邪馬台国九州説と、いわゆる九州王朝説の違いa
本屋で立ち読みをしていると、「おっ邪馬台国九州説の本を発見したぞ」と喜んで見ていて、「す、凄い自分の考えとほぼ同じだっ」等とそのまま喜んで立ち読み進めて行くと、突然途中から「その倭国・邪馬台国が真の正統日本であり、その王朝は白村江の戦いまで続いた……」とか書いている訳です。
「何だ、九州王朝説モノか~」とガックリする事がしばしば。これは邪馬台国九州説派あるあるだと思うのですがどうでしょうか。
以前に書いたのですが、所謂魏志倭人伝が当時の日本の様相について一から百まで全部完全に把握している訳も無く、中国の正史なのだから日本の代表政権を描写しているに違いない、だから今現在一番巨大な弥生遺跡である纏向遺跡が邪馬台国だ、等とする畿内説近畿説には全く説得力の無い物だと思っています。
これも書いたのですが、馬の無い当時の日本で寒冷化による食料不足で起こった【倭国大乱】で大量の兵糧と移動手段が必要になる大遠征は起こるはずも無く、各地域ブロックをはみ出し、九州の伊都国と近畿の唐古鍵や東海や吉備が話し合って日本の統一女王を決めるなんて事は、起こる訳無いと本気で思っています。
という訳で倭国乱も邪馬台国も九州のごくごく一部のローカルな範囲であると想定しているのですが、それとピッタリと範囲が被ってしまうのが九州王朝説なのです。両説は「前半部分」はほぼ主張が同じなのです。
つまり倭国とは後の日本全体の事では無くて、北部九州の一部と朝鮮半島南部を含めた海峡国家(主体は九州北部)であり、当時の中国の漢や三国の魏などもその認識であった。それが徐々に本州の倭種の国である後のヤマト政権が侵食を開始、最終的に「もとは小国であった日本に飲み込まれた、あるいは倭という名前が醜く日本に変更した」と記される様になる訳です。
問題は時期……
内容的には邪馬台国九州説と九州王朝説はほぼ同じなのですが、最大の違いはその王朝が「終わる時期」という事になります。
邪馬台国九州説も魏志倭人伝の狗奴国に負けて滅亡とか、東に東遷して大和政権になったとか(両説とも支持してません。邪馬台国は狗奴国に負けてません)いろいろ違いがあるので一概には言えないのですが、少なくとも景行天皇から神功皇后の活躍する年代までくらいには、薄まって消えて行くと考えていると思っています。
所が九州王朝説の場合は、はっきりと「九州筑紫君磐井の乱」までかあるいは「白村江の戦い」近辺まで続いたと定義している様です。
邪馬台国九州説
景行天皇(日本武尊父)ごろまで存続
神功皇后(応神天皇母)ごろまで存続
九州王朝説(倭の五王以降)
527年 筑紫君磐井の乱(継体天皇)まで存続
663年 白村江の戦いまで存続
672年 壬申の乱まで存続
続く。