宮崎県・西都原古墳群は邪馬台国じゃない!a
多分なのですがこれを読まれた数少ない方は少なからず、ヒミコとか邪馬台国とか書いてる癖に一行に「水行・陸行」「長里・短里」「東・南」が出て来ないじゃないか、トンデモ素人野郎だなっ! と思われると思うのですが、はいその通り素人なのです……という訳で、何でヒミコ邪馬台国に付き物の「水行・陸行」やらが出て来ないかですが、まず「嫌い」なんです。何であんな何里だとか東だとか南とか考えなくちゃダメなんでしょうか? 邪馬台国本を見る時も大体飛ばして読んでます。数字に弱いんです。
所が割とあれの謎解きみたいな奴が好きな方が多いらしく、「邪馬台国の謎解明!」みたいな本を見ると大抵魏志倭人伝の謎(水行・陸行・単長里・北南)を遂に解いたとか難しい事が書いてあります。あれって意味あるんですかね? あれは何となくこの辺りかなという参考情報くらいにはなるけど、あれで決定打になる事は無いと思われる。よくある「中国(曹魏)が自国の都合で適当に書いた」という説に賛同する。
そうした説を突き詰めて行くと「邪馬台国は無かった」「ヒミコは居なかった」という所まで行くのだろうが、これを書いている人間は「それその者ズバリ」はもしかしたら無かったり居なかったりする可能性はあるが、「何の片鱗も無かった」という事は無いと思っている。そもそも第12代景行天皇が何年も掛けて「遠征」しているのだから、何か「政権なりクニ」が無い訳が無い。本当に穴倉に住んでるバラバラな土蜘蛛・熊襲しか居ないのだったら瞬殺で九州征服していないとおかしい。実際は遠征と言っても戦国時代の豊臣秀吉の九州征伐とはまるで違い、一旦上陸してから宮を建て田畑を作り地元の有力者と交流しつつ徐々に徐々に侵食して行った物だろうと思う。今現在がスピード化の時代なら、昔に行くほどスピードがのろいという事になる。
しかも古代から文化の差は兎も角、技術力の差は本州より北九州の方が高かったと思われる。ぶっちゃけた言い方をすれば九州が都会で本州は田舎なのだから、田舎が都会を併合したという事になる。何故そうした事になったのか、とても嫌な例えだけど、九州を「中華の中原」に本州を「モンゴルとか女真族」に置き換えれば分かりやすい。ずっと古い時代から九州は中華の帝国と交流を持って最先端の地域だと自負していたはずだけど、それがいつの間にか周辺民族みたいな本州の原ヤマト政権に負けてしまっていた……それが日本の建国の成り立ちだと思っています。で、その本州の勢力というのが縄文人だと言う訳です。
中国→朝鮮半島→九州→本州
だと思われていた古代の民族の流れが、実は
本州→九州→朝鮮半島
だったという事です。その証拠となるのが九州各地に作られた前方後円墳になります。前方後円墳は本州の各地の古墳の形式を合体させた物という説が正しいなら、本州→九州の順に作られていったという事になって、九州の前方後円墳はヤマト政権への参加の証という事になります。
続く。