やっぱり邪馬台国は畿内奈良県はありえない!
畿内説の本等を読むと、中国の正史、史書なのだから日本の地方の一部分を描写した訳が無い、日本を代表する王権を表したに違いない、だからヤマト政権の前身となった邪馬台国は当時最大の畿内の奈良県の纏向遺跡に違いない、そう決まっているみたいな紋切型の事が書いてあります。
こうした物を見ると、現代人が見ている統一日本国という感覚を古代人が持ってる訳ないでしょ! と思ってしまう。そもそも古事記日本書紀ですら日本を統一事業開始したのが第10代崇神天皇の時代と書いてあるのに、卑弥呼や邪馬台国の時代に内外の感覚として倭人代表・日本国代表として見る事が間違っている。「古代に天皇という言葉は日本に無かった! だから天皇は居なかった」とか書いておいて、「当時の倭人の中心は邪馬台国、大和王権の元」とか書いてあると二重三重に矛盾した表現になっている訳です。
江戸時代ですら「あんたのクニはどこだい?」と聞いてるくらいで、まして弥生時代には統一政権などあり得る訳ありません。だから日本を代表する政権に違いないから近畿奈良に違い無いという発想自体が間違いです。そもそも中国史書なのだから、絶対に間違い無くて日本で最大の政権や王権と通信していたのに違いないという「思い込み」も間違っている。
何故そう断言出来るかと言えば、お隣の朝鮮半島の記述が似た様な状況だからです。南端の倭人が移り住んだ地域「狗邪韓国」以外の地域で馬韓・辰韓・弁辰と三つの区分けをして別々の国と書いている事実があります。そこには当然韓国だとか近現代の国の感覚は無いです。何故か邪馬台国本の中でもこの韓伝の事をすっぽり無視して書いている物があってそういうのは論外と言えます。韓伝の状況を踏まえれば「当時の日本の代表はー」みたいな論調が如何に無意味かと分かると思います。
それに付随する様に、距離は兎も角方位的には完全に九州に該当して、近畿説の人々もフミ国までは一致している状況。それで「男子無大小、皆黥面文身。」「今倭水人好沈没捕魚蛤」という南方系の風俗、さらに「南の狗奴国と戦争する」という状況は全て九州以外あり得ない、しかもさらに東には倭種の国々があると書いてある時点でやはり九州しかあり得ないです。
畿内奈良県に纏向遺跡という当時最大の遺跡や箸墓古墳があった……それは後に大和朝廷に繋がるそういう王権が別にあったんでしょう、というだけの事と言えます。卑弥呼や邪馬台国とは何の関係も無い。日本書紀にも時代の正確性は兎も角、神功皇后の時代に卑弥呼や邪馬台国の朝貢を匂わせて「別々」だとほのめかしています。それを無理やり神功皇后=卑弥呼だと言い張る人がいるのですが、ちゃんと読めばその後の神功皇后の活躍と卑弥呼が全く違う人物だと分かります。
・中国史書だからと当時の日本列島全てを正確に把握してるとは限らない。
・卑弥呼や邪馬台国が必ずしも倭人全体の代表とは断言出来ない。
・東にさらに倭種の国があると書いている。
・韓伝が半島内にいくつもの国々を描写している。
・方位だけを見ると完全に九州説。
・書かれている風俗が完全に海人族南方系で海無し県奈良とは無関係。
・フミ国までは九州内で一致してるのに、その後一気に飛びすぎ。
・南の狗奴国と戦争と書いているのに東海や東国では不自然。
・そもそも纏向遺跡に東海系の土器が多数出土する。
ついでに後々の中国史書に、邪馬台国とは大和の事なり、と書いてしまっている物があるのですが、それをして「邪馬台国=畿内=大和政権」の証拠としている人がたまにいるのですが、そんな物「混同している」だけだと思っています。何しろ九州に山門という地名がある様に、山に囲まれたり山々の入り口だったりする地形やそれにちなんだ地名は各地にあるからです。似た地名どうし有力な王権どうしを後に結び付けて混同しているだけ、と思っています。両者には何の関係も無い。
邪馬台国九州説の方の多くが、九州説を採用する所以が東遷説を推したいからで「九州説のキモが東遷」だと思っている人が多くて、だからこれを書いている人間は少数派でしょうが、「東遷など無理」だと思っています。証拠も特にありません! 神武天皇の東遷と邪馬台国東遷を結び付ける方もいるのですが、時代性が全然違います。
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