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今日は小説が書ける気がして

作者: たづ

私の父はとても無骨で、すばらしく生真面目な人だ。小さいころや学生時代はどうだったのか知らないけれど私が見てきた父の背中は世の女性が求める誠実さそのものを表していただろう。毎日懸命に働き、たばこはもちろんお酒も滅多に飲まないし、私が小さいころは休日に色々なところに連れて行ってもらった。お母さんにも優しいし、たまに仲良く二人でお出かけしたりなんかもしてる。家族想いで本当にいい男だと思う、自分の父親ながら。そんな父が私が生まれてすぐに私からすれば人生最大のミステイクを起こしている。生まれて来るのが女の子だと分かってから夫婦で様々な名前の案を出し合ったそうなのだが、結局決まらないままに私は帝王切開で産まれた。お母さんは私を産んですぐは体調がすぐれなかったらしく、通常の妊婦さんよりもずっと長く入院していた。そんな感じで産まれてきた赤子に名前を与えるという役割が父の一身に降りかかったのである。前々からそうなのだが父にはひどく優柔不断な節があって、基本的に夫婦間や家族での重要な決め事にはお母さんの意見が採用されることが多かった。だってその方が早いから。何十年も会社に通っているくせに朝食をトーストにするかご飯にするかくらいのことで真剣に考えこんで、決断する前にお母さんがトーストを焼き始めたりする。するといつも

「ああ、それがよかった。」

などと適当なことを言う。さしずめ父は母の言いなりなのだ。けれど私の名前を決める時はかなり即決だったみたい。

「櫂。そうだ櫂だ、お義父さん名前が決まりましたよ!」

と言って激しい握手をおじいちゃんにしたらしい。その時おじいちゃんはどう思ったんだろう。死んじゃう前にそんな話をしてみたかった。結局お母さんもあなたがそこまで推すならと、父の言いなりに従って櫂の母になった。ほんとは自分の晴っていう字を娘に与えたかったみたいだけどこの時ばかりはいつも優柔不断で長考するはずの父の意外さに、何かしら期待して折れてしまったのだろう。

櫂という名前は読むのがちょっと難しい。電話口で説明するのなんてもっと難しい。そもそもかいって呼ばせたいなら他になんかしらの字はあったろうになんでわざわざ船を漕ぐときに使う道具なの?それなら海と書いてかいという名前のほうが私的にはいいのにな。結局父は私の名の由来を、誰かの努力や挑戦を支えることのできる人になるようにとか適当な後付けをして片づけた。そのころ出版業界で働く父が海を題材にした小説の作家を担当していたと母から聞いたのは二十歳になった時だった。遅い。周りからキラキラネームとまではいかないけれど小洒落た名前だねなんて言われると、私が命名したわけじゃないのにと思ってしまって、あまり良い気はしなかった。結局私は自分の名前が好きになれないまま、なんとなく友達と遊んで、なんとなーくお母さんと同じバスケをしてなんとなーく勉強してそれなりに安定した会社に就職をした。父と同じ出版業界だったけれど自分は本が大好きだったし、そこが被ることが父をまねていることになるとは考えなかった。まあ周りはいくらでもやっぱり似るんだねとか話すけど。ただ私が父に似た性格なのは否定できなかった。まじめすぎるというか考えすぎるところがあって、生きづらいなと気づいたのは大学生になってからだった。結局死んでしまうのに何のために生きてるのか分からなくなったり、親友のちょっとした一言がいつまでも私のこころに刺さって抜けなかったり、どんなに素敵な言葉たちも口では何とでもいえると一蹴した。それでも小説の中の文章たちはいつでも私の味方だった。そこに書かれていることに嘘は何一つないと信じることが出来た。もともと自身の考えや気持ちを伝えるために創られた言葉はいつのまにか人間のこころによって限りなく不純なものになってしまったけれど、ひとまず文字になった言葉たちは身動きが取れなくなって、まっすぐに私たちを虜にする。だから本が好きだった。文字の前に人のこころは、成すすべなく降参なのだ。言葉にすると嘘になって誰かを傷つけるような活字たちがじっと私の心を見つめてくる。そんな感覚がする。


社会人になって6年目の春、出勤すると急に上司の岸川さんに呼び出されて私の異動が決定したことを伝えられた。しかも京都の関西支部まで。8年前に西日本の事業の拠点として立ち上げられたその事業部は何かと人材不足だそうで・・・

「その若さで関西エリアの営業部の課長だぞう、僕も鼻が高いよ」

ってにやにやしながら肩をポンっとたたかれた。反射的にありがとうございますとコア得たけど、本音を言うと東京を離れたくなかったし、そもそも私は編集部の社員だったはずで、上が決めたことだから断れないし昇進して給料が上がるのはラッキーだなくらいに感じた。それでもやっぱり新しいところに入っていくことには大きな不安があった。東京からきたアラサーの女課長が歓迎されている姿が想像できなかった。まるで転校生になった気分で億劫に感じた。その日は業務を早めに切り上げて缶コーヒー片手に家路を急いだ。両親以外に関西にいくことを報告しようと思っていたのは同期のうえちゃんくらいだった。お母さんは私が東京を離れることをひどく寂しがって、家を発つまで私の好きな料理を毎日作ってくれた。父は自由になさいと娘の居なくなることを寂しがる素振りを全くと言ってみせなかった。つい最近までバリバリ働いていたからだろうか、定年まであと30年以上ある私をうらやんでいるようだった。年を取って少し髪が白くなった父の背中が前よりももっと大きく感じている。



京都という街に対する印象は歴史と文化だったのが来て数か月でがらりと変わった。河原町はもはや東京と同じくらい人であふれているし、繁華街ひしめく街並みは想像の何倍も栄えていた。高校の修学旅行で見た京都はほんの一部だったんだと気づいた。新居は出町柳という学生街のはずれにある。9畳ほどの空間は一人暮らしには広すぎると思えたが家具を敷き詰めてインテリアを備えれば丁度よくなっていった。ベランダから心地いい風が吹いてきて私の前髪をなぞった。新しい環境になじめるかどうかは会社の雰囲気にかかっていると確信した。



オフィスに入ると課のみんなが私を迎えてくれて、一人一人丁寧にあいさつをしてくれた。かなり若い後輩が

「わからないことがあったらなんでも聞いてください!」と関西独特のイントネーションを交えながら言ってくれて、なんだか東京よりも人がいいように思えた。デスクや業務の流れを教えてくれたのは永井さんという方でこの人も去年に編集部から異動してきたらしい。

「営業部はやっぱり人と接する機会が多いんで、僕みたいな人見知りは毎日気疲れするんですよ。」

とニヤニヤしながら話していた。なんだか岸川さんみたいで笑いそうになったけど、さわやかで余裕がある雰囲気を漂わせている。

周りの人は私を櫂さんと呼んだ。イントネーションにそれぞれ違いがあって、声色も状況によってバラバラだったけれどかいさんという響きをこんなに心地よく感じたのはきっと生まれて初めてだった。東京での感覚が薄れていくのに時間はかからなかった。何より快く受け入れてくれたみんなに強く感謝した。

京都で暮らし始めて2か月が経った頃、東京の母から一本の電話があった。


「父さんが家に帰る途中急に倒れてしまった。もうだめかもしれない。」


私はすぐに東京行きの新幹線に飛び乗った。仕事も予定もすべてキャンセルした。健康だったはずの父がなぜ?トンネルをいくつ抜けても空はまるで海のように藍色だった。ただただごうごうとなる新幹線の車窓に頭をつけていた。病室についたのは23時頃だった。看護師の人に案内されながら父の病室の前にたどり着いた。お腹の一番深いところから嗚咽のようなため息をついて、重い重い扉を開けた。

目の前には血の気の引いた顔の父がベッドに横になっていた。母は父の手を握り、ぎゅっと力を込めていた。母は振り向いて私に気づき、憔悴した顔で私の胸にとびかかってきた。私は腕を力尽きたように腰に回す事しかできなかった。

心筋梗塞。突然の訃報。父の顔はまるで眠っているみたいで、眼を細くしてすぐにおはようといってくれるような、優しい顔をしていた。母は長い時間父に触れながら泣いていた。私は自分よりも父の死に泣きじゃくる母を茫然と眺めることしかできなかった。 

十分に悲しむ暇もないままいろいろなことを遺族である私たちはしなければならなかった。葬儀には多くの人が集まってくれて、不器用で真面目な性格の父を愛した人は想像していたよりも多かった。棺の中の父をみて、涙する人、涙を我慢する人、話しかける人、早すぎる死に怒る人、母と私はその一人一人に頭を小さく下げた。遺影を持つ母の手は震えていて、私はハンカチで何度か母の頬をぬぐった。葬儀も終盤に差し掛かったころ、一人の男に話しかけられた。

「君が櫂ちゃんか・・・」

「はい、そうですが。父の友人の方ですか?」

「いやあ・・・もう25年ほど前に智治さんに編集を担当していただいたことがあるんですよ。一緒に仕事をした期間は長くはないけどね、誰よりも純文学を愛していた彼と僕は心の通う仕事仲間であり、年の近い友達なんですよ。担当を離れてからは時折連絡を取るくらいだったのですが、毎年年賀状で、櫂ちゃん、君の成長を報告していてくれたんだよ。」

驚いた。私の知らない人でそんな人がいたなんて。どうやら母も知らないような人みたいで、近藤さんという細く背の高い男は丁寧に母に挨拶をしていた。父の勤める会社から葬儀の連絡があったみたいで生活の拠点である北九州から駆けつけてくれたようだ。

「櫂ちゃん、智治さんにもそうだが、今日は君にも会いたくて来たんだよ。一つ渡すものがあって。」

そう言って私は1つのビデオテープを渡された。

「君が生まれる前にね海をテーマにした小説を書いたんだけど、僕は書いてる途中で行き詰ってね、担当編集である智治さんと海に行ったんだよ、それも瀬戸内海の島までね。その時君はお母さんのお腹の中にいて、智治さんは君の誕生を待ちわびていた。その時二人で小舟の上で話した話がね、僕は今でも昨日のことのように思えるんだよ。それくらいあの時の僕らは、海は美しかった。その時の会話をね僕はずっと持っていたくてテープに収めたんだよ・・・」

涙ぐんだ表情の近藤さんは小さな声で、君に聞いてほしいと私の手にテープを委ねて、去っていった。私はそれをポケットに入れて斎場を後にした。火葬が終わって私達がしなければならないことは一応終わってしまった。母は、まだ病室にいたときと同じ表情をしていた。もう握ることの出来ない父の手をずっと探しているようだった。それでも、私には

「櫂ももう京都に戻りなさい。仕事再開しなきゃでしょう?」

母さんは大丈夫だからと私を駅まで見送って帰っていった。新大阪行きの新幹線に乗って京都までの帰路についた私は、また窓に頭をつけていた。近藤さんにもらったビデオテープをすぐに聞いてみたくて心がはやった。空は、名古屋を抜けて気持ちとは裏腹に快晴だった。


私はビデオデッキをもっていなかった。京都の古い家電屋さんをいくつか回ってやっと手に入れることが出来た。もう二十年以上たっているのに、近藤さんのくれたビデオテープは今日の今を記録したかのように清潔に保たれていた。部屋を少しだけ暗くして、がしゃっとした音とともに聞きなじみのある感覚のする音が響き渡った。鼓動が高まって私はこのビデオを観ることが、個人である父の娘に隠していた秘密を除いているように思えて胸が詰まった。



「結構沖まで来たんじゃないですか。」

波の音とともに父の声が聞こえる。かなり若く、聞きなれている声ではなかったが、はっきりと父の声だと感覚的に理解することが出来た。

「どうですか。実際こうやって海の上にいるとなにか・・・アイデアもでてきそうでしょ。」

「そうだな。思っている以上に海は壮大で青というよりは紺、いや藍色っていう感じだな。」

「悩むと海に来る人がいるっていうのもわかります。すべてを受け入れてくれるような、自分の悩みがちっぽけになるとか、きっとそんな感じなんでしょう。」

「小説家のネームが浮かばんという悩みは受け入れてくれそうにないな。」

「ははっ、まあいいんですよ、こうやって海を感じると文章も変わる。文章が変わると物語が変わる。そうやって作品は受け入れられていくんですよ。誰かの心になにか与えることが出来るんですよ。」

淡々と続く二人の会話は波の音で時折聞こえづらかった。

「大丈夫なのか?」

「えっ、何がです。」

「智さん、娘さんうまれるんだろ。今月の末だろ確か。出産ってのはいつ何が起こるか分かんねえのに、担当作家のために瀬戸内まで海をっていうのは、子供のいない俺が言うのもなんだけど、出版人過ぎるよそれは。奥さん寂しいぜきっと。」

「まあでも、本のためですからね・・・きっとこういう時に仕事の前も後も真っ先に会いに行く、休みの日には傍でずっと手を握るような旦那が良いんでしょうけど。けど、僕は妻を本当に愛しているんですよ。」

「どのくらい?」

「本くらい」

「お前ははははっ、そんなんいったら怒られちまうよ。」

「でもまあ、子供ができたら今みたいに本のためなら何でもするっていうのは出来ないですね。きっとかわいくて仕方ないだろうから。前みたいに朝まで飲んだりしませんよ」

「祝い酒くらいさせてくれや。ま、とはいえ娘にもたくさん本を読ますんだろ?」

「そこまでは縛りませんよ。ただ、いつか僕がしている出版という仕事の美しさ、誰かの心に光を届けることの信念を、少しでも感じてほしいとは思います。」

「そうだな、本は、文学はすごい。最近便利なもの増えてきてるだろ。大切にされる価値がどんどん増えてきてなにが人間として大切なのか、大切にすべき価値っていうのも

薄れちまってる。そんな世の中でも文学は誰にでも平等に心に水だったり、光だったり言語化できないものを与えることが出来る。智さんおれは売れてはねえけど、だれよりも文学の可能性を信じてるんだよ。」

「私もです・・・好きだけじゃここまで出版社で働くことは出来なかったと思います。」

ああそうだという相槌が小さく聞こえる。

「どういう人になってほしいんだよ。子供には。」

「例えば、この海みたいに、広く深く淡い心をもって・・・いやそれじゃあだめだな。」

「ん?」

「海には恐ろしさもある。」

「そらあそうだ。」

「世の中はこの海みたいに時に美しく、時に荒ぶるほどに恐ろしい。たくさんの生き物たちの食物連鎖が喜びも悲しみもはらんでいる。だからそんな海を強くわたるような・・・」

「舟か?この小舟みたいな。」

「いやあそれはサザエさんだといじめられますよ。」

「はっはっはっそうだな。」

「それに舟じゃあ誰かに乗られる利用されるみたいなもんだい。このオールみたいに強く前に進んで・・海の喜びも悲しみも触れて、時に誰かのために海に溺れるような強い・・」

「オールの方が誰かのために使いこまれるみたいに思われるぜ。」

「心がある。心のあるオール。だから誰かのために存在するような人になれる。」

「俺より作家だな。」

「ふっ。櫂だな。いわば。」

「きっと智さんの子供だから優しい子に育つよ。考えすぎる性格は損だけど。」

「僕最近思うんですよ。考える悩むは悪いことじゃない。それがあるから人の気持ちが分かるんです。分かるから悲しくつらいこともあるけど。喜びも幸せも同じように深く感じることが出来る。濃い人生を送れる。」

「そうかい。きっと娘さん智さんに似るよ。」

「明るい海も暗い海も触れながら前に進んでほしい。」


ぶつっと急に音声が途絶えた。


父は、口数の少ない人だった。多くを語らないのはその性格のせいではなく、母とそして私を優先していたからかもしれない。誰かの顔色を優先していた私は、自分よりも繊細な家族のうえにあった。その優しさは何の本にも描かれてはいないものだった。

携帯が鳴った。母からだ。

「もしもし」

「櫂ちゃん辛ければいつでも帰ってくるのよ」

「母さん、私言葉が好きなの。字が、文が好きなの。だから本の仕事を始めた。」

「うん」


そのあとに続く言葉が出てこなかった。言えないことではなくて、心の中を掴むことが出来ない。

「近藤さんに会ってくる」

次の日、私は京都駅にいた。小倉までの切符をもって。母も同行したがっていたが最終的には何か察知したのか一人で行くように促された。察知されるような何かをまだ私は言葉にできない。人生で初めて衝動を心に抱いたような気がしている。

自由席の前から三列目。窓の外には知らない誰かの見送りをする人たち。この人たちもまた、もう会えない誰かを見送っているのかもしれない。のぞみは動きだした。すぐに空が見えた。心を何かになぞらえるとしたら空でありたいと唱えた。今日は、いや今は小説を書ける気がしていた。子供の頃憧れた名作家たちのように・・・


パソコンを開いて、ワードをクリック。マウスを動かした。


私の父はとても無骨で、誰よりも優しい人だった。





 

 









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