。たしか……」


太郎の胸がざわついた。

ここは、芳江さんと花子が最後に訪れた場所――。


「お母さんは、ここで具合が悪くなったの。私を……助けて」


花子の声が震えていた。


あの日、夏の海で、花子は波にさらわれかけた。

芳江さんは迷わず海に飛び込み、花子を抱き上げた。


その無理がたたり、長い病が始まった。


――そんなことを、花子はずっと、心の奥に閉じ込めていた。


「花子……」


太郎はそっと、彼女の肩に手を置いた。


「事故だった。君のせいじゃない。誰が責めるっていうんだ?」


しばらく、花子は黙っていた。


やがて、ぽつりとつぶやいた。


「……お母さん」


そのひとことは、空気を震わせた。


「お母さん……!」


堰を切ったように、彼女の声が波打ち際に響いた。

崩れるように座り込み、泣き出した。


それは悲しみというより、罪の記憶から自分を解き放つ、痛みの声だった。


太郎は、何も言わなかった。

そっと背中に手を添え、彼女の震えが静まるのを待った。


潮風に髪がなびき、肩越しに伝わる体温が、まだ微かに震えていた。

その温もりと、夜の海の匂い、止まらない涙の気配だけが、二人のあいだに静かに流れていた。


***


「太郎くん、いつ東京に行くの?」

佐藤さんが尋ねた。太郎は神社の掃除を手伝いながら答えた。


「八月末です。夏休みが終わったら」

「そうか…」佐藤さんは少し悲しそうに笑った。


「花子ちゃんは知ってるの?」

「まだ…ちゃんと話せていません」


太郎は頭を垂れた。

花子との関係が深まるにつれ、別れを告げる勇気が持てなくなっていた。


「彼女は強くなったわ」佐藤さんは言った。


「この数週間で、ずいぶん変わった」

太郎も感じていた。花子は少しずつ言葉を取り戻し、笑顔も増えていた。

彼女と一緒に海辺を歩いたり、町の夏祭りに参加したり、普通の日々を過ごせるようになっていた。


「でも…僕がいなくなったら」

「大丈夫よ」佐藤さんは優しく言った。

「花子ちゃんは一人じゃない。私もいるし、町の人たちもいる。それに…」

「それに?」

「あなたがいなくなっても、あなたとの思い出は彼女の中に残るわ」

太郎は複雑な思いで空を見上げた。


夏の雲が風に流されていく。時間は誰も待ってくれない。

その日の夕方、太郎は花子を小さな漁港に連れて行った。

二人は桟橋の端に座り、沈みゆく太陽を眺めていた。


「花子…話があるんだ」

「うん」彼女は静かにうなずいた。


「僕は…八月末に東京へ行く。大学に進学するんだ」

花子は黙ったまま、ただ海を見つめていた。


「でも、休みには必ず帰ってくる。そして…」

「大丈夫」花子が言った。


彼女の声は静かだったが、確かだった。「太郎は…行かなきゃ」

「花子…」

「私も…行かなきゃ、ね。」

太郎は驚いて花子を見た。


彼女の目には涙があったが、同時に決意も光っていた。


太郎は胸が締め付けられる思いがした。


花子は自分の胸に手を当て、涙を浮かべ、微笑んでいた。


***


夏祭りの最終日、町は賑わいに包まれていた。

花子は太郎と一緒に、久しぶりに浴衣を着ていた。

母の形見の、藍色の浴衣だった。


「似合ってるよ」太郎は言った。

花子は照れたように笑った。「ありがとう」

二人は夜店を巡り、灯籠流しを見て、花火を待った。


太郎の東京への出発まで、あと三日しかなかった。


「花子」太郎は言った。


「僕が東京に行っても、一人で頑張りすぎないでくれ」

花子は首を傾げた。


「どういう意味?」

「無理しなくていいんだ。つらいときは、つらいって言って。

佐藤さんもいるし、町の人たちも君を心配してる」


花子はしばらく考えていたが、やがてうなずいた。


「うん。」


「もう一つ」太郎は続けた。

「何かあったら、いつでも連絡して。すぐに戻ってくるから」

花子は太郎の真剣な表情を見て、静かに笑った。


「太郎は…変わらないね」

「え?」

「いつも…私のこと、心配してくれる」

太郎は言葉に詰まった。


「それは…」

「でも…」花子は海の方を見た。


「私は、もう、大丈夫だよ。」

「強くなりたい。」

「おかあさんみたいに」


彼女は言った。

その時、最初の花火が夜空に打ち上がった。

花火の閃光が、彼女の横顔を照らし出す。

太郎はただ彼女を見つめていた。


***


出発の朝、太郎は神社に立ち寄った。


「行ってきます、佐藤さん」

佐藤は彼を抱きしめた。


「花子ちゃんは?」

「駅には来ないって。昨日、別れを言ったから」


昨日、二人は海辺の神社の祠の前で最後の時間を過ごした。

花子は小さな貝殻のアクセサリーを太郎に渡した。


「お守り」

彼女は言った。


「太郎が…寂しくなったら、これを見て」

太郎はそのアクセサリーをポケットに入れた。


「必ず帰ってくるよ」


「うん」

花子は笑顔で言った。


「待ってる」

今、駅のホームに立ち、太郎は東京行きの電車を待っていた。

スマホの画面を見ると、花子からメッセージが届いていた。


『いってらっしゃい。』

シンプルな言葉だったが、その裏にある強さを太郎は感じた。

かつて言葉さえ失っていた花子が、今は自分の言葉で思いを伝えられるようになっていた。

列車が入ってくる音が聞こえ始めた。太郎はポケットの貝殻のアクセサリーを握りしめた。


「花子 必ず戻ってくるから!」


列車に乗り込み、窓から見える町並みが徐々に遠ざかっていく最中、太郎は思わず誰もいない車内で声を出した。


しかし、それは誰にも届かない。

誰かに届くことのない声が、虚しく響き、本人の羞恥心だけを煽る。


夏の終わりを告げる雲が空を流れていた。


これが、いつかの夏の日の記憶となり、いつしかただの思い出となる事を、太郎は、静かに受け入れた。


終わり


この度初めて小説を執筆いたしました。

文学作品に日常的に親しんでいるわけではないため、描写技法はもとより、形式面や改行の用い方など、基本的な部分で不備があるかもしれません。

忌憚のないご意見・ご批評をいただければ、今後の執筆活動の貴重な糧とさせていただきます。

今後も短編を通じて修練積ませて頂きますので何卒宜しくお願い致します。

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